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◆◆ したこと: ◆◆

        ラスダンの実装に着手
        
        今まで後回しにしてきたラスダンの実装を、
        さしあたり入り口部分ですが着手しました。
        
        
        正確に言うと、
        
        ・ラスダンの形式を決めて、
        ・その前後のイベントの段取りやテキスト的なものを決定して、
        ・マップチップを用意して、
        ・入り口部分を実装した。
        
        ということです。
        思えば遠くに来たものです。聞くも涙語るも涙。
        
        前回、ストーリー部分というか、回想シーンの実装が完了したわけですが、
        それに関係のある内容となりました。
        なるほど、だから今まで後回しになっていたわけですね。
        納得せざるを得ない。
        
        それにしても、先日の回想シーンのときもそうでしたが、
        実装作業からしばらく離れていると、ソースコードの処理内容を忘れてしまいますね。
        テキスト的な内容を決定して、それをデータとして実装しようとしたとき、
        「あれ? どうすりゃいいんだっけ?」となる。
        
        私は天才プログラマなので、ソースコードを読み直せば処理をすぐに把握できるので問題ないのですが、
        私が天才プログラマじゃなかったら一体どうなってたんでしょうね。やれやれ。
        なお、天才ならそもそも忘れるなよというツッコミをマルチスレッドで待機中です。
        
        ともあれ、実装箇所としてはまだ入り口付近だけですが、
        形式が定まったというのは進捗として大きな一歩であります。
        人類滅亡の日に間に合うよう、進めて参る所存であります。
        
        
        さて、人類滅亡と言えばコロナ。
        というわけで今日はちょっとそのお話をしたいと思うのですよ。
        いつもだったらコ○ナとか伏せ字にするところですが、今日は無修正でお届けします。ドキドキ。
        
        正確に言うと、コロナというよりマスク。あるいはワクチンですね。
        コロナ禍って言いますけど、
        実際はマスク禍、もしくはワクチン禍、
        自粛強制禍、接種強制禍、プライバシー剥奪禍と言うべきですね。
        
        だって、実際にコロナに罹って苦しんだとか死んだとかいう話よりも、
        それを防ぐためと称して強行されている一連の「対策」でこそ、
        我々は今、苦しんでいるのではありませんか。
        
        別にコロナ自体が妄想だとか、データが真っ赤な嘘だとか、そこまで言うつもりはないですけども、
        実際問題、「何(なに)」で苦しまされているかというのは、
        王様が裸であるのと同じぐらい明白ではありませんか。
        
        さきほど、
        
        > 人類滅亡と言えばコロナ。
        
        と慣用句的に言いましたが、
        コロナが直接の原因で人類が滅亡、なんてことはないでしょう。
        
        それよりも、「対策」に伴う各種の影響、
        経済的な衰退、健康被害、社会的な不和などで、
        滅亡とまではいかなくても「おかしなこと」になる可能性は高い気がいたします。
        いや、いっそ、すっきり滅亡するならいいんですけどね、
        「おかしなこと」になってズルズルと続いてしまうのはイヤですね。
        
        いやしかし、人類が「おかしい」のは今に始まったことではない。
        それがここにきて、なるべくして、膿が出てきているだけのようには見えます。
        きっと遅かれ早かれ、何らかの形で似たようなことは起きることになっていたのでしょう。
        宇宙のどこに生命が発生したのであれ、
        進化のコースを辿る過程で、「こういうようなこと」は必ず経験することになっているのでしょう。
        というわけで今ちょっと、結構重大な岐路ですよ地球の皆さん。
        
        
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        ■ 現実=共有された妄想
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        本題に入る前に基本的なお話です。
        現実と妄想の境目はどこにあるのでしょう?
        
