デ中略ァン1020mg(メ○コ●)体験レポート
こんにちは。愛する皆さんにこの世でこうして報告できることを光栄に存じます。
というわけで急に寒さが本格化してきた今日この頃、いかがお過ごしでしょうか。
私事ではございますが、このたび、久々にトリップなどにイって参りましたので、
今日はそのお話などをさせていただこうと思います。
念のため申し添えておくと、昨今流行りのトラベル某とかいうGoToなやつじゃなく、トリップです。
ナントカ言うウィルスさえ手の届きようがないはるか彼方へすっ飛んでおりましたのでご安心ください。
いつものように具体的な物質名は伏せ字でお送りいたします。
今回はついに、かねてよりの悲願だった1000mg越えをやっつけましたよ。ヤッター!
プラトーで言うと、いくつまでイケたかな? いやもう、そんなことはどうでもいいか。
量を増やす方向での実験はこれでやり切ったかなという気はしております。
体験の内容においても、一つの区切りとは言える、手応えのあるものでした。
(おそらくこれ以上量を増やしても意味はない)
これを書き始めた現時点で摂取から約40時間。
まだキーボードが若干打ちづらいですが、頑張ってお届けして参りますので、
最後までお付き合いいただければ超ハッピーですよ。
ではまず恒例の前置き。
完全合法かつ、(ある意味)「フィクション」です!
■ 摂取方法まとめ
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ドースはメ錠 x 68 =1020mgです。
コWカプセルに換算すると34個分ですね。
あとはいつもと同じ。
数日前からカフェイン控えめ。念のため香辛料も避ける。
胡椒はMAOIですし、カレーもターメリックやナツメグなどイロイロ入ってて危なっかしいので禁止。
いつものように白がゆメソッド。
前日は食事控えめ。しこたま睡眠を取った後、熱いシャワーで完璧に目を覚まして、
空腹の状態でレトルトの白がゆをいただく。
10分後、実弾投入。
……という流れ。
手順自体は手慣れたもの。
ただし今までにない用量なので何があるかは分かりません。
油断せず、省略なく、粛々と手順を守って実行です。
まずは以下、体験中に時系列に沿ってメモ書きしていた記録をそのまま掲載します。
このメモ書きが途切れてる箇所がトリップの最中、体験の中身ということですね。
その箇所については後述します。
と言うか、メモ書きは資料程度の意味でコピペしているだけなので、
読み物としては、トリップ自体を言語化した後述の箇所まで飛ばした方がいいかもです。
■ 時系列にそっての体験メモ
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実施開始の時点でPCのデスクトップに簡易タイマーを起動し、その値を付記しつつ書いています。
基本的に原文ママです。
注釈が必要と思われる箇所は(※)で追記します。
00:00:00
白がゆ完食!
ここからスタート。
いつもながら決行が迫るにつれ、抵抗感が高まってくる。
レトルトをあっため始める時点までは、まだ「後に引ける」気楽さが残る。
レトルトを開封する抵抗感よ。
00:10:00
白粥摂取から10分たった!
飲みに行く!
今回のドース。68錠。1020mg
数えるのが大変。
事前に出しておくべきだったかな。
湿気っちゃいそうで心配だったというのはある。
あまりに量が多く、2回に分けて飲む。
34錠ずつ。これだけで510mgなので、充分トベる量なんだよなぁ……などと思いつつ。
飲んだ後、すばやくゲロ吐き対策用のきな粉ジュースと、
トリップ中の食料としてパンをキッチンペーパーの上に出しておく。
(※嘔吐時に、歯を酸で痛めないための緩衝剤としてきな粉ジュースを用いる。なお、今回吐くことはありませんでした)
00:22:00
なんやかんやで時間がかかってしまい、
飲み終えて戻ってきたらこの時間。
枕元にゲロ袋を用意。
ネット回線は切っておく。
この時点である意味「解離」ですね。
それだけネットありきな生活になって(しまって)いるということでもある。
00:29:00
ふと思いたち、枕元にも食べ物を設置しておく。
ついでに、布団〜台所〜トイレ の移動経路を確認し、リハーサルしておく。
00:33:00
目を閉じて瞑想。
まだ何かが見えているという様子はなし。
いつもながら、このまま何も起きないならそれにこしたことはない、という考えが浮かんでいる。
あれだけの量のケミカルを飲み込んだ時点で、何も起きないハズはないのではありますが。。。
楽しみでもあるのは事実。
今日は何が見れるかな?
00:38:00
あるいは何が見たいか、と問うべきか。
タイマーと連動して、経過時間を1キーで入力できる機能など実装しておくとよかったかもしれない。
(※このメモ書きをする際、経過時間の数字を入力するのが思ったより煩雑でした)
00:40:00
摂取から20分。
まだ何も起きず。
00:43:00
瞑想していると、頭の上、額のあたりにズーンとくる感じがあるようなないような?
