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◆◆ したこと: ◆◆

        モブNPCの歩行ドット絵を作成した
		

        完璧ですね。非の打ち所が1ドットもありません。
        
        色がちょっと変かなぁ〜〜。じたばたじたばた。
        あくまでエキストラさんたちなので、種類自体は無理に増やさず、
        色違いでカサ増しする作戦なわけですが、
        色の違いだけでバリエーションを増やすのも限界がありますね。
        言ってしまえば色なんて元来、RGBの3種類しかないわけです。
        秘密の戦隊ヒーローだって5人が精一杯。
        人類の目がもっと細かく光を見分けられるよう進化していれば、
        悪との戦いも、もっと有利に進められたのかもしれませんね。悔やんでも悔やみきれません。
        
        お年を召した方の表現をどうするかで地味に悩みました。
        単に年齢も属性も不詳で人間っぽくするだけなら、目鼻の位置にドットを置いてさえおけば、
        あとは天井のシミさんとコンニチワできる地球人のテレパシーに任せて安心なのですけども、
        意図的に何らかの属性をつけようとすると、ステレオタイプ的・記号的になりがちですね。
        そもそも「モブNPCの歩行グラ」、すなわち「記号」以外の何物でもないのではあるのですが。
        おっと、目鼻と言いつつ、鼻は省略しているのでした。鼻はおろか口さえない。
        それでも人間に見えるのですから地球人のテレパシーは侮れません。
        人間に見えますよね? 見えるハズです。見えましょう。
        
        「お年を召した感じにする」手段があまり思い浮かばない。
        参考にするために往年の有名作をいくつか見てみたんですが、特に男性の場合、
        どれもことごとくハゲ・ヒゲ・杖の三種の神器なのですよ。それこそ判で押したように。
        頭部に関しては帽子って例もあったかな? 
        でもその帽子の下はどうせツルピカハゲ丸くんなんでしょ?
        その程度の小細工でこの私を騙そうったってそうはイカのドラゴンボール。
        
        確かにその3つを装備させれば「お年を召した男性」へとたちまち変貌を遂げるわけですが、
        今は多様性の時代。年の取り方だって人それぞれ。
        というわけで多少は反骨の精神を表現してみた次第。
        ヒゲは使わせていただきましたが、他2つは敢えて外しました。
        これで充分「お年を召した男性」に見えますよね? 見えるハズです。見えましょう。
        
        お年を召した女性についても同様で、
        こんなお団子ヘアーの人をリアルで目撃したことはありません。
        ドット絵に限らずフィクションに登場する、特にモブ的な老女の場合、ことごとくお団子ヘアーなのですよね。
        とは言うものの16x16の盤上で、これ以上に「お年を召した女性」を表現できる打ち回しが思いつきません。
        こちらに関しても反骨の道を模索してはみたのですが、力及ばず、
        地球人のステレオタイプイメージの固定化に加担してしまう形となってしまいました。一生の不覚。
        
        で、それを言い出すと男性がズボン、女性がスカートというのもジェンダーロールの固定化なわけですよ。
        男子がスカートを履いてはイケないって誰が決めたんですか? 
        女子がスカートを履かなきゃダメだって誰が決めたんですか?
        髪型も同様。
        男女平等が叫ばれて久しい昨今、性別で自由を縛るなど断じて許されぬこと。
        かつて極左の鬼と呼ばれた私が、このような安直な表象に甘んじていては後進の皆様に申し訳が立ちません。
        
        とは言うものの、やはり16x16という限られた盤面では表現の選択肢に限界があるのもまた事実。
        「モブNPC」という性質上からしても、
        「記号」という「それ以上多くを語る必要のない」形式の便利さには抗いがたいものはあります。
        
        これがモブではなく、プレイヤー側のキャラだったら話は別で、
        見た目以外の部分で「どういう人物なのか」を語る機会が豊富にあるのでしょうけども。
        このモブたちも一人一人にそれぞれ固有の人生があるのでしょう。
        聞くも涙、語るも涙。こぶしを利かせて熱く哀しく歌い上げたい。
        ただ、ここはそれを表現する場ではない、ということにはなろうかとは思います。
        
        しかし話は実は逆で、
        例えば右上の「スカート&長髪」のグラフィックだとしても男性かもしれないワケです。
        「スカート&長髪」のグラを見て「女性のステレオタイプ!」と思い込む発想こそが、
        逆説的に抑圧的・差別的発想の発露に他ならないのかもしれない。
        
        ただ、それを承知の上で、やはり、
        「女性ってこういう感じでしょ?」「男性ってこういう感じでしょ?」
        という「共有された認識=記号」をこそ、当て込んで、
        ご覧になる皆さんとの「言わずもがなのコミュニケーション」を成り立たせようとしているのではある。
        
        そもそも共同体の歴史の中で「記号」的な表現を発達させてきたことによってこそ、
        プライベート(内面)を問うことなく、パブリック(社会的)なコミュニケーションが
        可能になっているという側面は認めざるを得ません。
        
