回想シーンに着手
ストーリー的な要素はほぼないと常々申し上げておりましたが、
進行状況に応じて回想シーンが解放されていくというイカしたフィーチャーがございます。
で、今回した作業としては、
・そのシステム部分を実装
・第一話を入力
でございます。
もうちょっと正確に言うと、
・全話分のネタを出して、
・第一話分を実際に書いて、
・システム部分を実装して、
・データとして入力
ということであります。
いつもながら私は本当にがんばり屋さんですね。
ちょっと文字が読みづらいかな〜?
改行の位置や行間の幅なども調整したいところですが、
そういうのは後でどうにでもなるので、
ともかく予定分のデータを用意&埋めてしまうことを優先です。
あ、完成を待ち望んでいらっしゃる私の大ファンの皆さんのためにお伝えしておくと、
この要素は予定になかったのに突然思いついて実装を始めて
エターナり神の暗黒のお口に前のめりにダイブする例のアレではなく、
元々予定していた要素です。
分量的には、マ○ンドルが一杯の丼メシだとすると、米一粒ぐらいです。
2〜3分で読める程度の短いお話を、各キャラごとに7話前後の予定。
いわゆる「読まなくてもいいんだけど」的な要素ではあるので、
余力が無ければ実装は見送ってもいいかな〜、と思わないでもありませんでしたが、
誤字脱字を探す楽しみを入れておくのも製作者としての重要にして崇高な使命。
であれば、愛する皆さんのため、このようなテキスト系の要素は断じて外すわけには参りません。
ん? さきほど「各キャラ」って言いました?
言いましたね。
いかにも香ばしいですが、そのへんどうなんですか?
はい。
できれば、ステータスの異なるキャラを3人ぐらい用意しておいて、
ゲーム開始時に選択できるようにしたいな〜、という野望はあって、
回想シーン用のネタは一応3キャラ分用意した次第。
ただ、それは一通り完成した後の追加作業という形でも対応できることなので、
現段階では、ともかく1キャラ分、中身をそろえることが先決です。
とは言っても、回想シーン以外は数値的なステータスで差をつけるだけなので、
そんなに重たい作業ではないかな、という気も。
それにしても、この手の文章を書くのはマイン○ル以来です。
単純計算でおよそ数億年ぶりということになりますね。
月日の経つのは早いもの。
地球の皆さんも少しは進化なさったことでしょう。
昔から、地球人三億年会わざれば刮目して見よと申しますからね。
皆さんがエラ呼吸をしていたのが昨日のことのようです。しみじみ。
正味の話、ブランクが心配でしたが、
担当の宇宙人さんとの交渉は順調に進んでおります。
こ存じのように、宇宙方面には顔が広いので多分どうにかなってしまうのでしょう。
システムとネタとフォーマットが定まったので、そんなに何億年もかかることはないハズ。
で、1キャラ分、回想シーンを揃えれば、
オープニングとエンディングのフォーマットも定まってくるハズ。
見えないレールが見えてきつつあります。未来は明るいですね。わくわくがノンストップ。
早いところ全体的な「体裁」を整えてしまいたい。
人類がいつまで存続できるかは不明ですが、
このペースなら、滅亡の日には間に合うんじゃないかな? よかったのぅ皆の衆。
さて。
私のように長年にわたって地球の皆さんの歩みを見てきた立場からすると、
ついアレコレと口出しをしたくなってしまうことというのは多々あるわけですが、
結局は地球の皆さんにお任せするしかないことだというのもまた、
長年にわたって地球の皆さんの歩みを見てきた立場として、了解せざるを得ないところですね。
たとえて言えば、
バレーボールをしている人たちに向かって、
そんなにボールを落としたくないなら、地面にネットでも広げてみんなで持ったら? とか、
ラグビーをしている人たちに向かって、
そんなにボールを持ちたいなら、人数分用意したら? などと、
本気で言ってしまうとしたら、それこそまさに、
地球の皆さんのことを分かってない宇宙人のセリフというものでしょう。
その点、私は地球生活がそれなりに長いですからね。
ボールを落としたり取られたりして、どんなに苦しそうに、悔しそうに見えたとしても、
それをも込みで本人が選んでそうしていることだというのは、ちゃーんと分かっておりますよ。
それでも、ついうっかり、
じゃあ私がネットを用意してあげるから、とりあえずこのへんに落としなよ、とか、
じゃあ私がボールを用意してあげるから、とりあえずこれでも持っときなよ、とか、
言いたくなってしまったりするわけですが、
「それじゃあイヤ」なんでしょう?
