『LÖVE(Love2D)でのシーン遷移のサンプル』の記事を公開
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シーン遷移は前々から取り上げたかったテーマです。
どの言語を使うかにかかわらず、地味ながら結構重要なノウハウだと思うのですが、
皆さんどうやってるんでしょうね? 適当にやっつけてるのかな?
設計段階からキチンと整えておかないとグダグダになりません? え? ならない? さては天才プログラマーか。
そもそも最近はゲームを作る際にプログラミングをしないお友達の方が多いのかな? な、なにぃ〜。
前々から取り上げたかったテーマではあったものの、
お見せできる実績がないのに記事だけ書くというのも気が引ける話。
以前公開してたやつではシーン遷移があったんですけど、今公開してるやつは……
「マインドル」は内部的に全部スクリプトで制御する仕様になってて、今回の実例にはならない。
「愛と哀しみの」は幸か不幸か phina.js 自体にシーン遷移の仕組みがあるので私の出番がない。
「つながある」は……おっ、そう言えばやってるやってる!
というわけでこのたびようやく、
天才プログラマーであるこの私のノウハウを愛する皆さんとシェアする機会に恵まれたというわけです。
よかったのぅ、皆の衆。
LÖVE(というかLua)に限らず、
オブジェクト指向っぽい書き方ができる言語ならば、同じ考え方を適用できると思います。
特定の言語特有の使い方の話ではなく、何か作ろうと思った際の考え方の一種としてご参考になればハッピーです。
なんかね、プログラミング系の情報って、
ものすごい詳しい話と、ごく初歩的な話に二極化しやすい気がするじゃないですか。
言語仕様の重箱の隅を突ついて異次元への扉を開くようなご優待会員様限定な情報がある一方、
「環境構築」「画像の表示方法」のような初歩的なお品書きの列挙にとどまっていたり。
で、いくら勉強しても具体的なものが何も作れない……というのはプログラミング道の「あるある」ではないでしょうか。
プログラミング自体は「道具」に過ぎず、それで(ゲームなど)何かまとまったモノを組み立てようとする際には、
それ自体の「機能の説明」というより、「どう使っていくか?」というような、
上記の二極の中間に浮かんでいるコツのようなものが必要になってくるように思います。
なので、細かい点や言語特有の箇所よりも、
実践的な「考え方」のご参考になれば、というつもりでございます。
私は本当に慈悲深いですね。
ついでにもうちょっと言うと、上記のような事情で、
> で、いくら勉強しても具体的なものが何も作れない……というのはプログラミング道の「あるある」ではないでしょうか。
このへんの要因も、ゲーム製作の手段が「ツール系」に流れがちになる理由なのかなという気がします。
それの何がイケないかと言えば……別に何もイケなくはないのですが。
個人的に思うところはイロイロあるのですけど、「何を選ぶか」は「人それぞれ」ではありますね。
ただ、本当に「選べて」いるのか、とは思うところ。
「プログラミングの難しい知識がなくても」とはツール系開発ソフトの謳い文句として、もはや聞き飽きた感があり、
ゲーム製作と言えばプログラミングという時代では既にないのかもしれませんが、
何だかんだ言いつつ、まだそのフレーズ自体にはそれなりの魔力が伴うような風潮は見受けられる。
ツールに頼らなくてもゴリゴリ作れるなら、そうしたい、という思いはないこともないのではないか。ないって3回言った。
やはり、プログラミングというものが思想的に持つ「自由さ」は、捨て難いものがある気はします。
一方、その「自由」を敢えて制限することで「利便性」に変えているのが「ツール系」とは言えそうですね。
それを言い出せばプログラミングでもライブラリやフレームワークを使う限り、その相似形ではあるのですが。
さらに言ってしまえばマシン語を直接書かずに何らかの言語を使っている時点で同じではあり、
もっと言ってしまえばコンピューターを使っていること自体が「ツール系」でもある。
さらに、誤解を恐れつつ言えば、
無限から有限へと自由を制限する様式の中にこそ「宗派」あるいはそう言って悪ければ「文化」が存在するのであり、
善し悪しは別として、そこに参加する喜び、囲い込まれる安心感、のようなものもまたあるだろうなとも思います。
コンピューター自体が「ツール系」であるのと同様、
「この世での生」という「不自由さ」もまた、そこに加わることの嬉しさと表裏一体なのかもしれません。話が飛んだ。
話を戻す。
こういう記事を書く際、ソースコードと説明文をどのように併置するかは悩みどころですね。
持ち前の慈悲深さを発揮して創意工夫を重ねた末、
今回は左右に併記しつつ、マウスを載せると該当箇所がハイライトされるようにしてみましたよ。
なお、左右に併記した関係で、スマホのような横幅の狭い画面で見るとレイアウトが崩れるかもしれない。
それ以前にスマホだと「マウスオーバー」という概念がないので、私が込めた慈悲を受け取ることができない。
悲しいことです。無慈悲な時代。世も末とはまさにこのこと。
あと、文章量はできるだけ少なめにして、簡潔に頭に入るように配慮したつもりです。私は本当に慈悲深いですね。
今思ったんですけど、「入るように配慮」って微妙にダジャレじゃないですか。一体誰の仕業だ。
ところで、この記事を書いたことは、本当に「よいこと」だったのか?
