現時点で埋めれるデータをじゃんじゃん埋めていくの巻
【済】・祝福の秘儀の仕様変更:「積み重ね」式に
【済】・「意図」システムの実装
【済】・ミニマップを「地図アイテム」で表示可能になるようにする
【済】・宝箱:ミニマップ を各ダンジョンに配置
【済】・宝箱:祝福の秘儀 を各ダンジョンに配置
【済】・宝箱:意図 を各ダンジョンに配置
【済】・宝箱:カギ を各ダンジョンに配置
【済】・宝箱:集合点の位置を各小路に配置
【済】・「いのり」を実装
【済】・アイテムを実装
【済】・アイテムの埋蔵地点のシステムを実装
【済】・アイテム発生場所を各ダンジョンに配置
【済】・ストアを各地(各街)に配置
頑張った感を丸ごとお伝えすべく、作業用のメモからどどーんとコピペです。
この私の作業用のメモを見れるなんて、私の大ファンの皆さんにとってはヨダレが止まりませんね。
要するに何をしていたのか? かいつまんで申し上げましょう。
アイテムと装備品を実装して、各地のダンジョンの宝箱や各町のストアに配置した、ということです。
いやー疲れた。
私は本当にがんばり屋さんですね。
かくなる上は私の名にちなんだ賞を設立して、地球の皆さんを表彰するしかありません。
というわけで、完成に向けて突き進むべく、
現時点で埋めることが可能なデータをじゃんじゃん埋めていくパートなわけですが、
上記のメモの一行目に「仕様変更」とかいう、
エターナり神が大好きそうな香ばしいフレーズが登場してますね。
> ・祝福の秘儀の仕様変更:「積み重ね」式に
この期に及んで仕様変更とは一体どういう了見か。
申し上げましょう。
装備アイテムの話です。
いわゆるRPGって、装備を交換してキャラを強化していく的な要素があるじゃないですか。
で、このゲームでも当初はオーソドックスなシステムを踏襲してそのようにしていたのですけど、
1つ問題が。
たとえば「パラメータ+10」の装備アイテムを手に入れたとすると、
それ以降、「+9」以下のアイテムは無用の長物になってしまう。
進行が一直線なゲームならそれでいいのかもしれないのですが、
このゲームは各地のダンジョンを、順番を規程せずに探索して、アイテムを集めていく、
という内容なのでした。
しかもシンボルエンカウント式にしたことで、順番の自由度はさらに高まることに。
なので、先に強力なアイテムを入手してしまい、他のダンジョンに入る意味が薄れてしまう、
ということが起こり得る。
というより「性能の低い順に入手してもらう」という前提が根本的に成立しない。
というわけで、「装備品として脱着する」のではなく、
「効力を積み重ねていく」という方式に変更した次第。
これなら、どの順番で、いくつ入手しても、無駄にはならない。
ちなみに、この件は今突発的に思いついたわけではなく、当初から懸念していたというか、
むしろ、このゲームを作り始める以前から、
よくある「RPG」のシステム自体の問題点として気になっていたことではあります。
で、そういう面も含めて「従来どおりの分かりやすいシステム」で行こうと思っていたのですが、
シンボルエンカウント式にしたことで、当初の想定以上に自由度が上がったと言うか、
自由さの結果として、各地を探索する意味が薄れてしまっては本末転倒かな、ということで、
迫りくるエターナり神の足音におびえつつ、仕様変更に踏み切った次第。
> ・「意図」システムの実装
こちらはいわゆるパッシブスキル。
「毎ターン自動的に回復」とか、そういうの。
スキルというより、装備品として脱着する方式なので、アクセサリと言った方がいいのかな。
こちらに関しては、単なる数値的な大小ではなく、個別に機能自体が異なっているので、
入手する順番に関係なく、「複数入手して脱着して変更」することの意味が無くなることはないハズ。
これは仕様変更ではなく、当初から予定していたフィーチャーです。
そんなにガチガチに戦略を組まないと進めないような調整にはしないつもりではありますが、
ゲームを進めるにつれて選択肢が増えていくのはRPG的なワビサビなのではないでしょうか。
特に「ダンジョン探索」なので、
「戦って経験値を上げてレベルアップ」というより、
「探索してアイテムを集めてパワーアップ」の方向に傾けたのは正解なような気がしておりますよ。
あ、念のため言っておくと「戦い」ではないですからね。
「攻撃」して「倒す」とか「倒される」とかいう内容ではないですからね。
