各ダンジョンにエンカウントのシンボルを配置した
前回までで技術的・量的に厳しそうな箇所が片付いた、
つまり後はそんなに心配しなくても完成は時間の問題。
世界が私の手中に収まるのも時間の問題。あなたのハートが私の手中に収まるのも時間の問題。
というわけで少々ペースを落としてまったり進めていこうかなと思いつつ、
まったりは死語かもしれないので油断なりません。
仕方がないので何やかんやと突っ走ってしまったわけです。私は本当に頑張り屋さんですね。
ゲームバランス的なことは今の段階で考えても仕方がないので、
とりあえず適当にシンボルさん各位を各ダンジョン内部に配置してしまおう……
と軽く考えていたのですが、それなりに精神エネルギーは消耗しますね。
加減がよくわからない。
多すぎれば鬱陶しいし、少なすぎればゲームにならない。
で、「こんなんで本当にいいんかな……???」といちいち考え込んで手が止まってしまい、
気力が消耗されるばかりで作業がハカドラないというわけですね。
「適当」でいいと言うのが、どうすればいいのか分からなくて一番困るというお馴染みの同じ道。
暫定であるにせよ、ある程度「思考のコスト」を省くための大雑把な方針は欲しい。
> 多すぎれば鬱陶しいし、少なすぎればゲームにならない。
で、これなんですが、冷静に考えてみると、別に「ゲームにならな」くてもいいんですよね。
というより、「ゲームとして成り立たせ」んがために
厳密なプレイを要求するような作りにしてしまうのは避けたいところ。
というわけで、「これゲームになってないんじゃね?」というぐらいのスカスカな配置を心がける。
実際、少数でも画面内に自キャラ以外の動くキャラが存在するだけで、
一定の「緊張感」が生じ、「退屈しないで済む」感じにはなる感じ。
それで充分なのではないかなと思うわけです。
あと狭い通路にはあんまり配置しないこととする。
場合によってはシンボルが入って来れないように、
通路の前後にシンボルが通れない領域を設置したりも。私は本当に慈悲深いですね。
別に一回エンカしたら即ゲームオーバーというようなゲームではないですが、
シンボルエンカなのにシンボルを避けれないシチュエーションが頻発すると
「理不尽」な印象にもなりかねない気がしないでもないところです。
シンボルエンカだからと言って
必ず全てのシンボルを回避可能だとは誰も言ってないわけですが、感覚的な問題として。
それでも「せっかく作ったんだから存分にエンカして欲しい」という欲が私の側に多分あって、
油断すると多めに配置してしまっている感じ。
などなど反省を意識しつつ、現段階ではあくまで暫定ということで、
さしあたりデータは一通り埋めた次第。
調整はオイオイ考えていきたいところでございます。
>「ゲームとして成り立たせ」んがために厳密なプレイを要求するような作りにするのは避けたいところ。
このへんのことって、個人製作のゲームが理不尽な高難度になりがちな理由の一つなような気がします。
よく言われるのは、単なる「調整不足」や「作者が一番うまいので厳しめになりがち」などですが、
それ以外にも、作り手としての「不安感」が影響している場合も少なからずあるのではないか?
「これで本当にゲームになってるのか?」という不安感。
「これで本当にあなたのハートが私の手中に収まるのか?」という不安感。
そういう不安が、たとえば「特定の操作を成功させなければ先に進めない」
というような「難所」を(必要以上に)作らせてしまったりもするのではないか?
好きな子の気を引く為に(必要以上に)意地悪してしまったりするのではないか?