内容に関しては天才プログラマーの私からの伝授ですので、
安心して鵜呑みにしていただければというところではあるのですが、
そもそも、こういう情報を出していくということ自体の意味合い、として、
「ゲームを作るのは何か価値のあることだ」という価値観に乗っかり、加担する行為ではある。
もちろん、私はただ情報を出しているだけなのであり、
それをどうするかは各人が決めること……という「私ゃ関係ない」仕草は可能なわけですが、
その一端に自分が関わって(関係して)いることを、他ならぬ私自身が宇宙の誰よりも知っているのであり、
「何やっとんじゃ?」との自己ツッコミを免れるものではない。
百歩譲ってゲームを作ること自体の価値の是非については棚上げするとして、
問題の所在をどこに設定するのか?
目下、問題の所在は「どうやって作るか?」ではなく、
「作って、それでどうすんのか?」こそが深刻であるように私には思えます。
すでに「作品」はこの世に溢れかえっており、とても消費しきれる量ではない。
消費のペースを明らかに上回るペースで供給が行われていることは明らか。
このままでは遠からぬうちに地上は「作品」に埋め尽くされ人が住める大地は消滅することでしょう。くわばらくわばら。
この上さらに、新たに別の「作品」をこの世に生み出すことをそそのかすとは、
一体どういう了見なのでしょう?
善し悪しは別として、正味の話、
日々リリースされ続け、増加の一途を辿るタイトルのリストを見るにつけ「どうすんだコレ?」という気はする。
地球は今、人口爆発のみならず作品爆発という課題を抱えていることを我々は認識しなければなりません。ドカーン。
ん? 作品爆発じゃなくて作品数爆発と言うべき? 正しさを取るか、語呂を取るか? ドカーン。
先日、某SNSで、私の知らなかったノベルゲームエンジンの情報が拡散されてました。
一種の「ゲ制ニュース」として、「ワクワク」すべきところかと思いつつ、
どうにも、倦怠感しか出てこない。
公式サイトを少し見たところ、何か、
「創作」自体に今までにない意味づけを提案しようとしているようなふうで、
正直、意味はあまり分からなかったものの、興味深くはありました。
ただ、公式サイト内の紹介記事の中で、そのツールのユーザーになることを推奨するPR文の流れで、
有名老舗投稿サイトなどの具体的な名称を挙げて、
作った後に、そうしたところに参加しましょう的なことが(それが華やかな道であるふうに)書かれていて、
「え? 今更そんなレッドオーシャンに人を誘い込んじゃうの?」と思わず思ってしまった次第。
などと思うのは、「結果」を求める狭量な発想なのかな?
