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◆◆ したこと: ◆◆

        回想シーンを実装
        
        さしあたり1キャラ分ですが、回想シーンを全話実装しました。
        
        2〜3分程度で読める短いお話が7話。
        8話の予定でしたが、実際に作業してみたら7話で収まったらしいですよ。
        いずれにせよ規模的には超小粒。
        予定通り、あっと言う間に実装完了しましたね。まさにお茶の子さいさい。

        ついうっかり作業速度が光速を超えて朝飯前にタイムスリップしそうになりましたが、
        過去を改変するようなことがあっては皆様にご迷惑がかかるでしょうと思い、
        速度はほんの少しだけ抑えて進行いたしました。私は本当に思慮深いですね。

        なのですが、人がこうして下手(したて)に出てみれば、
        もう7月も後半ですって?
        相変わらず地球さんは勝手にくるくる回るのがお好きなようですね。
        こういうところは昔からちっとも変わってませんね。ヤレヤレ。
        
        そんなわけで思いのほか時間がかかってしまったらしいですけども、
        ともかく1キャラ分完了です。
        残り2キャラ分も出来れば揃えてしまいたいのはヤマヤマながら、
        この調子だと地球さんがどこまで飛んでいくかわかりませんので、
        さしあたり1キャラでリリース可能な状態を目指して作業を進めていくですよ。
        
        ところで、文章を書いてた段階では気付かなかったことですが、
        ゲームのデータとして入力する作業をおこなう際、必然的に読み返すことになり、
        色々と思うところが出てきたりはします。
        
        で、何なんですかね、このお話は。めちゃくちゃ面白いじゃないですか!
        私、このお話を考えた人の大ファンになっちゃいましたよ。
        全宇宙で最初にこのお話を読めるだなんて、私は超ラッキーです。
        この超ラッキーを一日でも早く地球の皆さんにもおすそ分けしたいですね。
        
        
        あと、すっかり忘れてましたが、回想シーンの作業に入る前に、
        同じアイテムを個数で表示する機能を実装したのでした。
		
        
        これで実質的にアイテムの所持数は無制限に。
        リソース管理ゲーとしてはガバガバになるわけですが、
        別にリソース管理ゲーではないのでこれでよしなのです。
        適当に冒険してて気が付いたらアイテム富豪というヒャッハー体験を味わっていただければと思います。
        
        
        ちなみに上記の動画についでにストアの仕様が映ってますが、
        ご覧の通り、お金の概念はありません。
        「店」に入荷しているアイテムは全てタダで貰える仕様です。
        ゲーム内で一定の「時間が流れる」ごとに町の「店」にアイテムが「入荷」される仕組みです。
        現在はデバッグ用に操作できるようにしてますが、
        実際は「セッション(戦闘じゃないよ!)」をするごとに「時間が流れる」仕様です。
        
        つまり、従来よくあるのは、
        「戦闘して→お金を貯めて→店で買う」
        という流れですが、
        だったら間に「お金」を挟まなくても、
        「戦闘(に該当する行為)」をすることで「店」にアイテムが「入荷」されるようにすれば、
        タダで貰えるようにしても、ゲームのつじつま上は同じではないか、ということです。
        
        で、それを言い出したら、「店」自体必要なく、
        そもそも「セッション」でのドロップオンリーにすればいいのではないか、とか、
        そもそもゲームをしなければいいのではないか、とか、
        そもそもこの世に生まれて来なければいいのではないか、とか、
        イロイロと省ける要素が見えてきてしまったりはしますね。
        
        ただ、生まれてきてしまったからには「無駄」を承知で、その中で何を表現するか?
        「お金」というのはなかなか野蛮なシステムだなとは常々思っているところですので、
        せっかくこうしてRPGを作るという機会が得られたからには、
        「お金」という概念のない世界の一端を示せればと願う次第であります。
        