だって、「その方がいい」なら、とっくにそういうふうになってるハズです。
とどのつまり、そこにいる一人一人が、
ボールの落とし合いや奪い合いをすることを自分で選んでその場にいるのであって、
そうである以上、口出しをする余地などなく、ただ距離を置いて尊重するしかありません。
> だって、「その方がいい」なら、とっくにそういうふうになってるハズです。
たまにそれに類する話が突発的に盛り上がったりもしますが、
実際にそれが選ばれることは決してない。
そういう選択肢もあるということを共有した上で、結局、選ぶ答えは決まっている。
すべてはそこにいる一人一人の意志であり選択です。
そうである以上、そこにいる一人一人が、それぞれの意味でハッピーでありますようにと、
ただ距離を置いて願うほかありません。
などと、あまりこういうことを言うのも、
上から目線で嫌味ったらしい感じになってしまいますね。
あくまで比喩を用いて話したあたりに持ち前の慈悲深さが滲み出ているのではありますが、
それでも、ついつい、こういうことを言いたくなってしまうというあたり、
私の側に一定の「割り切れなさ」があるということでもありますね。
そりゃあそうでしょうよ。
ぶっちゃけ、キミたちいつまでそんなこと繰り返してんの? と思いますもん。
何やかんや不満を滲ませつつ、根本的な解決を図るでもなく。
で、見ていると、いろいろと思うところや言いたいことが出てくるわけですが、
やはり考えれば考えるほど、結局のところ、そこにいる一人一人の意志および選択なのであって、
私が何かうまいこと言ったとしても、ドウニモナラナイ。
とは言え、月日の経過とともに、いつの間にか「姿が見えなく」なった人も少なからずおり、
案外、「気付いて、やめた」人もいないわけではないのかもしれませんね。
私も「そっち側」になりつつあるところなのかもしれない。
いずれにせよ「現状のこの世」が「持続不可能」なのは否定しようのないところであり、
茶番ながらに一定の意味は含んでいることは認めつつも、
どこかで何らかの「覚悟」を決めざるを得ないのではありますが。
ただ、もうちょっと何というか、こう、
「あれがダメなら、こっちしかないだろう」ではなく、
「第三の選択肢」があるのではないか? という気もしていて、
だからこそ残る「割り切れなさ」を、前向きな意味で大事にしたい。
一応言っておくと、この話は「いわゆる自己責任論」とは微妙かつ根本的に違う話ですね。
最終的に本人の選択に委ねられる、という点に関しては同じといえば同じですが、
そこに果たして、本当に自由があるのかという話。
「いわゆる」の方は、たとえばバレーボールの比喩で言えば、
そもそも「バレーボール自体をしない」という発想自体を巧妙に締め出した上で、
「ボールを落とすのはオマエが弱いから悪い」という話でありましょう。
さらに言えば、そういう人を助ける必要もないという他者排斥の思想でありましょう。
自由も愛もない。
などと、「自己責任論批判」を開陳したところで、やはり、ドウシヨウモナイことです。
「うまい批判」があろうがなかろうが関係ない。
人がそれを煽り、人がそれを選ぶ。他人を操ることはできない。
なんでそっち側に行っちゃうのか、というのは
贔屓目に言えば「一種の謎」ということにはなるでしょうか。
一つ思うのは、バレーボールであれラグビーであれ何であれ、
敷衍して言えば「いわゆる人生」に「意味がある」という「錯覚」の「行き着く先・末路」
なのかなというところです。
「人生は無意味」ですが、それが「悪い」ことだなんて誰に言われたのでしょう?
いわゆるそういう「この世的なこと」の虚しさを認めた先にこそ、
根源的な愛と自由が立ち現れる地平があるような気がします。
それにもかかわらず、一体全体なんでまた
「この世」なるものがドウシヨウモナク存在しちゃっているのか、
なぜ無ではなく有なのか、
その全体は相変わらず謎のままではありますが、
少なくとも「この世」にとらわれてお互いに苦しめ合うことが
「私」や「あなた」の「根本的な願い事」であるはずがないだろうとは思うのです。
だからこそ、上記「いわゆる自己責任論」をはじめとする、
人の思考の範囲を巧妙に狭める魔術が横行していることへの警戒を呼びかけたいところではあります。
他にも大小さまざまなな外的要因というものはあり、
中にはそれこそ宇宙人のような、人間を超えた何らかの勢力のようなものもないとも限りません。
しかし仮にそうなのだとしても、やはり最終的には人間自身の意志や願いが問われるところであり、
また、そこを出発点にするよりほかないというものでもあるでしょう。
なお、いわゆる「自由意志」なるものが
「ある」とか「ない」とかいうのは本質を逸れた議論でありましょう。
他人のことについては云々できるとしても、
自分のことについては議論自体が成立しない。
「ある・ない」ではなく、「これは私の意志だ」と「引き受ける」か否か、です。
有無の問題ではなく覚悟の問題だ。
外的要因の影響など、常にあるに決まっており、
その上で、「願い」をいかに見定め、何を選び取るか。
しかし、こうして見ると「自由」とは「疲れる」ものですね。
地球の皆さんが何やかんやと魔術的ロジックや外的要因を「祭り上げ」て、
他人の言動に流されたくなるのも、わからないではありません。
誰かが「悪い」わけではないのでしょう。
そういう「人間的現実」をも含めて、
なぜこの世はこのようなのか? と、お馴染みのダジャレを久々に申し上げたくもなるというもの。
なぜ人間がいるのか? なぜ意識があるのか?
なぜ「私」がいるのか? なぜ「あなた」がいるのか?
いつかすべてを明らかにしたいと思いつつ、
さしあたっては、私から言えるのはこれだけです。
今日もあなたが幸せでありますように。
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