日本は大乗仏教を手に入れるのが早すぎたのではないか?
某「悪の秘儀」によると、西洋はキリストの出現のおかげで、科学技術を手に入れるのが遅れた、と言います。
しかしそれは、人々が精神的な成熟をするために必要なことだった。
もし、キリストが出現しなかったどうなっていたか?
精神が未熟なままの人々が高度な科学技術を手にし、その力を暴走させていたかもしれない。
キリストはそれを回避させ、人々は適切な時期に、科学技術を手に入れることができた。
……らしいです。
以下、私の予感です。
同じようなことは、しかし逆の形で、ここ東アジアでも起きたのではないか?
東アジア、特に日本には大乗仏教が伝わりました。
大乗仏教といえば菩薩行、すなわち利他行です。
では大乗仏教を受け継いだ我が日本で利他の精神が根付いているか?
私は根付いていないと思います。
それはただ集団主義というサイコパス的な社会の生命力を維持するための食い物になってしまっている。
利他行を実践するためには、まず、個人が主体的に成立する必要があるはずです。
個人がなければ利己も利他もないからです。
主体性を持った個人が、その主体性において、利他の必要性に気付く。
それでこそ、利他が利他として機能する。そのはずです。
主体性を持った個人、が存在しない空間では、利他行もまた成立の余地がない。それ以前なのです。
「良心をもたない人たち」ではアメリカ人の著者が東アジアに伝わる利他精神をアメリカ社会の読者に紹介しています。
アメリカに「成熟した個人主義」なるものが存在しているのかどうか、私は知りません。
しかし、仮にそういうものがあるのだとして、そこへ大乗仏教の説く利他行が導入されると、どうなるか?
最強なのではないでしょうか?
人類の次のステップ、とでも言うべき、精神的に進化した人類へと、
流行りの言葉で言えば「アセンション」するのではないでしょうか?
もしかすると、日本は、西洋で「アセンション」が起きるための踏み台として、
しばらくの間、形だけ、大乗仏教を「預かっていた」のではないか?
日本はさしずめ、かつてギリシアの知識を集積し科学の基礎を育てていたジュンディシャープールの東洋版なのかもしれません。
役目を終えた後は廃墟となり、歴史の影の中へとその存在を消す。
その兆候はありますよね。国土の約半分は放射能に汚染され、もう半分も火山で滅びそうな気配です。
でも問題ない。そろそろ西洋の人たちが大乗仏教の知識を受け継いでくれる。
今までよく持ちこたえたね。もう滅んでいいよ。
……ってか? ナメんな!
それを、光栄なことだとでも思え、と?
いいの? それで本当にいいの?
私は、もっと、ここで、何か、できることが、あると思う。
私は何をする? あなたは何をする?
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