        みんなが「現実だ」と言ってるものがあれば、そこにいる人たちの間では、それが「現実」です。
        一人だけ「現実だ」と言い張っているものは、そこにいる人たちの間では、それは「妄想」です。
        
        たとえば「日本」はどこにあるのでしょう?
        足元にある地面のことでしょうか?
        いいえ、それは「日本の国土」ですね。
        「日本」とは概念であり、人間の頭の中にあります。
        
        で、「日本という国が存在する」というのは、その概念を共有している人たちの間では「現実」です。
        一方、私が「神聖マイン○ル帝国ここにあり!」とか言ったら、それは「妄想」です。
        なぜならそれは私の頭の中にしかないことだからです。
        
        しかし、「頭の中にある概念」という点では、どちらも同じです。
        ただ、その概念を、
        「みんなが持っているか」「一人だけで言い張っているか」
        の違いでしかありません。
        
        
        ……と、ここまでの話には、根本的に反対する人はあんまりいないのではないかと思います。
        例に挙げたのが「概念」でしたからね。
        
        しかし原理的には「概念」に限らず、あらゆる存在に当てはまります。「物質」にも当てはまります。
        ……とまで言うと、それこそ「妄想」のように聞こえてしまうかもしれません。
        しかし、この話のキモは、むしろ、そこにこそあります。
        
        あくまで極論だと思ってもらっても結構ですが、
        「物質」だって「共有された妄想」と言えます。
        
        たとえば目の前に岩の塊があるとします。
        「岩の塊」それ自体は「物質」です。
        「この岩の塊は実は宇宙人の秘密兵器だ」とか言うと「妄想」かもしれませんが、
        「岩の塊」それ自体は「物質」です。
        
        では、なぜそこに「岩の塊」が「ある」と言えるのでしょうか?
        私がそれに触れると、手触りがある。
        それに向かって突進すると、ぶつかる。
        そのゆえに、そこに岩の塊が「ある」というのは、私にとっては紛れもない「現実」です。
        
        同じことは多分あなたにとっても成り立つことでしょう。
        したがって、そこに岩の塊が「ある」というのは、あなたにとっても紛れもない「現実」です。
        
        そして私とあなたは「そこに岩の塊がある」という「現実」を「共有」することができる。
        私とあなたの世界は「そこに岩の塊という物質がある」という「世界」です。
        
        同じことは多分あなたと私以外の他の人類のほとんど全員にとっても成り立つことでしょう。
        そして我々人類は「そこに岩の塊という物質がある」という「世界」を共有するに至る。
        我々人間は「物質世界」に住んでいる。それが「現実」です。
        
        「物質」とは何か?
        「異なる人間同士の間で(強制的に)共有されるもの」のことです。
        
        あらためて、もう一度言ってみましょう。
        我々人間は「物質世界」に住んでいる。それが「現実」です。
        
        「現実」や「物質」、
        いわゆる「客観的」とされるものですが、
        それが客観的に「実在」するというのは、
        とどのつまり、異なる人間同士の間での「共有」のされ具合の別名だということです。
        
        さらに言えばそれは、我々「人間」が、「複数の異なる人間たち」という在り方をしている、
        その存在の様式上に立ち現れてくる現象の一つということです。
        
        とは言っても、別に、
        みんなで息を合わせて「ここに岩の塊なんて存在しないんだ!」と呪文を唱えれば
        岩の塊が魔法のように消えてなくなる、とまで言うつもりはほんの少ししかありません。
        ただ、
        「物質」とか「現実」とかいうものの「ある/なし」の境目というのは、
        必ずしも自明なものでも堅固なものでもなく、
        そのような揺らぎの中に浮かんでいるということです。
        
        明らかに目に見える岩の塊を例にしてこんな話をするのはいかにも極論めいて聞こえるかもしれませんが、
        目に見えないもの、少なくとも視覚化するには特殊な手法が必要なものを例に考えてみると、
        実感しやすいのではないでしょうか。
        
        たとえば「電波」とか……。
        たとえば「重力」とか……。
        たとえば「お金」とか……。
        たとえば「ウイルス」とか……。
        
        
        
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        ■ 対立する2つの「現実」
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        ・シェディング
        
        コロナ対策としてワクチンが盛んに推奨されていて、
        ワクチン打ってない奴は社会から出て行けと言わんばかりの風潮すらある昨今ですが、
        
        ワクチンを打った人の体から有害な物質が放出されていて、
        ワクチンを打ってなくても、打った人の近くにいるだけで健康被害が発生する可能性があるらしいですね。
        