今は一般論の文法で話すために「戦い」という単語を使いましたが、
このゲームでは、「お相手キャラさん」たちとの「セッション」ですからね。口が酸っぱい。Ph低め。
で、実装したアイテムを各地のダンジョンに宝箱などの形で配置した次第。
重要なアイテムは分かりやすく宝箱で。
なんで洞窟内に宝箱が置いてあるんだ? という伝統的なツッコミは承知しておりますが、
それを言い出すと、なんで月と太陽の見た目の大きさが一緒なんだ? ってなモンで、
茶番はある程度織り込み済みでありましょう。
「RPG」という時点で既にある意味二次創作のようなものでもある。
システム的にこだわらない部分に関しては敢えて自己主張せず、分かりやすさ優先で。
その他の消耗品は、それっぽい地形を調べると落ちてることがあったりなかったりする。
基本的に、各地のダンジョンを巡って重要なアイテムを集めながら進めていくのがメインの縦糸で、
そのついでのワビサビ要素として、消耗品的なものを拾えたりもするという構図。
で。
この設置作業が地味に面倒くさくて死ぬかと思いました。
ゲームを作る過程で、どうしても避けられない面倒くさいパートというのはあると思うのですが、
このパートがまさにそれだった気がします。
重要系のアイテムよりも、その他の消耗品の配置がキツかったですね。
一ヶ所一ヶ所に深い意味があるわけではないものの、とにかく数が多い。
全体で何やかんやと約600件。
これで死ななかっただなんて、私はどこまで死に見放されているのでしょう。おのれ〜。
こういう「面倒くささ」の正体は何なのでしょうね。
作業のハードルが高いわけではない。
が、達成感が低い。しかも量が多く、いくらやっても山が減らず、
「前進している手応え」を感じにくい。
しかし、やらなければ終わらない。
宇宙広しといえども、この私がやらなければ、他にやる人は一人もいない。
私がやらねば!
はい。
それにしても、世の中にリリースされている数々のRPG(に限りませんが)のそれぞれに、
何らかの「面倒くささ」を乗り越えた軌跡があるのだろうと想像すると、
いかなるゲームといえども涙なしにはプレイできませんね。
すべてのゲームは泣きゲーである。
今回は大体そんな感じです。
まだ大小さまざま作業は残っておりますが、
現時点で可能な「とりあえず埋めとけ」な箇所はあらかた埋まったかな?
数値的な部分はオイオイ調整していくとして……。
あ、モブ系のNPCはまだ手をつけてないのでした。
セリフを考えるのは「とりあえず埋めとけ」なノリというわけにはいかないかな。
あと、固有名詞が決まってないのでした。「街その1」とかになってる。
キャラ名も今は仮の状態。
前回お話してたアイテム欄のUI変更も未着手だ。
誰か代わりにやってくれないかな。
宇宙は広大無辺なのだから私の他にも私がいたってよさそうなものですが、
しかし不思議なことに、宇宙がいくら広くても「私」は「この私」しかいないのでした。
ゆえに私がやらねば!
はい。
最近ツイッターへの書き込みは減っておりますが、閲覧はしばしばしております。
で、エターナり神に関する情報が定期的に流れてくるのが、今まで以上に目に入ってしまいますね。
実に恐ろしいことです。
死すら恐れぬこの私ですが、今の私にとってはエターナり神こそが恐ろしい。
まんじゅうの次に恐ろしい。
なので、エターナりじゃなく、まんじゅうをいただきたい。
全ての国民に無条件かつ一律にまんじゅうの給付を。
政府はベーシックインカムが無理なら
ベーシックまんじゅうをさっさと配っていただきたいですね。
ベーシックインカムか。
前回の話の続きじゃないですが、これも反出○主義やイ○ディーゲームやフリ○ゲームと同様、
言葉が一人歩きしている典型例という面はありますね。
「言葉」が存在することで、概念が普及する一方、
結局、人によって別々の意味で言葉を使うので、話がややこしくなる。
しかしそんなことは根本的にはドウデモよく、
一人一人の「私は本当のところ何を願っているか?」という
自覚や意識こそが重要だとは思うのですが。
しかしその「内面」からこそ、目を逸らし、
言葉のぶつけ合いに終始するのだからドウシヨウモナイ。
「願い」は何なのか?
たとえば「世の中を良くしたい」と思っているのか、「単に議論に勝ちたい」だけなのか。
他にも「世間体の中でイイカッコしたい」というのもよくあるケースかな?
