「良心をもたない人たち(マーサ・スタウト 著)」を読みました。
有名な「25人に1人」というフレーズでおなじみのアレですね。
本書の存在意義については、基本的に賛同します。
「良心をもたない」存在が我々と同じ人間のフリをして、社会に紛れ込んでいるという警告。
しかし、あるいは、だからこそ、「良心」を持って生きることは、この上なく幸せなことなのである、という応援のメッセージ。
本書の意義は上記の2点にあると私は解釈しました。そして2点とも、私は賛同します。
ただ、気になった点がいくつかあります。
■ 日本は「サイコパス」の割合が低い? 本当に?
「25人に1人」というのが、社会の中にいる「良心をもたない人」の割合、とのことですが、
この割合は文化圏によって違いがあり、本書によると、日本を含む東アジアの国々ではこの割合は低い、とのことです。
私の実感とは合わない。
どのような調査を行ったのでしょう?
本書を一読した限りでは、統計データをどのように得たのかはよくわかりませんでした。
数字をそのまま「サイコパス」の割合と見ていいのかどうかは疑問が残ります。
数字の低さが表しているのは、「サイコパス」が より巧妙に自らの存在を隠しているという恐るべき可能性なのかもしれません。
外国の事情は知らないのですが、日本は「サイコパス」にとって、とても「都合のいい社会」ではないでしょうか?
何か被害を受けても、その被害を主張して加害者を責めることは悪いことであると見なされる。
我慢して耐え忍ぶことが美しいことであるということになっている。
人をゆるさなければ、それは人間として未熟な証拠である、と見なされている。
加害者に甘い。被害者に厳しい。
これは「良心をもたない人たち」にとって、実に都合がいい環境であるはずです。
このような環境で、本当に「サイコパス」の割合は低いでしょうか?
どのような方法で調査をしたのかはわかりませんが、数字に表れにくいだけなのではないでしょうか?
また、相手の良心につけこんで罪悪感を煽る、ということも我々の身の回りで日常的に行われています。
「そんなことで目くじらを立てるなんて心が狭い」だとか。
「自分だけが正しいと思っているのか?」だとか。
「おまえだって人のことは言えないんじゃないのか?」だとか。
「良心のある人」は、こういうことを言われると、「ひるむ」。
「サイコパス」は、それをよーく心得ている。
こういう言葉を駆使すれば、相手が自信を失くして引き下がるということを、よーく知っている。その「弱点」を、ためらわずに利用する。
(もちろん「サイコパス」自身がそうした言葉の通りに反省することは一切合切ない)
こうした言動が、日本ではあまりにも日常的すぎて、違和感を感じなくなっているのではないか?
それが「サイコパス」にとって都合のいい環境を作っているということに気付きにくいのではないか?
注意したいのは、本書が翻訳本であるということです。
著者はアメリカ人であり、アメリカ社会の事情を念頭において書かれているのでしょう。
おそらく、アメリカに住むアメリカ人を主な読者と想定し、彼ら彼女らに向けて書かれている。
そして上記の「東アジアでは割合が低い」というパートも、その文脈に沿って書かれています。
すなわち、アメリカとは異なる価値観の社会を参考にして、
私たちの社会(アメリカ)での「サイコパス」対策を考えてはどうでしょうか? というのが文意である。そのように私は読み取りました。
だからこの箇所を、日本社会に対する称賛であるなどと受け取ってしまうとしたら、それは大きな誤解だと思います。
本書では、西洋(アメリカ)では個人主義的な価値観が強いから、「サイコパス」の利己的な行動を許してしまうが、
東洋では集団主義の傾向が強いから、「サイコパス」は存在しにくいのだ、というようなことが書かれています。
しかし、日本に生まれ育った日本人である私に言わせれば、
集団主義だからこそ、「サイコパス」にとって都合がいい環境になっていると思わざるを得ません。
この箇所は、著者自身が身を置いている西洋社会に対する自己反省である、と解するべきしょう。
我々には、我々自身の自己反省がありえるはずです。
たとえば、被害に泣き寝入りせず、(個人主義をみならって)自己主張した方がいいのではないか?