        その現象には「シェディング」っていう名前がついてます。
        詳しくは検索していただければと思います。
        
        で、調べると情報がいろいろ出てきます。
        医学的・科学的な根拠とともに語られており、
        なるほど、ワクチン打ってないから安全ってわけじゃなく、
        自分は打ってなくても、打った人の近くにいるだけで危険なんだ、
        と感じさせられます。
        
        それらの医学的・科学的な論拠が実際のところどれほど正当なものなのか、
        それを判断する見識はドシロウトの私にはありません。
        しかしそれは私以外の多くの人にとっても同様でしょう。
        
        ただ、「なるほど、そうなんだ」と、感じさせられる。そういう説得力がある。
        
        で、それに続けて
        「シェディング被害から身を守るには……」という話が展開され、
        ふんふんなるほど、ワクチンが蔓延する今後、頑張って身を守らなきゃ……!
        という気にさせられる。
        
        さて、この「シェディング」という現象。
        これを、どう、見るか?
        
        私はこれ、妄想だと思ってます。
        ただ、念を押しておきたいのですが、先ほども申し上げたとおり、
        「現実=共有された妄想」です。
        
        
        
        ・新型コロナウイルスのパンデミック
        
        なんか最近、コロナとか言う新手のウイルスが流行してるらしいですね。
        それに感染すると重篤な肺炎になって、治療法もなく、苦しんで死んでしまう可能性があるらしいですね。
        しかも感染力が強くて、マスクや消毒などで厳重に身を守ってないと大変なのだとか。
        自分だけじゃなく、人にも感染させてしまうリスクがある。
        できるだけ他人とは接触しないようにしないといけない。外出も控えないといけない。
        そんなことを続けてたら経済が衰退してしまいますが、
        コロナに感染したらトンデモナイことになるのだから仕方がありません。
        
        で、調べると情報がいろいろ出てきます。
        医学的・科学的な根拠とともに語られており、
        なるほど、COVID-19(新型コロナウイルス)っていう感染力の強い凶悪なウイルスが存在していて、
        感染するとトンデモナイことになるのだ、
        と感じさせられます。
        
        それらの医学的・科学的な論拠が実際のところどれほど正当なものなのか、
        それを判断する見識はドシロウトの私にはありません。
        しかしそれは私以外の多くの人にとっても同様でしょう。
        
        ただ、「なるほど、そうなんだ」と、感じさせられる。そういう説得力がある。        
        
        でも大丈夫。この状況を解決するべく、ワクチンが開発されました。
        急いで開発したので治験をあんまりやってないですが、事態が事態ですから仕方がないですね。
        治験をしてないとは言っても、世界的に有名な製薬会社が頑張って作ったんだし、多分大丈夫。
        それにもう大勢の人が打ってることだし多分大丈夫。
        そんなことより早くみんなでワクチンを打って、パンデミックを収束させないと。
        多少は副作用なんかもあるらしいですけど、そんなこと言ってる場合?
        ワクチン打たないとパンデミックが終わらないんだよ?
        ワクチン打たないなんて、自分のことしか考えてないんでしょ?
        そんな自分勝手なこと、許されると思ってるんですか?
        
        これからは、ワクチン打ったという証明書がないと公共機関が利用できなくなりますね。
        当然です。
        だって新型コロナという恐ろしいウイルスが蔓延しているのだから。
        この状況でワクチンを打たない奴はウイルスを蔓延させる極悪人。
        そんななやつに社会生活を営む資格なし。
        あなたはもちろん常識をわきまえた正常な大人ですよね? ね? ね?
        さぁみんなでワクチンを打とう。
        え? ウイルスは変化するからまた別のワクチンを打たないといけなくなるって?
        じゃあまた打てばいいじゃない、ワクチン!
        さぁ、みんなでワクチンを打とう!
        ワクチン ワクチン ワクチンチン! ワクワク チンチン ワクチンチン!
        さぁ、みなさんご一緒に!
        ワクチン ワクチン ワクチンチン! ワクワク チンチン ワクチンチン!
        
