ア○ガオ、デ○ー・エックス・エム、ナ○メグ
さて、ゲ制が一段落したことですし、
ずっとご無沙汰していたサイケ活動をぼちぼち再開していこうかな、
というわけで、手元に残っていたネタの処分を兼ねて、ここ最近、立て続けに体験してみておりました。
と言っても、個別に文章に書き起こすほどのことは起きなかったのでまとめて記載です。
・アサ○オ
言うまでもないですが、小学校で栽培するような普通のアサガオではなく、
LSAが含まれているというハワ○アン・ベイビー・ウッドロ●ズの種です。
念のため言っておくと違法性は全くありません。単なる「お花の種」です。
何年か前に、消毒薬がかかっていないものを国内のお店で買うことができたので、
ちまちまと試しておりました。
はい、ちまちまと試していたのですよ。何年か前から。
しかしまったくと言っていいほど何も起きない。副作用すら起きない。
ここには書いてませんでしたが、と言うより、書くようなことが何も起きない。
ネットの情報によると1粒でも人によっては効果があるだとか、
5粒で充分すぎるだとか、10粒でとんでもないことになっただとか、
いろいろと派手なエピソードが散見されますので、慎重に慎重を期して試しておりました。
が、5粒食べても10粒食べても何も起きない。
ほんの少〜し、CEVが意味深になったような? 気のせいなような? という程度。
噂に比して、あまりの手応えのなさ。
そんなこんなで興味を失い、放置したままここに至っていたという次第。
袋の中身を数えてみると、残り16粒。
これで効かないなら、もう諦めることにして、在庫処理も兼ねて一気に食べてみました。
結論を言うと、効果はありました。おそらく。
何が「おそらく」なのかと言えば、噂に聞くような派手な幻覚は一切ありませんでした。
しかし精神状態の変化は明確。
何と言ったらいいのか。
言葉にしてしまうとチープなのですが「愛と感謝」というやつです。
自分がこの世に生まれてきた理由が、全ての人々への愛の念を思い出すためであったことが「再確認」される。
なぜ「再確認」かと言えば、それは「既に知っていた」ことだからです。
自分が生まれてきたこと、生まれてからこれまでのこと、
その全てが、そのために周到に配置されていたことを理解する。
普段は思い出すこともないような、過去のことが鮮明に思い出される。
自動的に記憶が蘇るというより、自発的に過去へ旅をしている。
これまでに出会った全ての人々へ、ごめんなさい、ありがとう、そして、大好きですと、
愛の念を振り向けるために。
思わず、普段連絡を取ってない人に連絡を取って直接伝えたくなりましたが、
そんな不自然なことをする必要はないということも同時に理解できる。
宇宙の全ては、ただひとえに、愛に向かって収斂している。
個々の人生は、一見するとそれとは正反対なように見える場合もあるけれど、
遠回りをするだけの必要があってそうなっている。
「悪」は一時的な状態であり、万物の本性は「善」であることを「再確認」する。
それでも、やっぱり、「この一切」は一体全体何なのか? という問いは残る。
超感覚的な「幻覚」のようなものは何も見えないため、
そうした「からくり」を認識することは相変わらずできずじまい。
しかし今は「それでいい」のだろうと思える。
今、こうして物質世界にいる間は、そうした認識は必要ない。
必要がないから見えない。それでいい。そう思える。
そうした認識によって把握できるような「真理」は見えないままだとしても、
その条件で、物質世界にいる目的が「感謝と愛」であるということも、紛れもなく「真理」の一片ではある。
派手な幻覚が見えれば「楽しい」けど、それ自体は、終わってしまえばそれだけ。
というよりは、幻覚は見えなくても、こういう「中身」が得られる方が意義はある。
むしろ「幻覚」はそのための「方便」なのであって、目的ではない。
ただ、こうした認識を踏まえた上で、では具体的にどうすればいいのか?
