日本の社会そのものが巨大な「サイコパス」なのではないのか?
再び「良心をもたない人たち(マーサ・スタウト 著)」の話。
この本の中では、日本を含む東アジアの国ではサイコパスの割合が少ない、ということになっているのですが……、
どうしても違和感を拭えません。
上記の記述はネット上の書評でも頻繁に引用されていて、実際に本書を読む前から、私も知っていました。
「サイコパス」で検索すると、「東洋では西洋より少ないらしい」というような情報が散見されるはずです。おそらくこの本からの引用です。
ちなみに、そこに関して「そんなわけないんじゃない?」という疑念があったことが、私がこの本を実際に読むことにした理由の一つです。
が、実際に読んでみても、疑念は晴れませんでした。
本書によると、日本を含む東アジアの国々では「サイコパス」の割合が「25人に1人」よりも低い、らしい、のですが、
日本人として、日本社会の「陰湿さ」を身をもって知っている私としては、
心理学用語としての「サイコパス」の定義は さておき、
日本が他の国と比べて「いい人が多い国」だとは、どうしても思えません。
それとも東アジアの中で日本だけが例外で、他の国では、陰湿なところがなく、いい人が多い、のでしょうか?
案外そうなのかも?
少なくとも、この本の著者は、日本社会の陰湿さを実際に知った上で書いている、というわけではないと思います。
単に大雑把な統計データを見て「東アジアでは……」と言っているだけなのでしょう。多分。
だからと言って、それは何も、この本の価値を下げるものではないと思います。
著者は心理学者ではあっても人類学者ではないので、フィールドワークをする必要はない。
そしてこの本も、アメリカで暮らすアメリカ人の読者に向けて書かれた「実用書」なのであって、
厳密な学術論文でもなければ、文化論の本でもない。
だから、これでいい。
日本人の私としては、この本が「そういうものである」と割り切って、その点を差し引いて考えたい。
では、どのように差し引くか?
そもそも、「良心(conscience)」という概念を疑いたい。
もしかすると、日本の社会には存在しないものなのではないか?
以下、乱暴な切り分けであることを承知の上で、「個人主義の西洋(アメリカ)」と「集団主義の日本」という言い方をします。
さて、この本を一読した上で一言で言うならば、
この本で言うところの「良心」とは、とどのつまり、「利他心」のことです。
(その逆は「利己心」。「サイコパス」とは徹底的に利己的な人間、ということになるでしょう)
では、その「利他心」が「良心」である、とは、どういうことか?
西洋(アメリカ)社会は個人主義、つまり、成員の1人1人が、それぞれに、主体的で自由な意志を持った個人、です。
そうした個人は、自己の利益を最大にすることを目的に振舞う(と、される)。
すなわち、そうした個人が集まっている社会とは、個人と個人が互いの利益を巡って衝突し合う、いわば戦場のような場所、として認識されることになる。
かの有名な「万人の万人に対する闘争」という言葉に、そうした認識が表現されていると言えるでしょう。
そうした「戦場」において、にも関わらず、他者の利益を考慮する。だからこそ、価値がある。
個人がその主体的で自由な意志の判断で、他者(別の個人)を利する行動をする。それが「良心」と言えるでしょう。
それに対して我が日本ではどうか?
日本は集団主義なのでした。そこには、主体的な意志を持った個人、というものは、そもそも存在していない。あるいは、存在が許されていない。
成員が、そのような「個人」であることは、執拗に禁止されている。
成員は、そもそも、集団のために振舞うことが期待されている。
これを「利他」と呼ぶのは少々抵抗がありますが、ときにある種のプロパガンダとして「利他」とも呼ばれ、そのような行動が強制されている。
そこでは「利他的に」振舞うことは命令であり、それができないことは処罰の対象となる。
ましてや意志を持った個人として集団から独立して主体的に振舞うことなどは認められていない。
すなわち、この場所では、個人が自由な意志にもとづいて他者(別の個人)の利益を考慮する、ということは不可能です。
個人が、他の個人に対して行うから、それが「良心」と解されるところの「利他」なのだとすれば、
個人が存在しない空間では、そのような行為をする主体としての個人(自己)も存在せず、その行為の対象となる個人(他者)もまた存在しない。
したがって「良心」も存在しえない。
あるのは、ただ、「集団(の規範)」と、そこから逸脱しかねない「個人未満の何か」だけです。
この本の中ではさまざまな「サイコパス」の事例が紹介されており、
それとともに彼ら彼女らの「手口」も紹介されています。
被害者を食い物にする「サイコパス」たちの手法、です。
具体例はそれぞれですが、共通しているのは、
被害者を心理的に追い詰めることで、自律した個人としての判断力及び行動力を抑圧する、という点です。
そういう心理状態に追い込んでおいて、意のままに操る。
これは、集団主義である日本社会が、その成員に対して行っているのと同じことではないでしょうか?