        
        さて、この「新型コロナウイルスのパンデミック」という現象。
        これを、どう、見るか?
        
        私はこれ、妄想だと思ってます。
        ただ、念を押しておきたいのですが、先ほども申し上げたとおり、
        「現実=共有された妄想」です。
        
        
        
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        ■ 現実・妄想・その出どころ
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        「考え方は人それぞれ」とは幼稚園で全国民の脳髄に叩き込まれる大人気の定番フレーズですが、
        上記2つの「現実」は、互いに相容れない仕組みになっている。
        
        「現実:コロナ・リアリティ」では、ワクチンを打たない奴は感染を広げる極悪人であり、
        打たないという選択(をする人間)を許容できない。共存できない。
        
        「現実:シェディング・リアリティ」では、ワクチンを打つと有害物質をまき散らす人間になってしまう。
        打つという選択(をする人間)を許容できない。共存できない。
        
        ではさて、どちらの「現実」が「本物の現実」なのか……
        などという方向に議論を進めてしまうと大変です。
        何しろどちらも、その中にいる人にとっては紛れもない「現実」です。
        互いに互いを否定し合い、血で血を洗う修羅の世界になってしまう。
        ワクチンでワクチンを洗うワクワクチンチン大乱闘になってしまう。
        
        
        ただ、
        「ウイルスや病原菌といった目に見えないものが感染して病気が広がることがある」
        ということ自体は、少なくとも21世紀の日本という「場」を生きる多くの我々が共有する「現実」であり、
        その「現実」に立脚した「コロナ・リアリティ」を、
        完全に根も葉もない妄想だと斬って捨ててしまうのは、あまり「現実的ではない」とは言えるでしょう。
        
        そうは言っても、
        ロクに安全性も確認されていないワクワクなチンチンを
        半強制的に体内にどぴゅどぴゅと注入されるのはイヤだと少なからぬ人が感じるのも当然と言えるでしょう。
        
        ましてや本来プライベートな事項であるはずの体内どぴゅどぴゅ体験の有無を
        パスポートとやらで衆人監視のもとに晒されるだとか、
        体内どぴゅどぴゅ未経験では外出や公共機関の利用が許されないだとか、
        そんなのは我慢できない! と少なからぬ人が感じるのも当然と言えるでしょう。
        
        しかし世間はそれを許さない。
        早く挿入させろよハァハァとワクワクなチンチンを大量にズラリと陳列して迫ってくる。
        まさか、ソレ、私の中に入れる気じゃないでしょうね……?
        私、絶対イヤだからね! イヤ、イヤぁ……イヤぁぁぁ〜〜〜!!!(ズブリッ!! ビュルッ ビュルッ ビュルッ...
        
        かくなる上は、強制びゅるびゅるされないために何らかの手を打たねばなりません。
        しかし、びゅるびゅるしないと感染が広がって危険だと言う。びゅるびゅるしない奴はメーワクなのだと言う。
        ならば、同じ手で対抗するしかない。
        びゅるびゅるしちゃうと、有害物質が出て危険だと言おう。びゅるびゅるする奴こそメーワクなのだと言おう。
        
        びゅるびゅるしない奴はメーワク!
        vs
        びゅるびゅるする奴こそメーワク!
        
        かくして21世紀の地球で人類を真っ二つに分断するワクワクチンチン大乱闘の火ぶたが切って落とされた。
        人類の命運やいかに。(← 今ここ)
        
        
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        ■ リアリティの起源
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        上記の話で、「シェディング・リアリティ」の由来として、
        「コロナ・リアリティ」への対抗が起源、という説をお話しました。
        
        では「コロナ・リアリティ」は何が起源なのでしょう?
        