いずれにしても、BIにせよ何にせよ、議論なんてとっくの昔に出尽くしており、
結局、それ以前の、いわば「人生に対する態度」の問題としか言いようがない。
財源があるとかないとか、そんな話はどうだっていい。
そもそもカネの問題ではないので財源論自体ナンセンスなわけですが、
問題はそれ以前です。
別に「財源がない」からBIに反対なのではなく、
「BIに反対したい」からBIに反対なわけでしょう?
で、それで結局のところ、「何を願って」いるのか?
問題はBI云々ではなく、経済云々でもなく、
人間の、自己自身の、心の根本です。
「生まれて・生きて・死ぬ」無数の人間が通り過ぎるこの地球が、
どういう世界であって欲しいと願っているのか?
そういう中で、私は何を願うのか? あなたは何を願うのか?
最近は、私は、いわゆる「世の中を良くする」こと自体は、
あまり重大なことではないような気がしつつあります。
なにしろ「結局死ぬ」わけです。
などと言うと、
「これから生まれてくる未来の子供たちのために」などという言説が登場したりするわけですが、
そんなことをあと何億年続ければ気が済むのか?
もちろん「世の中が良く」なって欲しいですが、
どうも、それが「この物質の地球」上で実現するとは思えない。
というより、「物質の地球」自体が、そもそも、
「良い世の中」の「実現の場」というわけではない、ような気がしてなりません。
さらに言えば、
仮に「この物質の地球」上に何らかの「楽園」を実現させることに成功したとして、
そのこと自体に一体何の意味があるのか?
あるいは何か「うまい作戦」を弄して、「世の中を変え」たとして、
そんなことに何の意味があるのか?
結局、一人一人の「願い」や「自覚」がともなわなければ意味はなく、
むしろ、それこそが「意味」なのではないのか?
強いて言うならば、一人一人が心の根本の「願い」や「自覚」に辿り着けるような
そういう環境が整った世界が「良い世界」ということにはなるのかな?
ちなみに仏教でいう極楽浄土とは、酒池肉林のパラダイスのことではなく、
思う存分仏教の修行ができる場所のことだそうですね。
だから目的地はその「心の根本」なのであり、
「願い」が「物質の地球上に実現するかどうか」は、
無意味とは言いませんが、それ自体が目的ではないオマケのようなものではないのか。
オマケだけいくらコレクションしても仕方がない。
あるいは強権的に「理想」で支配されるディストピアとは、そのことかもしれませんね。
「物質の世界」はそのうち消滅するでしょう。
そのあと、何が残るのか?
私たちは何のために「物質の世界」という「島」を用意したのだったか?
「物質化現象」と言えば「オカルト」ですが、
私たちはまさに今、「この宇宙」という「物質化現象」の真っ只中にいることを忘れてはならない。
この「オカルト」とは「お化けの話」ではなく「心の根本」の話です。
しかし「物質」の成り立ちを思い起こしてみれば矛盾も感じないではありませんね。
そもそも、人々が「心の根本」から目をそらし、
自分(たち)の「外側」に「共有物」を凝固させたことこそが「物質」の成り立ちと言えます。
あるいは「この物質世界」は、
そのように、「心の現実」から「逃避」した人々が
必然的に閉じ込められる「地獄」なのかもしれませんね。
であれば、なおのこと、そんな場所が「良く」なる筈もなく、
「楽園」が「実現」する道理もない。
もしくは、何かが「実現」するときとは、
すなわち、「この物質世界」が必要なくなり、消滅するときと同一であり、
いわば精神面で何かを「実現=realize=気づく」ときなのかもしれません。
なぜ「物質」が必要だったのか?
要は前回の記号の件と話は同じで、
その特定の概念が「重要だ」と思っている人々の間でのみ、
その概念が「実体ある看板」として効力を発揮する。
英単語で物質を表す matter が「問題の重要さ」という意味もあるのは興味深いところです。
そのような外的投影現象としての「物質化されたもの」が不要になるときとは、
つまり、人々が自己自身の内面の真実に気づいたときなのではないでしょうか。
しかし今はまだ、「物質」が必要な段階ではあるのでしょう。
「物質」を介し、この土の上で、この「空気」の中で、
他人同士として、やっていくほか、さしあたり、なさそうではあります。
ただ、「この物質世界」を「如何にこねくり回すか」ではなく、
ここにいる自己自身の、一人一人の、
「願い」およびその「自覚」こそが重要なのだとは思います。
というわけで。
私の好きな人々が幸せでありますように。
私の嫌いな人々が幸せでありますように。
私を嫌っている人々が幸せでありますように。
今日もあなたが幸せでありますように。
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