        > で、それを言い出したら、「店」自体必要なく、
        
        一応、「店」は冒険に出発する前の準備用、
        ダンジョンで手に入るのは、道中での補給用、
        という棲み分けを想定してはおります。お楽しみに。ワクワク。
        
        
        ところで「ゲーム」という媒体を通して、どのような貨幣制度が表現されているか、というのは
        なかなか注目に値する問題のような気がいたします。
        誰の言葉だったか忘れましたが「ドラクエは通貨発行権のゲーム」と言った人がいました。
        外を出歩いてモンスターを狩るという行為が、とどのつまり「通貨発行」というわけですね。
        
        現実における「賃金労働」は通貨発行ではなく、
        給与とは、雇い主から労働者への、通貨の移転です。
        いくら労働をしても、世の中全体を流通している通貨量が増えるわけではない。
        必然的に「賃金労働」は「イス取りゲーム」になり、
        皆が勤勉に働けば働くほど、奪い合いが加速し、互いに疲弊する。
        技術が発展すればするほど「イス」の数が減り、「食い扶持」が減る。
        
        概して、ゲーム内で「金を稼ぐ」という行為は「労働」のメタファーのようでありながら、
        実のところはゲームシステム内で「金」という「データ」を生成する「通貨発行」であり、
        現実の「労働」とは全く異なるものです。
        
        ……と、このように順序立てて言葉で述べれば、
        誰でも「そりゃそうだ、そんなことは分かってる」とお思いになることでしょう。

        しかし、問題は、もっと感覚的な部分です。
        
        感覚的な部分では、現実の労働も、ゲームでよく表現されているごとく、
        「頑張って労働すれば、ごほうびとして、お金を増やしてもらえる」
        という「感覚」で把握している部分が多分にあったりするのではないでしょうか。
        
        これを便宜的に「ごほうびマネー観」と呼んでおきたいと思います。
        
        MMT界隈でよく「間違った貨幣観」として
        「お金のプール論」や「商品貨幣論」などが槍玉に上げられますね。
        それらを「理屈で説き伏せる」のは可能かもしれないのですが、
        なかなか感覚的に伝わらないものがある、という現実はご承知のところでしょう。
        
        その理由は、やはり「感覚」にあるものと思われます。
        経済学的な理屈で云々、というより、
        ある種の「価値観」を含んだ形で、
        「お金ってのは、がんばったご褒美として貰えるモンだろーが!」
        という「感覚」が先行し、
        「通貨は借金と同時に無から生成される」とか「(インフレ率を上限として)国債をいくらでも発行できる」
        という話に「反感」を感じてしまうのではないか?
        現実の財政や金融のオペレーションとは別の次元での、感覚的・価値判断的な反感です。
        つまり得意のテレパシーを使って内心の声を言語化すれば、
        「ごほうびマネーじゃないマネーが存在するだなんて我慢ならん!」というわけです。
        
        その延長上のこととして、
        たとえば生活保護は相変わらずバッシングの対象であり、
        ベーシックインカムなんて夢のまた夢というわけです。
        「ごほうびマネー」じゃないマネーですからね。
        
        実際は生活保護だろうが何だろうが、
        政府からお金を貰った人が、そのお金で、あなたが販売しているインディーゲームを購入すれば、
        それはあなたの売上になる。
        
        世の中で「お金を入手する」ことのハードルが上がれば上がるほど、
        あなたが販売しているインディーゲームを購入することのハードルも上がり、
        あなたが売上を伸ばすハードルも上がる。
        
        結局、この悪循環でお互いに足を引っ張って首を締め合っているのがここ数十年の流れのように思います。
        MMT云々以前に、「ごほうびマネー観」という「価値観」が我々を苦しめているのではないでしょうか。
        その「価値観」を一旦、脇において、忘れてみれば、
        MMT界隈でよく言う「そもそもお金って、どうやって作られてるのか?」
        という話が、素直に頭に入ってくるでしょうし、
        その先にある、経世済民、人々がハッピーに暮らせる社会を目指しましょう、という、
        お金云々以前の根本に立ち返ることもできるのではないかと思うのですが。
        