        21世紀の現代的な「常識」から考えて、
        「コロナ」なる病原性ウイルスが存在するという事項そのものを「妄想」と断ずるのは「現実的ではない」
        とは、さきほどもお話した通り。
        
        しかし、その「コロナ」を理由にして、
        それが「泣く子も黙るほど危険なウイルスである」だとか、
        「マスクや消毒や各種の自粛を徹底しないと感染がバスガス爆発して地球が吹き飛ぶ」だとか、
        そういう方向に話を持っていくと、集団妄想の様相を呈してきます。
        
        「現実的」な言い方として、
        「コロナ」は実在するのだとしても、
        「コロナ・リアリティ」は「共有された妄想」と言っておきたい。
        
        ではなぜ、そのような妄想が必要だったのか?
        「シェディング・リアリティ」が「コロナ・リアリティ」から身を守るために必要だったのと同様、
        「コロナ・リアリティ」も、何らかの必要があって、出現を余儀なくされたものであるはず。
        コロナウイルスが危険だから?
        だからそれは「コロナ・リアリティ」ぢゃと申してあろうが。
        
        それ以前の領域を、
        それ以前の我々自身の心の内側を、
        「妄想」に囚われない目で見つめねばならない。向き合わねばならない。
        
        
        「シェディング」にしても、必ずしも根も葉もない妄想というわけではないのでしょう。
        何か、そういうようなケースが、実際にある、のでしょう。
        ただ、もしかすると「小さな」ものだったかもしれないその「事実」が
        強制びゅるびゅるから身を守るために必要だった。
        そして、それを核に「シェディング・リアリティ」が構築された。
        
        同様に、「コロナ」や、それによる肺炎も、必ずしも根も葉もない捏造ではないはずです。
        何か、それに該当する何らかの病気や、その原因になるものは、実際にある、のでしょう。
        ただ、もしかすると「小さな」ものだったかもしれないその「事実」が、
        何らかの理由で必要とされた。
        そして、それを核に「コロナ・リアリティ」が構築された。
        
        その「何らかの理由」とは何か?
        
        
        
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        ■ コントロール「したい」と「されたい」のオシャレなコラボ
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        そこで例えば、何か大きな組織だとか国家だとかが、
        人々を管理・統制するために大規模なハカリゴトを巡らせている……
        的な話が出てきたりもするわけですが、
        
        それはちょっと、何と言うのかな、
        外部の分かりやすいところに敵を見つけて叩いている(だけ)、というふうに私には見えます。
        
        それに類することは実際にあるのでしょう。
        「コロナ」という、この機に乗じて、人々の動きを管理・統制してやろうイヒヒのヒ、
        というドス黒い企みを巡らせる巨悪みたいなのが、
        あるか・ないかで言えば、あるのでしょう。
        
        ただ、その手の大きな組織が人々をコントロールしたがるのはいつものことです。
        あるいは逆に、人間は誰しも他人をコントロールしたいという欲望を持っており、
        それがうまい具合に組織化して巨大化したものが、その手の大組織だとも言えるでしょう。
        
        そこにはまた、「コントロールされたい」という、受け手側の「ニーズ」もあり、
        両者がうまく手を組むところに、組織が目に見える形で組織として巨大化し、
        ますます多くの人々を巻き込み、巨大化を続けようとする、そういう現象的側面もあることでしょう。
        
        だから、仮に、今回の「コロナ禍」であれこれと画策している政府とか企業とかの
        「企み」を暴いて白日のものに晒け出して打倒する、なんてことができたとしても、
        結局のところ、形を変えて同じことが繰り返されるものと思われます。
        
        ただ、今回の「コロナ禍」は、それがかなり大がかりな規模で起きているという点で、
        これまでも、ある種の普通のこととして行われてきた支配のスキームとは
        一線を画するもののようには思います。
        まさにワクワクチンチン大乱闘と呼ぶに相応しい何かが起きていると言うべきでしょう。
        
        
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        ■ 「ぽんぽん痛いよ」コンテスト
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        いわゆる「ワクチン反対派」の立場で書かれたワクチンの危険性に関する情報を見ていると、
        ワクチンを接種すると、何か、脳を操られるだとか、
        思考力が低下して、従順な人間になってしまうだとか、
        「危険性」の一環として、そうしたことがさかんに言われていることに気付きます。
        もちろん、「科学的根拠」とともに、そうした話が述べられている。
        