「不安感」か、あるいは「こだわり」と言うべきか。あるいは初恋と言うべきか。
甘酸っぱいですね。
結局は「バランス」ということで、ゲーム全体の中にいくつかそういうポイントがあるのはいいとしても、
油断するとガチガチになってしまう罠がこのへんにあるのかなという予感がするところです。
これは単に「うまい/へた」「難しい/かんたん」ということではなく、
ゲームをするということ自体の「意味」や「目的」に関わってくるところであるように思います。
「理不尽」とは「難しい」ということではなく、
「なんでこんなことしなきゃいけないの?」という「納得できなさ」のことなのではないか。
「難しすぎ」たので「救済措置」を用意、というのはよくある流れですが、
「救済」の対象はプレイヤーではなく作者だったりすることもあるのかもしれません。
果たしてそこに救いはあるのか。オレ実はオマエのことが私今大学生の人と付き合ってるの。
「遊び」を持たせつつ、やりこみ甲斐もある、
みたいなのが一種の理想ではあるのでしょうけれど。
ままならないものですね。
昔、MSX・FANという雑誌に投稿されていたゲームで、
作者氏が「ゲームとして成立してないかもしれませんが」と書いておられたものがあったことを思い出します。
横から見た卓球のようなゲームなのですが、中央にネットがない。
で、慣れてくると無限にラリーが続いてしまい、
確かに「ゲームとして成立」してないのかもしれませんが、しかし結構楽しめる。
「ゲームを作らねば!」と思うとアイディア段階で排除してしまいそうですが、
そういう「プレイ体験」もあるということですね。
「ゲームとは何か」という定義(こだわり)は人によるのでしょうけれど、
もしかすると「ゲームである必要」自体がないのかもしれない。
私本当はあの人にする必要はなかったのかもしれない。
「ゲーム」が「面白いこと」であり「プレイ」することで何らかの「楽しさ」が得られる、
というのも一種の建前であって、
実際のところ人類の誰一人、いかなるゲームもプレイする義務がないわけです。
それでも存在してしまっている「あなた」と、
その「意識」が向かう先としての、「すること」としての「ゲーム」。
やっぱり俺オマエのこと忘れるなんてできねぇよゴメン私今そういうのはいいの俺待ってるからな!
ちょっと何を言ってるのか分からなくなってきました。
あと他に何かなかったかな。
素材を加工した話を語って聞かせましょう。
セッション時の止めグラは素材を使わせていただいているのですが、
都合よく「レトロ風」というものはなかなかないので、
加工が許可されているものに対し、「ドットを粗く」「色数を少なく」する加工を施しております。
『化け猫缶 素材屋』様より
http://neko.moo.jp/BS/
まず補完なしで2倍に拡大。元のサイズが小さめなのは思いがけず好都合。
その上で、コントラストを変えたりポスタリゼーション(色減らし)などをかけ、
最終的には手作業でドットを修正したりもしつつ、
「ドットのギザギザが見えていて」「少ない色数でベタ塗りしている」感じを目指す。
加工が許可されているとは言え、敢えて画質を落とす申し訳なさを胸に、
極力「汚く」はならないよう頑張ったつもりでございますが、どどど、どうだろう(ビクビク)。
こうして改めて見るとまだなんか修正の余地があるように見えてきますが、
そこはまた最終段階で仕上げることにして今はとりあえず作業を進めるですよ。
さて、これからどうしようかな。
すでにそこそこゲームっぽい感じにはなってきたぞ?
ダンジョンに入るとシンボルがうろうろしていて、接触するとエンカ。
はい。
パラメータは適当ですが、これまたバランス調整はオイオイ進めていくということで。
もはやタイトル画面をつけて「完成した!」と言い張ってしまえば完成したコトになるのではなかろうか?
おっとラスダンが未実装でした。
じゃあその手前までは遊べる「体験版」だと言い張ってはどうか?
言い張りは自由。この世とは、あるいは言い張りで作られているものなのかもしれません。
世界は私のモノだと言い張る。あなたのハートも私のモノだと言い張る。
さしあたり山は越えたというか、
(主に技術的な意味で)完成が不可能なのではという不安は遠のいた感があります。
今までは、まさにその不安感にかられて突っ走っていたようなところがある。
ここまで来たら完成は時間の問題。
世界が私の手中に収まるのも時間の問題。あなたのハートが私の手中に収まるのも時間の問題。
今後は少しペースを落としてまったり進めていきたい気がします。
……などと油断して、そのままフェードアウト、というのも人類が幾度となく繰り返してきた過ちでしょうか。
おのれエターナり神め。どこまでもしぶといヤツよ。
あと大きいパートとしてはNPCの実装か。
これまたカリスマ神ドット絵師の腕がナルところですね。
ドット絵に関してはシンボルの実装で宇宙人さんの腕前は証明済みなので、あまり心配はしてません。
持つべきものは宇宙人とは昔の人はよく言ったものですね。
ストーリー的な要素はほぼないので、NPCの多くはワビサビ要員のエキストラということになりますが、
本筋とは直接関係ないセリフなどで世界観をホノメカすのもまたRPGならではの仕草と心得ております。
というわけで張り切ってホノメカして参る所存。
完成は時間の問題といいつつ、人類の滅亡も時間の問題なので油断なりません。
ん、待てよ? 滅亡するんなら完成させなくてもいいのかな?
つまり、どっちに転んでもハッピーということですね。うらやましいぞ人類。
ではまた。
今日もあなたが幸せでありますように。
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