というのは、相変わらず「現実的な課題」であって、
別に何がどう変わるというものではないということもわかる。
何か「見え」ないかと精神を集中してみるものの、それ以上の「具体的」なことは何も見えず。
「現実的」には様々な事情が絡み合う中で、
一足飛びに「ネタバレ」をしても、かえって周囲との軋轢を生むだけであり、
結局、この世は相変わらず今まで通りに「この世」であり続けるより他ないのだろうとも思う。
根源的なところで「それでいい」のだということを、
ときどき思い出して眺める「お守り」のようにして。
……という感じで、視覚的な幻覚とはまた別の意味で、なかなか「派手」な大団円となりました。
「楽しい幻覚」は見れませんでしたが、それ以上に意義深いセッションだったと思います。
しかし、もう一回やりたいとは思わないですね。
副作用が酷かった。
効果が現れる前に、激しい嘔吐と下痢に見舞われ、
上からも下からも出すものを出し切って、身動きできずにぐったりと伏せっておりました。
そういう状態での、上記の「体験」です。
実はただ単に、変なモノ食べてお腹こわして寝込んで
センチメンタルになってただけなのでは? という説もないではない。
翌日になっても、水を飲んだだけで嘔吐する有様で、体験当日を含めると結局丸2日間ほど寝込んでました。
一生に一回ぐらいはやっておいてもいいかもという感じではありますが、
もう二度とやりたいとは思わないですね……。
副作用が出るのはLSA以外の物質が原因なので、種をうまく処理すれば快適にトリップ可能、
という情報もあって、興味はあるものの、あれこれと機材や設備が必要のようですし、
今の私の住環境的にはちょっと難しいですね。サイケ活動用のラボが欲しい。
なお、物質を抽出すると違法になってしまう場合もあるらしいので、
その意味でも迂闊には手を出しづらいですね。私は常識人なので法律は守るのであります。
> 実はただ単に、変なモノ食べてお腹こわして寝込んで
> センチメンタルになってただけなのでは? という説もないではない。
ちなみに、こういうところも含めて、以前体験したアカ○ア茶とも似ていますね。
あのときも派手な幻覚こそなかったものの、ぐったりして「愛と感謝」モードに入ってました。
聞くところによると、DMTもLSAもセロトニンと類似した分子構造をしていて、
セロトニン受容体に取り込まれることで効果を発現させるのだとか。
似た方向性の体験になるのは頷けるような気がいたします。
・ディ○・エ●クス・エム
私にとっては既に「盟友」となっているお馴染みの物質。
前回1000ミリ超えをやったのは、既に1年半ほども前のことなのですね。
あの世界に無闇に何度も行っても仕方がないかなと思い、ずっとご無沙汰しておりました。
ただ、現状、私にとって、安定して確実に「あっち側」へ行くことができる唯一の手段ということもあり、
何かもっと、この「扉」の活用方法を引き出せないか? とは思っておりました。
というわけで、あっち側へ行って何をするというプランは特にないままでしたが、
手元に残っている錠剤の処理を兼ねつつ、今回は少ない摂取量でのトライです。
具体的にはメ●コン24錠です。
24錠と言うとそこそこ多いようにも見えますが、
コンタ○ク換算なら1箱の半分。一般的にはトベないとされている量です。
私にとっても今までにないロードース。
摂取方法は今までの経験を活かし、空腹からの白がゆメソッドです。
トブこと自体が目的ではなく、トベるかどうかの実験です。
結果はと言うと、この量でもトベました。
時間は短く、強度もマイルドなものではありましたが、間違いなく「あっち側」に行けました。
ただ、それに気付くことができたのは、
これまでの経験があったからこそだな、とも思います。
精神面の変化は微細で、視覚的な効果も「影や輪郭が見える」程度。
それらを、これまでのトリップでの体験内容と比較して、
「あ、これは…… "あれ" と同じ場所だ!」という風に理解できる。
某マンガの「俺じゃなかったら見逃しちゃうね」じゃないですが、
これまでの体験を経ていなかったら、
「やはりこの分量では "第2プラトー" 止まり」、という認識になっていたのではないかと思います。
効果が発現(離陸)するまでに約3時間。
「あっち側」にいたと言えるような効果が持続していたのは多めに見積もって、約4時間。
その後は身体症状(フラつきなど)は残るものの、精神的には明らかにシラフでした。
離陸まで3時間というのは、「そのつもり」で待機してないと飽きてしまいそうですね。
しかし多く飲めば早く効くというものでもないので、これはその日の体調などで左右されるところかな?