        これも、今まで述べてきたことと同様、
        そうした現象は、まったく根も葉もない妄想というわけではないのでしょう。
        ある程度の「科学的根拠」とともに、そういう可能性がある、と言えるだけの「何か」はあるのでしょう。
        ただ、それを殊更にピックアップして喧伝する、ということの背景には、
        「科学」とは別種の、人の心情が関係しているのではないかとは思います。
        
        「現実」とは、単なる客観的な世界のことではなく、
        そこにいる人々の心情の上に構築される世界観なのでした。
        
        「反対派」の目には、世間に言われるがまま体内に得体の知れない汁をどぴゅどぴゅさせてしまうのは、
        自分の意志を放棄した操り人形になってしまうのと同然。
        自分はそんなふうにはなりたくない。
        
        しかし、それをそのまま「感情論」として言っても「世間に通じる」とは思われない。
        そもそも「ワクチン推進派」の方こそ、「科学で武装」して攻めてきている。
        となれば、こちらとしても同様に「科学で武装」して対抗せざるを得ない。
        そしてつまり……そう、ワクワクチンチン大乱闘の勃発です。(← 言いたかった)
        
        
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        ■ 問題の本質とその所在
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        コロナ云々、ワクチン云々、というよりも、それ以前のところに問題の根がある。
        
        一つは「手法」の問題。
        
        他人を説得するにはどうすればいいか?
        
        医学とか科学とか、そういう「物質的」なものを根拠にしないと「話が通じない」し、
        逆に、そういう「物質的」なものを根拠に迫ってこられると「逆らうことが許されない」。
        
        「学校に行きたくない」は「ワガママ」であり、
        「おなかが痛い」は「仕方がないですね、保健室で休んでなさい」です。
        
        それが科学という物質的根拠を頼りに文明を発展させてきた、
        21世紀の我々の世界観であり「現実」です。
        
        
        もう一つは「目的」の問題。

        いかにして他人を操るか?
        いかにして他人に操られずにいるか?

        この2つの精神衝動が、「人間という場」で常に相克している。
        
        人類の歴史を振り返ってみれば、
        時代が下るにつれ、「個人」という概念が認識されるようになってきました。
        そして、その「尊重」や「自律」といったことが叫ばれるようになってきました。
        その一方、時代が下るにつれ、人口は増加し、社会は複雑化してきました。
        
        「個人の自律や尊重」と「社会の維持や発展」という課題をいかにして両立させるか?
        
        これは「コロナパーティ」という一大イベントが発生してもしなくても、
        人類の進化の歩みのどこかの時点で、遅かれ早かれ、直面せざるを得ない課題のように思われます。
        
        そのために何か神様的な存在が「コロナ」を地球に発生させた……
        などと言うとこれまた「妄想」じみてしまいますが、
        いずれにせよ、抜き差しならない地点にまで来ていたのであり、
        それが「コロナ」ということをキッカケに、一気に表面化した、とは言っていいような気が致します。
        
        つまり、問題の本質は「コロナ」云々とは別のところにあるということです。
        人間の在り方が問われている。
        私の、在り方が問われている。
        貴方の在り方が問われている。
        
        
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        ■ 3方向の精神衝動
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        さきほど、
        
        > いかにして他人を操るか?
        > いかにして他人に操られずにいるか?
        
        という2方向の精神衝動の相克について触れました。
        ただ、「操る」は相手があることです。
        相手の側にも「操られたい」という願望があってこそ(共犯関係的に)成立する。
        「操られたい」と言ってマズければ、「導かれたい」と言ってもいい。
        人は誰しも、何か自分の外側にある大きな存在に操られたい(導かれたい)という願望がある。
        
        そこで、上記2つにもう1つを加えて、3方向のセットとして理解しておきたい。
        
        ・他人を操りたい
        ・他人に操られたくない
        ・他人に操られたい
        
        これらは、人間が「複数の人間」という形式で存在している、その存在の形式の上に、
        必然的に生じてくるものです。
        もし人間がこの世に一人しかいなかったとしたら、
        そこでは「自己と他者」という区別そのものが存立し得ず、
        上記のような衝動も立ち現れる余地がありません。
        