しかし、「創作」がいかに素晴らしいことかを語っておきながら、
「後のことは自己責任で」とでも言うかのような○○○な態度を感じてしまいました(私は慈悲深いので伏せ字)。
その意味では、発表の場も同時に提供している他ツールなどは、
少なくとも「そそのかした責任は取っている」とは言えるのかな。
ただ結局、ランクづけやコンテスト形式に偏りがちなのは気になるところではあります。
人を集めて、競争させる。優劣のラベリングをする。
そして、そうした「お墨付きを授ける権威」として自身が君臨する。
競争を煽ることで衆目を集めようとするというのはキャンペーンとしてよくある手法ですね。
悪意を持ってやってるわけではないのでしょうけれど、そういう構造になっているということは警戒しておきたい。
ではさて件のツールは、自前でそうした場を設けているのではないので無罪放免かと言えば、
そうした過酷な競争の場になってしまっている場所をお勧めしているという意味では
結局そうした価値観と趣きを異にするものではないのではないかなと霊能力を備えた私には霊視できます。
一応言っておくと、そういうことが好きな人同士でお誘い合わせの上で楽しんでいる分には、
外野から水を差すようなことは言わないでおこうとは思うのですが、
それが当該ツールを提供している団体のマーケティングの手段なのかと思うと、少々疑念を感じてしまいます。
何と言ったらいいのかな。
兵器を売るために戦争を仕掛ける死の商人と相似形のように見える……
などと言うと妄想を申そうとしているように聞こえてしまうでしょうか? あなたのダジャレ耳にも困ったものです。
実際は、そんな明確な悪意があってやっているわけでは多分ないのでしょうけれど、
無意識だからこそ、既存の大きな価値観の流れをそのまま踏襲する形になっちゃうわけです。
で、それの何がイケないのかと言われれば、いや別にそれが地球の皆さんの総意というのであれば
私から口を挟むことは何もないのですけれども。
ただ、これ以上、地球上に争いを作り出してどうするのか、とは思うところ。
競争によって能力を尖らせていく、という価値観から、いい加減、卒業してもいいんじゃないのかな、地球人。
何かを生み出すことが良いことだというのも少々疑った方がいいのかもしれない。
それだけならまだしも、次々と生み出させて「さぁ競い合え!」だなんて
無慈悲なコンボだとは思いませんか? え? 思わない? コノヤロ〜。
今更また新たな製作ツールが登場するということ自体に全く「ワクワク」できないのと同様、
地球の皆さんはそういう、これまでの大きな価値観の流れを「相変わらず続けていくつもりらしいぞ」ということに対し、
「いつまでそんなことを続けるつもりなんだろう?」と、倦怠感を覚えてしまうわけです。
で、翻って私が今回、上記の記事を書いたことの是非はどうなのか?
言い逃れは不可能ですね。
黙ってれば誰にも何も言われないようなことなのでしょうけれど、
「そそのかし」ていないなどと言っては、人を殴っておいて「拳が当たっただけ」と言うのと同じであり、
競争や新たに生み出すことを懸念する言動と一貫性があるかと言えば、矛盾は隠せそうにありません。
私なりに「そういうわけではない」と言いたい点はあるものの、見苦しさは否めませんね。うーん。
「ゲームを作る」という価値の道のりがある一方、
その道の脇で「作り方」「作るためのツール」「発表の場」を用意する行為は、
ゴールドラッシュにおけるツルハシビジネスのようでもある。
イコール悪徳、ということにはなりませんが、構造的に「搾取側」の立ち位置であることには警戒したい。
そこに本当に金塊があるならまだしも、金塊があると思い込ませる演出をしていたりはしないか?
それをも含めて「みんな楽しんでる」のであれば、何を言っても「水差し」になるのではありますが……。
もちろん、ゲームを作ること自体の楽しさというものもあろうかとは思います。
だからこそ、そんなことのために競ったり競わせたり優劣をつけたりなんてしなくてもいいのにとも思うところです。
新たに生まれて数が増えることで、必然的にそうなりがち、という業の深さは誰のせいなのか。
あるいは競争ありきであることが、実は、生み出しの抑止力になっていたりする面もあるのでしょうか?
すると後のことはみんな大好き自己責任ってやつですか。実にいい世の中と言わねばなりませんね。
競争させるために生み出させているなどと言い掛かりはやめてくれたまえ!