        ちなみに、「ごほうびマネー」であることと「通貨を無から発行するな」は、むしろ矛盾しますよね。
        通貨発行量が限られているという現実だからこそ、
        「労働」は通貨という限られたリソースの「奪い合い」になり、
        いずれ「がんばっても、ごほうびがもらえない」という状況に収束していく(=デフレ)。
        
        むしろ、MMT的に「財源問題は存在せず、通貨は政府の裁量次第で発行可能である」ことを認める方が、
        発行した通貨を、各々の「がんばり=供給量」に応じて配布できるようになり、
        供給と需要のバランスがとりやすくなるような気がします。
        ひいては、供給が需要を上回っている場合には、それ以上「がんばる=供給」の必要がない、
        という当然と言えば当然のことが、現実化されていく道が開けるのではないか。
        いや、でも、あくまでも「がんばったご褒美」じゃないとダメ!
        という観念を守り抜く構えである限り、根本は変わらないのかな?
        
        いわゆる「無駄な公共投資」というやつがそれですね。
        実際にどれが無駄でどれが無駄じゃないか、という線引きは不毛な論争になるわけですが、
        たとえ無駄であっても「がんばり」を裏付けとした「ごほうびマネー」という体裁をとらないと
        マネーを配布できない、という、しがらみ。
        
        ただ少なくとも、政府自身の裁量でマネーを発行できることを認める限りは、
        「無駄」というのは「金銭的な無駄」にはなり得ない。
        ただし、その労働に携わる人の労力や時間、地球の資源は「無駄」になり得るのであり、
        やはり「ごほうびマネー」にこだわるのは「滅びの道」だとは思います。
        生産した物が「ごほうび」としてしか分配できず、余ったまま腐っていくのも「無駄」ですよね。
        それで「売れないから」工場が閉鎖されるなどして社会の生産力が落ちるのも「無駄」ですよね。
        すぐに「金になる」事業しかできず、研究開発や人材育成に力を割けないのも「無駄」ですよね。
        
        「がんばり」が「意味のある生産行為」と一致している間は
        「ごほうびマネー制度」も無理なく運用できるのでしょうけれど、
        近年、「労働」がますます「お金をもらうための言い訳行為」として形骸化しているのはご存知の通り。
        
        
        > しかし、「ごほうびマネー」であることと「通貨を無から発行するな」は、むしろ矛盾しますよね。
        
        この点に関しては、いわゆる「政府の財政を家計にたとえる愚」というやつなのかな。
        
        まとめると、
        「ごほうびマネー観」にこだわり続けることは「無駄」を溢れさせる滅びの道であり、
        さらに、政府と家計を混同することで、自分たちで自分たちの首を締めているのが現状、
        という感じでしょうか。
        
        
        話をゲームに戻すと、
        ゲームを通して「ごほうびマネー制度」が再生産され続けている現状があるように見えることもあり、
        やや危惧を感じたり感じなかったりしているという感じです。
        ゲームが先が現実が先かというのはニワトリ卵ではありますが。
        
        「ニワトリ卵」と言いつつ、ゲームと現実の「力関係」はほぼほぼ明白で、
        ゲーム側が原動力になって現実側を変える、というふうには多分ならないのでしょうし、
        個々のゲームを批判しても仕方がなく、
        また、ゲームとは概して「目標に向けてがんばる営み」そのものであり、
        そこで「ごほうびマネー」的なシステムが採用されるのは必然的なことではあります。
        「そういうのが面白い・楽しもう」ということですからね。敢えて。

        なお、今私が準備しているゲームにしても、貨幣制度はさておき、
        「セッションをこなすことでアイテムが手に入る」という「ごほうび構造」ではあり、
        その点では、いわゆる「ゲームらしさ」の伝統は踏襲しております。
        別にこれを「世の貨幣観の過ちを正す銀の弾丸!」などと気概を込めているわけではなく、
        ただ、RPGを作るとなった際、貨幣制度はどうしようか、ということで、
        私としては、少々ヒネっておきたかった、というぐらいの話ではあります。
        