        トイレの記号しかり。更衣室の記号しかり。
        
        「男はズボン・女はスカート」というのは個人の生き方を規程するものというより、
        一人一人別個の個人が集まって生活を営む「社会」という場にあって、
        外面的な社会通念を固定化することによって、
        逆説的に、一人一人別個の個人の内面の自由を確保する手段と言えはしないか?
        文化の中に一定のアンカーポイントを設定することで、
        その共同体の内部において、個々の成員に選択の自由が可能となる。
        
        本末転倒の何が「本」で何が「末」なのか。
        そうした文化的規程が個人の内面をも縛るものとなっている場合に、
        それを「解放」することの象徴として、敢えて「記号」的な縛りを壊していく意義はあるのかもしれません。
        しかし、それで逆に「話がややこしく」なってしまうとすれば、
        それは果たして本来の願いに近づいているのか遠ざかっているのか、という疑問が浮かぶところではあります。
        
        一人一人別個の個人が集まっている社会の中、
        「一応大体そういうことになっている」という外面的な取り決めを共有しておくことで、
        「本当はあなたは何者なのか?」をそれ以上問われることなく、
        一人一人別個の他人同士、それなりに円滑なコミュニケーションが可能となる。
        そうした「記号」を完全に取り払ってしまうと、端的に「不便」であり、
        極論を言えば「言葉」すらも成立しなくなり、結果的に「自由」を損ねることにもなると思われます。
        
        もちろん、外面的にも内面的にも純粋に自由で、
        それでいて異なる個人同士が互いに尊重し合えるのが理想ではあるのでしょうけれど。
        残念ながら地球人の進化レベルはまだまだ発展途上。
        今はある程度の妥協の精神が必要な段階ではあろうかと思います。
        
        というわけでエキストラのNPCのビジュアルとしては、
        その業を甘んじて受け入れる覚悟とともに、「女性はスカート」等の記号を採用することとした次第。
        かつて極左の鬼と呼ばれた私も随分丸くなったものです。
        
        あと、日本だとあんまり意識することはないですが、
        人種の問題がある地域では、肌の色なんかもセンシティブな部分だったりするのかなと想像したりしなかったり。
        個人の心の自由を求める人類の探求は始まったばかり。
        
        他にも気になる点は何ドットもありますけれども、修正はいつでもできるということで、
        さしあたり作業を進めるためのグラフィックとしては、これを使って突っ走る所存ですよ。
        
        
        さて、今回の具体的な成果としては以上ですが、
        前回まででそこそこゲームっぽい要素が揃ってきたということで、
        今後どのように内容を詰めていくかをまったりと考えたりもしました。
        
        例えばセーブポイント。
        わざわざ制約を増やす必要はないだろうと思って、今のところ、どこででもセーブできる仕様です。
        セーブ以外にも、場所を記憶してワープポイントを作るシステムがあるのですが、こちらも同様。
        
        ただ、これだと、「少し進めて、保存して、気に入らない結果になったらリセットして……」
        というプレイが可能になってしまいますよね。
        それがズルイから許せん禁止してやれ! ということではなくて、
        そういう「面倒くささ」と引き換えにリスクを最小限にできる選択肢を存在させたままで
        プレイヤーにその選択を委ねてしまっては、プレイに際し余計なことを考えさせてしまうのではないか?
        
        そもそも、そこまでシビアな内容にはしないつもりではありますが、
        セーブできる場所が限定されている方が、
        余計なことを考えずに本来的なプレイ行為に集中しやすくなるのではないか?
        というわけで、セーブポイントは限定した方がいいかな〜、という思想に傾きつつあるところです。
        
        
        一方これとは逆に、アイテムの所持数制限は無い方がいいかなという気がしてきております。
        現状、わざと制限しているというよりUIの都合で、画面に収まるだけの個数に制限している状態です。
        
        所持できる個数を制限しておくことで、その範囲内で何を持ち歩くかを吟味する……
        という「ゲーム性」が生じるわけですが、
        このゲームにその要素を入れたとして、それで「面白く」なるのか?
        面倒くさいだけになってしまうのではないか?
        
        特に終盤になるにつれ、ダンジョン内などで何かを入手するたびに
        手持ちの何かを捨てねばならない状況になってくると予想されます。
        これは果たして「面白い」ことなのか?
        