それから、「競争形式だからこそ、より意味の濃い活動なのだ」とする風潮もあるように思われます。
コンテストこそが「本番」で、競わない形式のものは「お遊び」的なもの、
みたいな空気が私の霊能力でクッキリと見える。
「闇が深い」などと表現しては失礼になってしまうでしょうか。
以前、コンテスト形式じゃないゲームジャムも存在するという話をしましたが、
ネット上の誰だったかは失念しましたが、
「気分転換に順位付けのない小規模なジャムにでも参加してみようかな」
といったことを言われているのをたまたま目にしました。
つまり、順位付けがないようなものは「小規模」なものであり、「気分転換」のためのものに過ぎず、
自分が本来目指すべきものはそこではない、という思いがあるようです。
これ自体は多分「何気ない」つぶやきなのでしょうけれど、
だからこそ、根底的な感覚が如実ににじみ出ているようにも思われます。テレパシーは私の得意技。
「順位付けがない」ということに対し、私は、希望、明るさ、のようなものを感じたのですが、
この人にとっては、取るに足らない児戯のようなもの、ということのようですね。
なるほど、こういう受け取り方になるのかと、目からツチノコが落ちる思いがしました。コしか合ってないけど大発見。
良し悪しではなく、おそらく、むしろこういう感覚の方が「普通」側なのだろうなという気はしました。
敢えて競争形式にしないことを明示する集まりもチラホラ存在することから、
そうした競争ありきな風潮への違和感というものもある程度共有されているものと思われますが、
あくまで傍流という位置づけになりがちなようでもあります。
(デフォルトじゃないから「明示」する)
むしろ「競い合うなんて時代遅れだぜ〜、ダサイぜ〜」ぐらいのパラレルワールドもありえると思うのですが。
競争形式にしないと意味がないのだとすれば、それ自体は本来的に無価値であり、
その虚しさから目を逸らすために競争に逃げ込んでいるのではないか?
などと、宇宙の真理に目覚めている私としては意地悪くツッコミたくなるところではあったりするのですが、
現実問題として、「規模の大きい」発表の場ほど、なんやかんやと競争形式になっていて、
そういうところで「勝ち抜く」ことを否応なく求められる、という傾向・状況はあろうかとは思います。
大きな風潮の中、「個人」にできることは限られている。
必然的に「小規模」にもなり、軽視されがちなのは仕方ないと言えば仕方ないかな。
世の中が全体的に競争で構成されており、これはゲ制云々に限ったことではないですね。
ただ、ゲ制の場合は特に、そもそもゲームというもの自体が、内容的に競争的行為と親和性が高い性質があるので、
それを作ろうという人々も、そうしたことに違和感がないというか馴染みやすいようなところはあるのかもしれませんね。
ノベルゲームの場合は「ゲーム」と名がついていても少々特殊ですが、文学賞的な慣習を引き継いでいるのでしょうかね。
せっかく文章表現の様式として「そういうの」とは別ルート、だったような気もするのですが。
ただ、「物語を書いて、表彰される」という「物語」への憧憬のようなものは捨て難い気はしないではありません。
しかし現実的に言って文学賞なるものは出版社の販促キャンペーンのような面はありますし、
新人賞の場合は雑誌社による書き手の採用試験みたいなものだったりするわけです。
したがって、職業としてやっていくぞというつもりの人にとっては切実なことではあるにしても、
そんなものは所詮、現在の貨幣経済の仕組み上の都合という以上でも以下でもない。
それでいて、あるいは、だからこそ、「書く」ことの意義や目的意識が
そういうものに集約されてしまうような、抗い難い「引力」があったりもする。
なぜ書くのかと言えば、何らかの「受賞」を目指して書くのだ、というような。
「そういうこと」のために「表現」を「繰り返す」。
もちろん目的は「人それぞれ」ではありますが、仕掛けられた価値観に視野を狭められていたりはしないか? とは思います。
あるいは分かってはいても現在の貨幣経済の中では逆らいようがないという面はあるのかもしれない。
ただ、これも結局、お馴染みの同じ道なのですよね。ゲ制云々に限ったことではなく。
当人(たち)が満足しているのであれば、「外野の私」がエラそうに口を出すことは何もない。
ただ、実際、どうなのかなぁ……ってことです。
本当に、「それでいい」の?
本当に、心の底からの満足が世を満たしているのなら、どうして地球は「こんな回り方」をしてるんですか?