集団の規範に埋没するのではなく、一人一人の人間性に向き合うべきではないか? などなど。
念のため書き添えておくと、上記の指摘は本書への批判ではありません。
我々日本人が本書を読む際に、留意すべき点であろう、という指摘です。
本書はそもそもアメリカ人の著者がアメリカ人の読者に向けて書いたものであり、
その文脈の中で、アメリカとは違う価値観の社会を参考にするために、東アジアの国々でのデータが紹介されているだけです。
本書のどこを読んでも「日本はいい国だ!」などとは一言も書いてありません。
むしろこの本が日本語に翻訳されて多くの人に読まれているという事実が、
日本でも「サイコパス」の問題が存在していることの証左であるはずです。
本当に「サイコパス」が少ないなら、この本に興味を持つ人も少ないのではないでしょうか?
表面には出にくいだけで、潜在的には存在している。そしてだからこそ、より恐ろしい。そんなふうに思います。
■ ペット事情
本書の中で、「飼いinuをかわいがること」が「良心にもとづいた行動」の例として書かれています。
これはマズイ。非常にマズイ。発禁レベルのマズさです。
アメリカと日本ではペット事情も異なるのでしょう。
アメリカではどうなのか、私は知りません。
しかし日本ではどうか?
日本の住宅事情では、よほど広大な敷地を所有している大富豪でもないかぎり、
inuなどを飼えば必ず人に迷惑をかけます。
「自分だけは例外」などと思っているとしたら、それこそ「良心のない人」です。
それでいて「自分は生き物を愛する善良な人間」という印象を他人に与えることができる。
まさに「サイコパス」にとって非常に「便利な道具」と言えるでしょう。
また「良心」の有無とは少し違うかもしれませんが、
「自分が好きなものは、他人も同じように好きに決まっている」という思い込み。
そのような思い込みなしに、自分以外の人間がたくさんいる街の中に飼いinuを連れ出すなどという暴挙は不可能です。
他人の気持ちを想像することができない。
これも「サイコパス」と部分的に重なるものがあるのではないでしょうか?
もちろん本書の中で「事例」として挙げられているものは全て著者の創作です。
心理セラピストとして守秘義務のある著者が、本にするために便宜的に作り上げたものです。
この inu の件もそうした創作の一つであるはずです。
本書のどこを読んでも「inuを飼うことは良心がある証拠だ! 良心ある人は inuを飼いなさい!」などとは一言も書かれていません。
あくまでも、自分以外の存在を思いやることの一例、いわば寓話なのであって、「inuを飼わないやつはサイコパスだ!」などとはどこにも書かれていない。
さらに本書はアメリカ人の著者がアメリカ人の読者を想定して書いたものであり、
アメリカ社会の事情にもとづいて書かれている。そういうものであるはずです。
日本に住む日本人である我々は、そこのところを差し引いて読む必要がある。
この箇所が、昨今の我が国での行過ぎたペットブームに余計な勢いを与えないことを切に望みます。いやほんと。たのむわ。勘弁して欲しい。
「訳者あとがき」によると「日本の事情に合わない箇所は省いた」とのことですが、inuの箇所も省いて欲しかった。誤解の温床ですよ。こわい。
誤解というか、意図的な曲解、悪用、の恰好のネタというべきですね。やつらに「エサ」を与えてしまっている。
もしかして訳者や編集者が、inu飼育者だったりするのかも。ありえる。ありえるなぁ。
■ 「ヒモ」は「サイコパス」なのか?