        人間は「自分」と「それ以外」に分かれています。
        なぜ「こうなった」のでしょう?
        それをこの場で言語化すると原稿用紙ン百枚の超大作になるのでヤメておきますが、
        みなさんそれぞれに「思いを馳せて」頂ければと思います。(←そこそこ重要)
        
        ともかく人間は「一人の自己」と「それ以外の他者たち」という形式で存在しています。
        そのために制限が生じます。制限が生じれば、反発が生じます。
        
        自分と他人は別人であり、他人を操ることはできない。だからこそ、他人を思い通りにしたくなる。
        他人とともに生きれば、他人たちからの操りを受ける。だからこそ、他人に煩わされずに生きたくなる。
        自分はその他の他者から分断された孤独な存在である。だからこそ、他人と混ざり合いたくなる。
        
        
        なお、これらは別に何も特別な話ではありません。
        いわゆる「常識的」な言葉で言い直せば、
        「みんなで仲良くしましょう」とか、
        「お友達を大切にしましょう」とか、
        「一人でお片づけできるようになりましょう」とか、
        どれもお馴染みの話です。
        
        ただ、そういうスローガン的な言葉をお手玉するだけでは、
        単なる形だけの教条になってしまい、あまり真剣に受け止めることができなくなってくる。
        ことによると、そんな「子供じみた」ことは斜に構えてバカにして見せることこそ、
        一人前の大人であるかのような、そんな風潮さえ生じる。
        
        しかし、それらは人間の存在の根本に由来する逃れがたいものです。
        その根本に立ち返って、世の中の、自分の、在り方を捉え直す。
        それでこそ、混迷のワクワクチンチン大乱闘の時代を清く正しく美しく進んでいけるというものです。
        
        
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        ■ 自由という重荷
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        上に挙げた3つのうち、
        
        ・他人を操りたい
        ・他人に操られたくない
        
        に関しては、敢えて改めて言うまでもなく、それなりにお馴染みのことではないかと思います。
        ですので、ここでは
        
        ・他人に操られたい
        
        に注目していきたいと思います。
        
        一言で言うと「自由(の放棄)」に関連することですね。
        「他人を操りたい」も「操られたくない」も、自分の自由を確保するための手段と解することができます。
        それに対して、
        「自由を放棄したい」という衝動もまた存在する。
        
        ここをご覧になっているお友達はゲームに興味がある方が多いと思いますので、
        ゲームにたとえてお話しましょう。
        
        たとえばノベルゲームやRPGをプレイしていて、選択肢が登場すると、
        面倒くささを感じることがあるのではないでしょうか。
        
        自分で決定しなければならないという重荷。
        
        「自由度が高い」と言えば聞こえは良いですが、
        プレイ体験の質がプレイヤー次第となる。
        「自由度が高いゲーム」は「面倒くさいゲーム」でもあります。
        一方、選択肢の存在しない「一本道」形式のゲームの方が、
        結局どうプレイしても同じ、という気楽さがある。
        
        自由は面倒くさい。
        
        自分の選択の結果、何か悪いことが起きるかもしれない。
        それを他人のせいにすることもできるでしょう。
        しかし他人のせいなのだとすると、そもそも「自由ではなかった」ということです。
        
        「私は自由なのだ」と認め続ける限り、その結果起きる悪いことも全て自分のものです。
        
        自由は苦しい。
        
        しかし人間はそもそも、
        「一人の自分」と「それ以外の他人たち」という形式で存在しているのでした。
        
        本質的に、どの「自分」も他者と分断された孤独な一者です。
        そうである以上、
        本質的に、どの「自分」も、その他のいかなる他人をも操ることはできず、
        と同時に、どの「自分」も、その他のいかなる他人からの操りも届かない場所にいる。
        
        だからこそ、自由という重荷を、誰かに肩代わりして欲しくなる。
        そのような願望が生じること自体も本質的であり、
        そのような願望が叶わないこともまた本質的なことです。
        