        いちいちそんなことを考えながらダンジョン探索するのってイヤじゃないです?
        適当にうろうろして、手当たり次第に「調べ」て、役立つかどうかはさておき、アイテムを集めていく……、
        という感じのプレイ体験で充分なのではないか?
        終盤になるにつれ、いわゆる「ハイポーション99個」のような状態になってくると予想され、
        「ゲーム」としては崩壊する可能性がありますが……それで別にいいんじゃないですかね???
        ロジックとしての「ゲームとして成立」するかどうかではなく、
        プレイ体験として何ら問題ないのではないか。
        これはセーブポイントとは逆に、制限を設けない方が「プレイ行為に集中」できる件のような気がします。
        
        というわけでアイテム所持数は実質無制限になるように
        UIを修正しようかなという思想に傾きつつあるところです。
        
        「ゲームらしく」せんがためにワザワザ制限をつけてプレイを窮屈にする、
        というのは基本的に避けたい気はしつつ、
        問題の本質は制限がある/ないということではなく、
        素直にプレイ行為に集中できるかどうか、なのであって、
        何なら「ゲームとして崩壊」していたとしても、それ自体は大した問題ではないのかもしれません。
        
        などと語るだけでは絵に描いたモチ。
        これらの思想を本物のモチにすべく、まったりと邁進して参る所存ですよ。
        
        
        というわけで今回は記号の話をしたのでした。
        今日もヨイ話が聞けて、このページの存在を知っているあなた方は本当にラッキーですね。
        
        まだ何かお伝えすることがあったようななかったような。
        記号と言えば「イン○ィーゲーム」や「反出○主義」というのも記号ですね。
        記号あるいは一つの言葉=看板として、パブリックな場で共有されている概念。
        界隈は縁遠いですが、看板の使い方を巡ってイザコザが起きがちという意味では、
        「インデ○ーゲーム」と「反○生主義」は似ているようにも思います。
        
        これらの例に限らず、そのように看板を自分の拠り所としている心にとっては、
        同じ看板が自分とは異なる形で使われて、
        自分の拠り所が脅かされることは看過し難いことであろうとは思われます。
        
        この観点で見れば、それぞれ
        「イ○ディーゲームとは何か?」「反出生○義とは何か?」という、
        定義を巡る議論自体は本質的なことではないですね。
        むしろ、そうした議論を続けても何も出てこない。
        言葉にこだわる某砂漠の宗教がいつまでも戦争をしているのは示唆的なことである気がします。
        パブリックな場に「言葉」という形で唯一神を打ち立て、
        自分(たち)の拠り所とする。その拠り所が望まない形で汚されるのを許すわけにはいかなくなる。
        
        言葉以前に、神以前に、願い事があったはずです。
        その願い事を忘れて、看板を巡って争ってしまう。
        某一神教では偶像崇拝はしないそうですが、記号崇拝と偶像崇拝は、どこか似たものがありますね。
        あるいは大仏はあくまで大仏に過ぎないことが目に見えてわかる分、マシというものでしょうか。
        
        看板はあくまでも便宜的な道具として、
        その道具で便益が得られる限りにおいて活用すればいいとは思うのですけども、
        パブリックな場に「唯一神」を建立するという性質上、
        「そういう意味でその看板を使われると困る」という事態は発生しがちであろうかとは思います。
        
        特に「看板」としての威力が強まるにつれ、それを利用(悪用・乱用)しようとする、
        少なくとも「されている」側にはそのように見える事態は起きがちではあり、
        実にいけ好かないことではあるわけですが、公共の場に看板を立てている以上、他人は操れず、
        根源的にドウニモナラナイことではありますね。
        「ドウニカ」シヨウと思えば、それこそ「武力で追い払う」しかないのでしょう。キリがないですね。
        
        とは言うものの「自己」と「他者」に分かれた在り様となった地球人としては、
        言葉でやり取りをする以外にないのが「現実」ではあります。
        ただ、だからこそ、どのような言葉(外的に発せられたもの)であれ、
        言葉そのもの以前に、それを発した「願い事」があるということは忘れないようにしたいものです。
        私は・あなたは、本当のところ何を願って生きている人間だったのか?
        
        ではまた。
        今日もあなたが幸せでありますように。
        ……と、シメようと思ったのですが、
        この「幸せ」というのも「言葉」であり、「言葉を巡る闘争」を免れ得るものではないのですよね。
        
        「幸せ」と言っても、具体的なあれこれということではなく、
        その人にとっての、その人なりの意味での、望ましい状態、というような、
        具体性を限定しない抽象度の高い代名詞的な言葉として、
        また、自分が「なる」ものというより、そうした抽象的な意味で、
        一切衆生がそう「ある」ことを「願う」ものとして、
        この言葉を使っているつもりではありますが、
        文脈によってはセンシティブになり、使用を避けざるを得ない場合もあったりなかったり。
        
        よく見かける「幸せ・に・なる」や「幸せ・に・する」という慣用表現を観察するに、
        何か、他者との競争を勝ち抜いて奪い取るもの、
        あるいは、特定の価値観に基づく「幸せ像」を押し付けられ、
        それに合わせていくというような抑圧的なもの、
        というイメージが内包されがちというか、
        耳ざわりのいい言葉なだけに、現代社会の歪みが反映されがちな言葉である気はします。
        むしろ、私がここで普段使っているような意味こそ、特殊なのだろうなとも思うところ。
        
        それを承知の上で、だからこそ、願いを込めて、敢えてこの言葉を使っていきたい。
        今日もあなたが幸せでありますように。
        すべての意識ある存在が、それぞれの意味で、よい在り方でいられますように(意訳大サービス)。