本書によると、一口に「サイコパス」と言っても様々なタイプが存在するそうです。
その中の一類型として、いわゆる「ヒモ」タイプの男性が紹介されていました。
自分は家計を支えず、子供の面倒も見ず、配偶者にだけ生活上の責任を押し付けて、自分は日がな一日ダラダラしている。
たまりかねて苦情を言っても聞く耳を持たない。あるいは空涙を流して同情を誘う。
この事例は、「ヒモ」を養うことで精神的に疲弊した女性が心理セラピストである著者のもとを訪れ、
その女性の話から推測するに、その「ヒモ」の男性はどうやら「サイコパス」であろう、というものです。
つまりこれは、「サイコパス」には活動的ではないタイプのものもいる、という例です。
「サイコパス」というと積極的に悪事を行う大物の悪党を思い浮かべるかもしれませんが、
そうとは限らず、このような一見グータラした人間も「サイコパス」の一種である可能性がある、という話です。
本書のこの箇所に異議を唱えるつもりはないのですが、
昨今の日本の社会事情を鑑みるに、いわゆる「ニート」や「引きこもり」と言った人々は、決して珍しいものではなくなっているはずです。
そうした人々に対して「働かないのは悪いことだ!」というプレッシャーは、もうすでに、充分すぎるほど存在しています。
そこへさらに「サイコパスの可能性」という疑いが加わると、どうなるか? 本人たちをこれまで以上に追い詰めてしまう。
彼らにプレッシャーを与えている側も、それに疑いを抱かなくなる。
本書のこの箇所は「サイコパス」には幅広い類型が存在することを示すものなのであって、
決して、労働の義務について説いているわけではない。
著者自身が「労働」についてどういう考えの持ち主なのかは知りませんが、少なくともこの箇所は、そういう話ではない。またこの本自体そういう本ではない。
(そしてもちろん、アメリカと日本の社会事情を同列には語れない)
労働のあり方を考え直す時期に、私たちはきていると思います。
それを促す兆候は確実にある。
(ブラック企業、派遣法、ベーシックインカム、などなど)
いわゆる、従来的な意味での「真面目に働く」ことが、幸せから遠ざかることにつながってしまう。
そのことに、人々が気付き始めている。
本書のこの箇所が、(せっかくの)そうした動きに逆行する作用をしてしまうのではないか? 心配です。
■ 著者が「心理学者」であることの意義と限界
著者は心理学者です。宗教家ではない。
いや、本当のところどうなのかは知りませんが、少なくとも、そういう立場で本書は書かれている。
そういう立場で「良心」という道徳的な概念について語っている。
そこが本書の意義であると同時に、限界にもなっているように思います。
・意義
特定の宗教に拠らずに語られています。
もし著者が宗教家だったら、その宗教の教義に沿った言い方になってしまうでしょう。
そうなると、その宗教の信者でなければ受け入れられない内容になってしまう。
しかし本書は心理学者の立場で書かれています。
そういう立場で「良心」という道徳的な概念について語られている。
そうであればこそ、多くの現代人に抵抗なく受け入れられる内容になっているのではないかと思います。
特に昨今の日本では「宗教くさい」ものに対して不寛容なところがありますから、
そうした中では本書のアプローチは有効に作用するのではないかと思います。
・限界
結局のところ「科学」の言葉でしか語れない。
たとえば本書の中に、良心の起源について、進化論の観点から解説している箇所があります。
すなわち、良心は直接的には自己に不利になるけれど、種の生存に役立っている、云々。
要するに「良心」を「良心」以外の言葉で言い換えている。
「本当は良心なんて存在しないんだ」という不信感にもとづいている。
ロジックを駆使して、「実は巡り巡って自己の利益になっている」と言わなければ納得できない。
良心なんてもともとなかったけど、その方が種の存続に役立つから発達させただけなのだ、と言っておかないと、信用されない気がする。
あえて語弊のある言い方をしますが、これでは結局、「サイコパス」と同じ思考回路です。
本当は「良心」をもっていないけど、計算ずくで有利になるように立ち回る「良心をもたない人たち」。
「人間なんて結局そういうものなのだ」と言っている。
しかし、もともと「良心」というものが人間には備わっているのだ、とは「現代的な感覚」では言いにくいのでしょう。
そういう言い方をすると、どこか「宗教くさく」なってしまう。
そして、良心の起源について語るパートはあっても、悪の起源について語るパートはない。
人間が利己的であるのは自明のことだ、というわけです。
「そもそも利己的であるはずなのに、なぜ良心などというものがあるのか?」という問題意識です。