持続時間の長さ(短さ)は、摂取量相応という感じですかね。
それに比して、身体症状が残る時間だけはしっかり長かった。翌々日になっても足元がフワっとしてました。
これも体調によって変わるところかもですが、離陸自体の短さに比して「コスパ」が悪い気はしなくもない。
ともかく、この量でもトベるということが確認できたのは収穫です。
効果は量相応ですが、そこから何を引き出せるかは、自分次第という気がしました。
たとえるなら、本に書いてある文字の印刷が濃い方が読みやすいですが、
薄くても目を凝らせば読めるのであり、内容は変わらない。
体験中も身体感覚は残っていて、「自分は "現実" では布団に寝ている」という自覚はありますが、
そのこと自体が、トリップの体験内容の深さが浅いことを意味するわけではないようです。
「現実」に対する自覚自体を消す必要はなく、
それはそれとして頭の脇に置いておきつつ、
開かれた認識の窓の向こうへ、如何に意識をフォーカスさせるか。
そういう意味で、ロードースの方が、むしろ「上級者用」という面はあると言えそうですね。
突き詰めれば、何も摂取しなくてもトベるようになるのが理想か?
そこまでいくと、ガチの「霊能力」の領域であり、
自分の意志で制御できない場合は「病気」ということになるのでしょうね。
薬物はあくまで補助的手段の一つに過ぎないことは自覚しておきたい気はします。
> 「現実」に対する自覚自体を消す必要はなく、
> それはそれとして頭の脇に置いておきつつ、
> 開かれた認識の窓の向こうへ、如何に意識をフォーカスさせるか。
身を起こして背筋を伸ばして座って瞑想ポーズをしてみると、視界(CEV)が明るくなりました。
以前のハイドース時とは違って、効果発現中も体は割と動かせる状態だったので出来たことです。
ハイドース時は受動的に体験を受け取ることに専念せざるを得ないところがありましたが、
ロードースの場合は、意識的に探索していける可能性があるのではないか。
体験の方向としては、これまで同様、
物質的な日常世界での物事の「意味=私との関係」が剥ぎ取られ、
抽象的な次元へ、「舞台裏」へ、源流へと遡っていく感じ。
いわゆる「解離」というやつですね。
この点で、先述のアサ○オなどのセロトニン系の体験との違いが興味深い気がします。
セロトニン系と解離系。
「系」などと言えるほど私自身の実体験は多くはないのですけど、
ネット等で散見される他の人たちの体験とも合わせて考えてみると、
大体の傾向が見えてくる気がいたします。
セロトニン系は、自他の境界が融解し、宇宙全体が、泥臭く包み込まれていく感覚。「渾然一体」となる。
解離系は、自己および世界が、抽象的に解体されていく感覚。「バラバラ」になる。
粗雑な議論になることを承知で政治思想にたとえると、
セロトニン系は「右派」的。保守。共同体。伝統。つながり。
解離系は「左派」的。改革。個人。自由。解体。
どちらも究極的には同じ地平(言ってしまえば「愛」)を目指している筈、ではあり、
それぞれにアプローチの方向性が違っているだけの筈ではあるのですが、
「右」から見ると「左」は、文化や共同体=自分たちの居場所を破壊する悪魔的な様相を呈し得る。
「左」から見ると「右」は、古いしがらみや既得権益で個人の自由を奪う悪魔的な様相を呈し得る。
個人と共同体のバランス、と言ってしまえば古くて新しい問題ではあり、
人間が「一人の自己と複数の他者」という形式で存在している「この世」という条件下での、
「永遠(いつまで?要出典)の課題」というやつではあるのかなと思うところではあります。
脳に作用する物質などというもので左右(!)もされる精神的な方向性次第で、
どちらの思想も「ありえる」のだということが、あらためて感取でき、
興味深くもあり、感慨深くもあるところです。
それからもう一つ、「眠気」に関して気付いたことがあります。
上記のどちらの体験にも共通することですが、
どうも、精神が変容している間は「眠気」というものを感じないっぽい。
体験時には毎回、寝落ちで終了することがないようにと警戒して、事前に多めに眠るようにしているのですが、
それにしても何時間もぶっ通しで「体験」が続いているのに「眠く」なることは全くないのですよ。
効果が切れてくるにつれ、徐々に眠気がやってくる、というのがこれまでの大体のパターンです。
おそらくですが「睡眠」というものは「通常の覚醒状態」とペアになっているのではないか?