表向き、「物の道理を分かった」ようなことを言いつつ、
根本的な「ドウシヨウモナサ」への、底なしの諦め、が見えてしまう。
え? 私の幻覚ですか? 言っておきますが今はシラフです。今は、って何だ。
ちなみに先述の
「気分転換に順位付けのない小規模なジャムにでも参加してみようかな」
の人、その他の発言群を眺める限り、どう見ても「苦しそう」なんですよね。
常に無理をして張り詰めてる感じと申しますか。まさに「気分転換」の1つもしたくなるというものでしょう。
その競争的な活動を楽しんでいるふうであればまだしも。
などと、外野の私がこんなふうに判断すること自体、余計なお世話だとは思うのですが。
さて、唐突に話を変えて、近況報告。
前回以降、何をしてたかな。
おめおめと生き長らえてしまっておりました。
それはそれとして、マインドルの宣伝活動の話。
ボイゲジャムに参加する少し前から、ツイッターでの予告編のBOT自動投稿を取りやめにしたのでした。
って話、もうしましたっけ?
このページではしてなかったんじゃないかな? したような気もするけど、もう一回する。
理由としては端的に、かれこれ10ヶ月近く続けてきて、ほぼ無意味だということが判明した、ということですね。
それらのTwitter上の投稿自体にイイネなどをいただくことはあっても、
そこを経由して、実際にDLしてもらえる、というところにつながっていっている気配がほぼない。
イイネするんだったら、ついでにDLしてってよ〜、などと私としては期待してしまう気持ちはあったりはしますが、
そこまで期待してはバチが当たるというものでしょう。
というわけで、放置しておいては「TLを汚す」だけかなと判断し、BOTは停止させた次第です。
もともとなんでBOTを使うことにしたかと言えば、
私がこの世にいなくても済む状態を確保しよう、ということです。
いつまでも「私」という個人がネットに貼り付いていないとイケないというのでは困ります。
宣伝方法自体は何か別のアプローチを模索するとして、
その点に関しては、ちょっとどうしたものかなというところではあります。いつまで生きてなきゃいけないんですか。コノヤロ〜。
24時間に1回の投稿じゃなく、1週間に1回ぐらいの頻度なら、悪くもないかな?
しかし今まで使用していたBOTでは、24時間に1回が最長ペースという仕様。なかなか思い通りのものがないという現実もある。
自作することもできるっぽいので、元気があったらやってみるかもしれません。
それから、長らく放置していた はてなブログ の方を公開停止にしました。
宣伝の窓口の1つとして開設してあったのですが、
これも、Twitter(での予告編BOT投稿)と同様、記事自体はそこそこ見てもらえたとしても、
そこから実際にDLしてプレイする、というところにつながっていきにくいですね。
「読者登録」してくださったとしても、「マインドル」に興味があるわけではないという現実。
私としてはブログの存在自体忘れていたのですが、「マインドル」で検索すると上位に出てしまったりする。
たまにマインドルにご興味をお持ちくださった方が検索したときに、あっちを見に行っちゃう、というケースは防ぎたい。
あと、マインドルではなく「愛と哀しみの出口戦略」の件ですが、
一時的に itch.io にも登録してみたりしておりました。
itchにはボイゲジャム用にアカウントがあったので、ついでにお試し、という感じですね。
元々 itch に登録していた「つながある」が、ボイゲジャムが終わった後も、何だかんだ言いつつ、
2日に1.5件ぐらいのペースでDLされる状況がボチボチと続いておりました。
さすがに大手の投稿サイトとなると、ただ置いておくだけでもそのぐらいの宣伝にはなるのだな〜
と思って「愛と哀しみの」も試しに置いてみた次第。
……なのですが、全然アクセスされないじゃあございませんか。
せめて、新着の時期ぐらいは多少のアクセスが期待できそうだと思うのですが、キレイサッパリゼロ。
いや、1件ぐらいはあったかな?
タグづけやカテゴリなど、試行錯誤を多少してもみましたが、どうにも焼け石に水。マグマに霧吹き。
これなら、自分のサイトを持っていて、一応とも置き場があるなら、わざわざ外部に置く意味はないな、と結論づけました。
更新の際に管理が二度手間になるという面倒くささもある。
タイトルで検索すると、うちを差し置いてitchのページが出るようになっちゃうのも困る。
というわけで、早々にitchからは削除した次第です。
そもそも制作物を人気ランキングなどの「競争のカード」として使うつもりはないので、
そうした投稿サイトとは距離を置くことにしているというのは常々申し上げている通り。
「つながある」はボイゲジャムへの参加用ということで割り切って itch に登録しましたが、
そういう明確な理由があるのでない限り、敢えて関わってもあまりいいことはないですね。
言いたいことは他にもイロイロありますが、批判がましくなってしまうので、このへんにしておきます。
ちなみにその「つながある」も今ではいよいよ、ほぼ完全にアクセスされない状態になってます。
やはり、一応置いておけば多少はアクセスが得られる、というのも「過度な期待」のようですね。
山を賑わす枯れ木として焚き火に放り込まれるのが関の山か。ファイル置き場として割り切るならそれもアリかな?