        なお、これは、端的にそうである、ということであり、
        たとえば
        「人間は自由であるべきだ」だとか、
        「人間は自律しなければならない」だとか、
        「自分の頭で物事を判断しなければならない」だとか、
        そういう話が出てくる以前の領域のことです。
        そういう「意味づけ」が行われる以前の、単なる事実的な前提の領域に属する事柄です。
        
        人間が「一人の自分」と「それ以外の他人たち」という形式で存在していること、
        それ自体の一つの側面です。
        
        
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        ■ 人類の今まで・今起きていること・これからのこと
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        人間が「一人の自分」と「それ以外の他人たち」という形式で存在していること、
        それにより
        
        ・他人を操りたい
        ・他人に操られたくない
        ・他人に操られたい
        
        という3方向の衝動が生じ、常に相克が起きている。
        3者が互いに対立するとともに、互いに煽り合い、
        常時、バランスを揺らがせつつ、終わることのない相克が続いている。
        
        それは今に始まったことではなく、
        人間がその存在を
        「一人の自分」と「それ以外の他人たち」という形式にし始めたときから続いていることです。
        
        ただ、それがちょっとここに来て、
        「コロナ云々」という形で、風雲急を告げている感があるわけですね。
        今までも同じようなことは歴史上常に・世界中至る所で繰り返されてきたし、
        これからも繰り返されるものと思われますが、
        ちょっと、こう、にわかに今、一気に大決戦の様相を呈しているわけですね。
        チンチンのワクワクが収まらない。今にも堤防決壊しそうです。アッー!
        
        こうした根本的な相克が「収束」するときが来るとすれば、
        それは人類が宇宙から滅び去るか、
        あるいは人間の存在の形式そのものが変化するときでしょう。
        
        その変化とはどのようなものになるのか?
        今の形式になる以前の状態への退行なのか?
        それとも次の何らかの状態への跳躍なのか?
        
        いずれにせよ、もはや後戻りはできません。
        いずれにせよ、いつかは決着をつけるしかなかった。
        人間がその存在を「一人の自分」と「それ以外の他人たち」という形式にし始めたときから、
        いつかは、「こう」なることは避けられなかった。
        
        ではこれから「どう」していくのか?
        あなたも私も、今生きている誰もが、人類の最前線に立つ代表者です。
        
        
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        ■ まとめ
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        ワクチンを打つのか、打たないのか?
        マスクを着けるのか、着けないのか?
        ウイルスに感染するのか、しないのか?
        重篤化するのか、しないのか?
        死ぬのか、死なないのか?
        
        それらが「どうでもいい」とは言わないでおきましょう。
        それなりに重大なことではあるでしょう。
        ただ、そうした「コロナ云々」だけに囚われていたのでは、振り回されるばかりというものです。
        
        今回述べたお話が、すべて私の「妄想」なのであれば、それはそれでいいでしょう。
        あるいは逆に、すべてを真に受けて、ではこれからどうすべきかといったことまで、
        私の言うがままになってしまうとすれば、
        それこそワクワクチンチン強制中出しに負けず劣らず「おかしなこと」と言うべきでしょう。
        
        「今起きていること」を「どう」見るのか?
        そしてこれから「どう」していくのか?
        今回述べたお話が、その視点の一つを示唆するものとなれば幸いです。
        
        なお、お察しの通り、私自身はワクチン打たないことにしてる人間ですが、
        別にそれはどうでもいいことです。
        同様に、あなたがワクチン打つ、あるいは打ったのだとしても、それはそれで全然いいんですよ?
        あなたにはあなたのご判断やご事情がおありのことでしょう。
        そういう、打つ・打たない、良い・悪い、という次元の話ではない、ということは、
        ここまで読んでくださったあなたには伝わっているといいなぁと願ってやみません。
        
        
        てなわけで、少々長くなりましたが、
        今日は慈悲深い私から有難いお話が聞けて超ラッキーでしたね。
        
        ではまた。
        次の進捗報告でお会いしましょう。
        今日もあなたが幸せでありますように。