        別にそういうマネー制度を踏襲しているゲーム「が悪い」とは、ほんの少ししか思いませんし、
        ましてや、そういうゲームを作っている人「が悪意を持っている」などとは、1ミリも思わないのですが、
        
        ただ、そういうのが、見えないところで、巡り巡って、
        「頑張ってない奴は許せん」という風潮や、
        その裏返しとしての「可哀想ランキング」のようなものや、
        ひいては生活保護バッシング、デフレの悪化からのスタグフレーション、社会の供給能力の毀損など、
        お互いにお互いの首を締める修羅の世界が現世に具現化することに関連しているようにも思えて、
        ドウシヨウモナサを解きほぐす糸の一端が、どこかにあるようにも思えて、
        「見ないフリ」をするには、あまりに、いたたまれず、
        
        と同時に、何やかんや言っても、話を戻せば「たかがゲームのこと」に過ぎず、
        いたたまれなさとドウシヨウモナサのオシャレなコラボを今日も存分に堪能するばかりです。
        
        
        誰が悪いというわけではないのでしょう。
        この世自体にドウシヨウモナサが根深く織り込まれており、至るところにその端緒を覗かせている。
        ゲームもその一つに過ぎないというだけのことなのでしょう。
        この中でどう動いても、ドウシヨウモナサに搦め捕られる。
        ドウシヨウモナサがドウシヨウモナサを呼ぶドウシヨウモナサのスパイラル。
        
        この世がそのような現場であること自体は、恐らくドウシヨウモナイ。
        政治や経済が良い方向に動いたとしても根源的にはドウシヨウモナイ。
        ベーシックインカムが実現したとしても根源的にはドウシヨウモナイ。
        
        ただ、そこにいるのが「人」であるという事実がある。
        
        だからこそ「人がいること」自体がイコール「この世である」という意味で絶望の根拠であると同時に、
        人が人を想う愛であるとかやさしさであるとか、
        この世が「このよう」であることを通して垣間見ることのできるダジャレというものもある筈です。
        それはそもそも万物が有ではなく最初から無のままであれば良かったという一点を1ミリも動かすものではなく、
        この世が「このよう」である限り、その現場で行われる個別具体的なメソッドは
        必然的に「失敗」の可能性を内包するのではありますが、
        それでも、そこにいるのが「人」である限り、
        その背後にある精神の、根源の根源は、
        無を有に転換したプリムム・モビーレは、
        光をあらしめて「よし」とした、その心は、
        存在への慈しみであったろうとは思うのです。
        だって、その方がいいでしょ?
        「その方がいい」と思うことが、何よりの証拠です。
        「本当はそうじゃないかもしれない」というのは、「この世」という限定された領域での「都合」です。
        それら一切を取っ払って、根源の根源まで遡って、
        真っ白。
        さぁ、どうしようかな? 何がいいかな?
        ほら、「いいかな?」って言うじゃないですか。
        それは「いい」ものなんですよ。
        具体性の領域では「失敗」したり「裏目」に出たりするかもしれませんが、
        抽象性の領域では「いい」と言ったら「いい」んですよ。
        死ぬほどの明白さ。疑問を差し挟む以前の以前の超以前。
        
        それが何の因果か、血で血を洗う娑婆世界が我々の現実となってしまっており、
        その文字通りの意味での「解決」というのは、
        「この世」では不可能か、あるいは、
        この世自体の在り方が根本的に変わらない限りあり得ないことのように思われますが、
        だからこそ、ここにいるあなたや私、その他一切の「人」の精神の根源の「よさ」を、
        忘れないようにしたいものです。
        
        ではまた。
        今日もあなたが幸せでありますように。