ボイゲジャムも終わったことですし、そろそろ引き上げてもいいかな。参加物として置いておくべきかな。迷い中。
さて、これからのこと。
どうしますかね。そろそろ死にますかね。どっこらしょと。
これ以上私がこの世に関わる必要がないなら、それもいいんですけど、実際どうですかね。
現状で皆さんなりに充分に満足していらっしゃるということなのであれば何よりではあります。
あなた方は今後とも今まで通りに地球を続けていくのかな?
私にやれることはもう何もないかな?
私なりにやれるだけのことはやったつもりではある。
後どうするかは、もうあなた方次第だ。
これ以上、地球に私がいても仕方がなさそうではある。
それにしちゃあ、お迎えが来ないのが困ったところ。一体どうしたことか。こっちから出向くしかないのか。コノヤロ〜。
というわけで、どうしたものかな。
マインドルに関して言えば、お世話になってる皆様のおかげもあり、
何やかんや言いつつ、存在自体は結構認知されているようではあります。
その上で、実際に手に取って中身を見るかどうか、及び、中身を見た上でどう思うかは、
それぞれの皆さんの行動ですので、私の意志の及ぶところではないですね。
(致命的なバグが残ってないことを祈りつつ……)
これ以上、何か明示的な「宣伝」ということをする余地はあんまりなさそうかな?
思いつけば何かやっていこうかなとは思いますが、それで特別に効果が得られるということもなさそうではある。
誰かに言及していただいて知名度が広がっていく、という道筋にしても、
私が当初思い描いていたほど強力なものではないのかな、という気がしてきています。
先日、フォーンアイルの感想的なものを書きまして、
私の文章のわりには多めに拡散などしていただけて、少なからぬお友達にお読みいただけたかなと思うのですが、
それはさておき、DLsiteのフォーンアイルのページの数字を見る限り、売れ行きという点では、伸びている様子は見受けられず。
あの記事を読んだお友達の中で、フォーンアイルを「買う」という行為に及んだ人は一人もいなかったのだなぁ〜、と。
一人ぐらい誰かお買い上げになってしまうのでは? ドキドキ……などと思ってたのですけど。
いや別に、販売の件数を増やす宣伝の目的で書いたというわけではないので、だから何ということではないのですが、
ああいう記事の影響力という意味では、所詮その程度ってことかな〜、と、現実の一面を味わっているところではあります。
(ちなみに言っておくと、アフィリエイトではない)
私自身の知名度や記事の内容という要素を差し引いたとしても、
結果的に1件ぐらいは売上に貢献できるような、それぐらいの反応性があってもいいのでは……
などとパラレルワールドに思いを馳せたくはなるのですが、現実は見ての通りですな。
翻ってマインドルの場合も、誰かがレビューなど書いてくださって、
それによってプレイヤーがギュギューンと急上昇!明日からアニメ化!