だから「通常の覚醒状態」が無くなれば、「睡眠」も成立しなくなる。
敢えて眠い状態から開始してみるとどうなるのでしょうね。別の機会に試してみたい気がします。
・ナ○メグ
これはちょっと番外編という感じです。
体験したのは「今回」というより、結構前なのですが、
小ネタ感があり、敢えて情報共有する機会となると他にはなかなかなさそうな気がしますので、
この機会についでに書いておくことにします。
香辛料のナツメグです。スーパーに売ってる普通のやつです。
これを1瓶イッキ飲みするとトベるという話が都市伝説めいた風情をまとって流布しておりますが、
実際、それなりの成分は入っていて、大量摂取すると精神にクルというのは本当のようです。
でも、マジメにサイケをやってる人はあんまり使ってない印象ですね。
検索しても、半分ウケ狙いでやってみた的な情報が多い気がします。
成分のサイケ効果の分類としては譫妄系(デリリアント)なので、コントロールは難しいようですね。
しかし、大量摂取ではなく分量を絞って使えばリラックス効果があるという情報もあり。
というわけで今回は5グラムをティーバッグに詰めて、お湯で煮出してナツメグ茶を飲んでみました。
正確に計量したわけではなく、15グラム入りの瓶の約3分の1です。
さて、結果はと言うと……
酒に酔ったときのような「ぐで」っとした感じが数時間続きました。
案外悪くはないかもしれない。
用量に気をつけて使う分には、これはこれでアリなのではという気はしました。
大量摂取すると危ないというのは酒でもコーヒーでも何でも同じですからね。
お味の方は何しろ香辛料なので「刺激的」ですが、お酒よりは明らかにコスパが良いですし、
何でもいいからちょっと「ぐで」感が欲しいという時の
選択肢の1つとしては悪くないかもしれません。
しかし、酔っ払うこと自体を目的に酒をあおるタイプの人は、
ナツメグを「節度を持って」使うのも難しそうですし、
あんまり率先して人に普及したくはないですね。
「ウケ狙いのネタ」程度の扱いになってるぐらいでちょうどいいのかもしれません。
私はと言えば、普段お酒も飲まないですし、ナツメグを常用することも多分ないと思うです。
大量摂取するとどうなるかは未知の領域なので何とも言えませんが、
あんまり良い評判は聞きませんし、デリリアントの入り口としては他の物質を模索したい気はします。
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というわけで、ちまちまと再開したサイケ活動のお話でした。
再開と言っても、これからじゃんじゃんやっていくぜ〜、という感じでもないのですけどね。
これまで自分なりにいろいろと実体験してみて、
全く何も体験してなかったときに抱いていたような「期待感」は、
既に持てなくなっている感じです。
別に「幻覚」を見て「楽しみ」たいわけではない。
認識の扉を如何に開いていくか?
現状、日本で法律の範囲内で手に入る物質がかなり限られているという状況はあり、
それは素朴に「残念だなぁ」と思うのではありますが、
扉が閉ざされていることにも、何かそれなりに意味はあるのではないかという予感もします。
いわゆる「薬物は危ないから云々」的な次元のことではなく、
現代の人類の文明的な課題として、今は「この認識能力」でいけ、と。
ただ、そうした、人間の「通常の認識能力」の限界と、
その総体としての、人々が作っているものであるところの「この世」のドウシヨウモナサというものは、
折に触れ、時節に触れ、さまざまな形で「思い知らされる」ところではあり、
それを「課題」だ、などと言ってみたとして、
本当にここままでいいのか? という疑問感や、
どこかに突破口はないものか? という思いは、やはり、あります。
それは問題集の巻末の答えを見ようとする「ズル」なのかもしれず、
仮に何かの間違いで私一人が「答え」を見ることが出来たとしても、
それを人に話すのは「ネタバレ」であり、
結局、正規の手順を踏んでたどり着くのでない限り、
手を替え品を替え、同じことの繰り返しになってしまうのではないかという予感もあります。
地球が滅んでも、宇宙のどこかで何度でも同じことが繰り返される。
だとすれば、私も含めて、「答え」など知らない方がいいのかもしれない。
仮に今回の地球の文明はもう「失敗」なのだとしても、
みんなと一緒に「間違い」続ける。
私一人だけが「正しい」なんてことは成り立たないことなのであり。
宇宙のどこかで文明を一からやり直す他ないのだとすれば、
「それはそれで」なのかもしれない。
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カテゴリ:サイケ活動
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