これを逆にして、
「そもそも人間は善なる存在なのに、なぜ悪が存在するのか?」という言い方をすると、どことなく「宗教くさく」なってしまう。
現代は悲しい時代ですね。
また、進化論を持ち出すということは、人間の心は他の動物に由来する、と言っているということです。
人間というものが、そもそも存在しており、それは気高い存在なのだ……とは、これまた「現代的な感覚」では言いにくい。
「良心をもたない人は幸せなのかどうか?」について述べられている箇所もあります。
要は、「彼らは本当には幸せじゃないんだ! 良心をもっている我々の方が幸せなんだ!」と続くわけです。
しかし、幸せは他人との比べっこ勝負ではないはずです。
なんでも他者との比較のネタにしてしまうのは唯物論の悪いクセだと思います。
唯物論では根本的に「意味」を語ることができません。
だから、どこかで比べっこ勝負に持ち込むことで、擬似的に「意味」を捻出するしかない。
この箇所にもそうした唯物論の限界が現れているように思います。
そして、それはまた本書に語られている「サイコパス」の思考回路とも一致してしまう。
本書によると「サイコパス」は他人に感情移入することができないため、一生を他人を「もの」として支配するゲームに明け暮れると言います。
つまり「勝ち負け」や「損得」でしか喜びを感じることができない、というわけです。
「意味」から疎外された唯物論は、どこか「サイコパス」に似てきてしまうようです。
ただ、本書の該当箇所は、そうした「勝ち負け」「損得」を超えた価値観を提案しているようにも読むことができます。
すなわち、「良心をもたない人たち」の方が「良心」に縛られずに好き勝手に振舞って「得」をしているように見えるかもしれないけれど、
これは「損得」や「勝ち負け」の問題ではないのだ、ということです。
「サイコパス」の被害に遭った人たちに向けて、「しかしあなたがたは "良心" というより大切なものを持っている!」という応援のメッセージ。
唯物論的な二元論から話を出発させつつ、それを超えた価値観を提案している。
本書の該当箇所の真意はそこにあるのかもしれません。
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いろいろと気になった点について書いてきましたが、
そもそも一部の人間に「サイコパス」というレッテルを貼る内容ですので、
読む人次第で受け入れ難い箇所を含み得るのは仕方のないところかもしれません。
しかし、そうした「毒」を承知の上で、私はこの本には大きな意義があると思います。
冒頭にも書いたように、私はこの本の意義を次の2点に見出します。
・「良心をもたない」存在が我々と同じ人間のフリをして、社会に紛れ込んでいるという警告。
・しかし、あるいは、だからこそ、「良心」を持って生きることは、この上なく幸せなことなのである、という応援のメッセージ。
> ・「良心をもたない」存在が我々と同じ人間のフリをして、社会に紛れ込んでいるという警告。
ワイドショーを賑わせるような猟奇的な犯罪者は、むしろ「サイコパス」としては「失敗」と言えるでしょう。
自分が「悪者」であることを派手に宣伝してしまっているからです。
それよりも、自分が「悪者」であることを巧妙に隠し「善人」を装っている存在こそが恐ろしい。
我々の間に紛れ込み、我々の「良心」につけ込んで、人知れず我々を搾取する。それこそが「サイコパス」の真骨頂というわけです。
さらに、そうした「気づかれにくい悪行」を暴き出すだけでなく、
被害に遭った人に向けての「あなたは悪くない!」という励ましのメッセージにもなっている。
著者が心理セラピストだからこそ書ける、愛のある内容だと思います。
> ・しかし、あるいは、だからこそ、「良心」を持って生きることは、この上なく幸せなことなのである、という応援のメッセージ。
これこそが本書のもっとも大きな意義と言っても過言ではないと思います。
単にエンターテインメントのように「悪人のカタログ」を陳列して日ごろの鬱憤を晴らす、というのではない。
「良心」とは何なのか? 人間とは何なのか?
「心理学」という科学の一分野に立脚しながら、「良心」という科学では割り切れない領域に踏み込み、
人間として生きることの意味を認識させてくれる。
本書はそのような意義を持った、とてもいい本であると感じました。
ネットで検索すると書評がたくさん出てきますので、なんとなく内容を知った気分になっていましたが、
ここまで踏み込んだ内容だとは思っていませんでした。
実際に読んでみて、よかった。
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