ということになっていくというのも、なかなか難しいことなのだろうなという現実理解が成立する。
もちろん言及などして頂ければ、作った側の立場として純粋に嬉しいものではあるのですけどね。アニメ化はさておき。
ただ、これを書いている頃、とあるインディーゲーム開発者の方の作品にレビューがついて、
同時期に1本売れたということがあったようなので、
やはり誰かが言及することで、普及させる効果が生じないということはないのかもしれません。
情報として広まっていくということの基本はそこなのではないかなとは思うわけです。
せっかくSNSを使ってもいることですし、体験は積極的にシェアしていきたいですね。
というかフォーンアイルの感想文もDLsiteに寄稿すべきだったかな。しかしあんまりヨソ行きの文章じゃないですからね。
あと、自分が管理できない場所に文章を出すことに抵抗がある星人だったりもする。
それはさておき、私としては、あまりゲ制にばかり首を突っ込んでいても仕方がないのかなとも思うところです。
そもそもこの世にいつまで首を突っ込んでいるんだという突っ込みも自主生成しつつ。
作っておこうかと思うゲームの案は他にもいくつかありますが、
ゲームという形でこの世に出現させることに果たしてどれほどの意味があるか。
そもそも、ゲ制自体が私の本来の目的というわけではない。
私の本来の目的は……
目的、と言ってしまうのは少し違いますが、
誰もがそれぞれの意味で「よく」あって欲しいですね。
具体的にどう、ということではなく、抽象的な願い事として。
「実現」というのは物質的な世界ではほぼ不可能なことですから、
そのために何かするとかいうことではなく、抽象的な、願い事、ということです。
その願い事に沿って、やっておいたらよさそうかな、と思うことを、生きている限りは、やっていこうとは思いますが、
わざわざ生き長らえて個人的に何か獲得したいことというものは特に思いつきません。
短期的・表面的な意味で、生活上のあれやこれや、というものはそれなりにあるにしても、
長期的・本質的な意味で、この世で何かどうしても得たい物事があるかと言えば、根本的にどうでもいい感じ。
目的、という言い方をしてしまうとするならば、
この宇宙自体の目的がそもそもよくわからないわけです。
そのようなものがあるとすれば、突き詰めて言えばトドのつまりは、それがこの私の目的ということにもなるのでしょう。
しかしそれが何なのかというのは見当もつきません。
もう少し範囲を狭めて、この物質世界、地球、この世が、何でまた存在しちゃってるのか?
何でまた無じゃなくて有なのか? 無のままでいれば良かったものを、一体全体どういうつもりなのか?
百億千万歩譲って無じゃなくて有であること自体は黙認するとして、
なんで寄りによって、この世はこのようなのか? なんで寄りによってそんなダジャレを許すのか? 全く理解に苦しみます。
なんで寄りによって、生きるために苦しまなければならないような「物質世界」なのか?
いつまでもダジャレで誤魔化そうったってそうはイカのドラゴンボールです。
最低限、死んだ後どうなるかぐらいは、ある程度見通しの立つ知見を確保して、
愛するみなさんにお伝えできるようにしたいものです。
で、ここで話が戻るのですが、
今回の記事ではゲームプログラミングの情報をお伝えしたわけですが、
本当はそんなことを書いている場合ではないのかもしれない。
死んだ後どうなるのかという情報や、場合によっては上手な死に方の情報をお伝えすべきなのかもしれない。
しかし、何しろ「この世」が「どのよう」なのかが分からないので何とも言えないわけですね。ダジャレを申し上げるのが精一杯。
なのでさしあたりゲームプログラミングの情報などでお茶を濁しちゃうわけですが、
こんな話を真に受けて、死ぬまでゲームプログラミングをしてしまうというのも疲れる話。
一体いつまでそんなことを続ければいいのでしょう。キリがないですね。
いずれ死ぬことだけは分かっているのに、
なんでまた生まれちゃってるのか、死んだ後どうなるのか、誰にも分からない。
それだけならまだしも、いくらなんでもこの世の仕様がドウカシテルではございませんか。
あれこれと「物分かりのいい」「道徳」的なお題目は溢れかえっておりますが、そろそろ少しぐらい本当のことを知りたい。
「知る」のは原理的に無理なのだとしても、せめて、そのための努力というものを積み重ねていきたいものです。
だって、それ以外のことは、もう何というか、いい加減、もう充分じゃないですか。え?まだ足りないですか?そうですかー。
何かを「すること」の話もいいですが、「しないこと」の話もしていきたいものです。
しかし現代のこの世は「すること」の集積で構築されており、「しないこと」の入るスキマがございません。
さしあたり「すること」以外にすることが見当たらないものだから、
「すること」に明け暮れてしまうのは致し方ないところではあろうかとは思うものの、
いつまで同じことを繰り返せばいいのかというゲッソリ感は否めません。
「同じこと」と申し上げました。表面上は色々あるようにも見えますが、根本的にはどれも「すること」ですよね。
根っこの部分で1ミリも変化がないわけです。
さて、何を言っているのか段々わからなくなって参りましたが、
今後とも、愛する皆さんのことを想いつつ、
霊能力に一層の磨きをかけ、宇宙の秘密に迫っていきたいものであります。
今日もあなたが幸せでありますように。
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