社会自体が「サイコパス」です。
成員に対し、常に脅しをかけて、萎縮させ、個人としての判断力を失わせている。
たとえ「自分の頭で考えることの大切さ」などと言っても、結局のところ、考えた結果が集団の規範と一致していることが期待されている。
個人として考えたことが尊重されるわけではない。
それはつまり「わかってるよな?」という脅しです。
こうした「空気」の中で、絶えず、萎縮させられ、意志を持つことを禁じられている。
「良心」という言葉さえ「集団の規範」に置き換えられ、骨を抜かれて、取り込まれてしまう。自律した意志を持つ道は徹底的に塞がれている。
個人主義の社会における「サイコパス」の「手口」は、
被害者の主体性を奪ってしまう、というものです。
成員が主体ある個人として振舞うことが期待されている社会にありながら、その主体性を奪われてしまう。
だからこそ、それが「被害」なのだと言えます。
それに対し、集団主義の日本で、その成員に対して起きている現象は、いわば、この社会での「道徳律」として作用します。
それは成員が社会の一員として「一人前」であるための規範なのであって、「被害」などではありえない。
かくして、意志を持たぬ「個人未満の何か」の集団が、困難な事態に遭っても自己主張もせず、協調して平和に暮らしている、ように外部からは見える。
この社会自体が巨大な「サイコパス」として、その成員の主体性を奪い続けている、などとは外部の者には気付く由もない。
そうなのだとすると、
現にそこに身を置いている私やあなたはどうすればよいのでしょう?
本書には「サイコパス」の被害者に向けてのアドバイスも書かれていました。
全部で13項目もあるのですが、「奪われた主体性を取り戻すこと」と一言でまとめることにします。
そもそもが個人主義の社会であるがゆえに、個人としての主体性を奪われることが「被害」であり、また、
それを取り戻して「主体的な個人」に復帰することが、患者として著者のクリニックを訪れた被害者たちにとっての「回復」と言えるのでしょう。
しかしながら、集団主義の我が国では、そもそも「主体的な個人」になることは、社会的に許されていないのでした。
「サイコパス」からの心理攻撃は、社会の規範という姿をとり、個人主義の社会におけるよりも、なお一層、陰湿に心をえぐる。
「主体的な個人」であることは、「わがまま」で「協調性のない」「未熟な」ことであり、
一方「サイコパス」からの心理攻撃を内面化し、同じ論理を身に着けることこそが、社会の成員として「一人前の」「成熟した」「大人」と見なされる。
被害者は「被害者」に さえ ならず、無自覚のうちに「加害者=社会」に同化していく。
「サイコパス」としての社会は、そこから逸脱しようとする「個人未満の何か」のエネルギーを喰らいながら、その生命を維持し続ける。
うん。こじれてますね。
本書でのアドバイスの中に「復讐しようなどと考えず、自分が幸せになることを考えましょう」という意味のことが書かれています。
我が国における幸せとは何でしょう?
いや、人間にとって、というべきでしょうか。そして、それが我が国で可能なのか?
良心をもたないサイコパスをまともに相手にしても無駄なので、関係を断って生活することも推奨されています。
では、日本という社会そのものが「サイコパス」なのだとすれば……?
日本を出るしかない、ということでしょうか。
案外そうなのかも?
どこに行こうかな。
今晩、あなたの部屋に泊めてくださらない?
> うん。こじれてますね。
世の中がいかにクソだとしても、せめて自分の身の回りだけはクソじゃないようにしよう、という態度、があり得る。
しかし、この「こじれた」空間では、それさえ挫折する。
たとえば「私」と「あなた」が関わり合っているとして、
「私はあなたの主体性を尊重しよう」と心がけることが「私」にはできるかもしれない。
しかし肝心の「あなた」の側に「主体的な存在であろう」とする意志がなく、また、
社会の側も「あなた」が主体的な個人であることを許容しない。
すなわち「私はあなたの主体性を尊重しよう」という心がけは最初から成立の可能性を閉ざされている。
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