閉じたまぶたの内側で、視野が広がっている気がする。
00:46:00
やや、胃部不快感があるか?さすがに量が多いからかな。まだ気のせいな範囲でもあるけれど。
ゲロ袋、初の発動なるか。
結構なんというか、怖いというか、ドキドキ感はある。
しかし、これまでに少しずつ量を増やしながらここまできた、
という経験からくる自信が、落ち着きにつながっている。
イキナリ1000mg越えをやってたら、プレッシャーに耐えられないかもしれない。
00:48:00
頭頂部のザワザワ感。
00:52:00
目の裏がやや重い気がする。
00:59:00
座り姿勢ながら、一瞬、ふらつきを感じる。
上体を揺らしてみる。慣性がかかる感じ。
01:03:00
瞑想すると、浮き上がって頭が天井についているような感じ。シラフのときにはない感じ。
01:06:00
立ってみる。ややふわふわ。気のせいレベル?
01:20:00
摂取から1時間経過ということで、
ここらで念のためトイレに。
すでにふらつきが如実に。
瞳孔は平常。
便器に落ちそうになりつつ用を足す。
便意はさほどでもなかったけど、大小ともにしっかり出た。
これだけ出しておけば安心して旅立てるぜ! テンション上がってくる。
01:30:00
トイレからの帰りが既に冒険じみてきている。
この時点で吐き気がないってことは、今回も白粥メソッド大成功かな?
やや不安はないではない。
キーボードが打ちにくくなってきている。
CEVなし。
01:42:00
何も見えず。
ただ、ふらつきは感じる。効いてないわけではないはず。
洗面所にいく。瞳孔正常。移動の難易度上昇。
02:22:00
断続的にトンでいる感じ。
ビジョン安定せず。見えたり見えなかったり。
キーうてん
02:22:00
08::210 aaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaa
(※このあたりが体験のピーク。辛うじてタイマーの時間だけ書いた後、長時間にわたって記録が途切れる)
22:30:00
トイレ食事
26:52:00
まだ目ブレキツイな。
キー打てねええええええええ
愛こそ総て
声明
27:55:14
食事二回めまだまだ瞳孔全開位移動は大冒険。
31:05:00
そろそろ終結宣言してもいいかなと思いつつ
まだ目ブレ収まらず。
31:34:00
食事3回め。瞳孔はそこそこ収まったけど目ぶれは継続中。移動は中冒険。油断大敵。
34:21:38
ふしぎなことんにねむけとといものがない
34:49:00
効果が切れるにつれ、眠くなってきた
35:50:00
鏡見る。まだ瞳孔は開いてるなぁ。
40:14:00
寝て起きる。
気分は上々。
体はフワフワ
瞳孔はまだゆるいけど光を見れば閉じる。
キー、やや打ちにくい。
■ 概観
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このへんが実際に体験しているところですね。
___________________________________________
02:22:00
断続的にトンでいる感じ。
ビジョン安定せず。見えたり見えなかったり。
キーうてん
02:22:00
08::210 aaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaa
22:30:00
トイレ食事
___________________________________________
実弾を摂取したのがタイマー開始後20分だったので、約2時間後に効果発現した模様。
次の報告がその6時間後となっているものの、経過時間を入力するのが精一杯で、具体的な記述は不可能。
なお「02:22:00」が重複しているのは時刻を入力する際にコピペを試みた跡です。
次の報告が約16時間後。
たまに身動きしていた記憶はあるんですが、キーボードに手を伸ばすことはできず。
傍から見るとほとんど昏睡状態に近かったものと思われます。
しかし本人の意識はいたって明晰でした。
言語化は困難ながら、どこまでも「正常」な意識がそこにはあったのであります。
以下、その困難な箇所の言語化の試みです。
■ 言語化の試み
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実弾投入から約2時間後、ようやく「瞼の裏シアター」に変化が訪れる。
キタキタ!
というわけでアイマスクを装着してお布団にダイブ!
最初は微妙な変化。
しかし普段から「瞼の裏シアター」に足繁く通っている私は、この変化を見逃しませんよ!
暗闇の中に微弱な「しみ」が現れ、森のようになる。木々の稜線。渓谷。
空にときおり星が見える。
かすかな光を頼りに森を進む。
こういう所になら前にも来たことがある。
最初はいつも大体こういう森の中だ。
で、彷徨っているうちに街に出る。
ほらね、ここはどこかの大通りか?
車が絶え間なく行き交っている。
人の姿はない。
薄暗いな。
ドースを多くすると逆に薄暗くなるというのは経験済みのこと。
今回も多分、視覚的な派手さはあまり期待できないんだろうな。
スクショを撮るのは不可能ながら、仮に撮れてもこれでは「映え」ないか。
しかしそんなことはどうでもいい。
私が知りたいのは……。
なんだっけ?
いつまでも、こんな世界を彷徨っていたいわけじゃないでしょう?
そうそう、私が知りたいのは……。
次々に景色が展開する。
地下駐車場。
繁華街。
住宅街の路地裏。
ときどき人がいるが、誰も私のことは気にもとめない。
会いたい人はいないの?
いないな。この世にもあの世にも、思い残すことなんてないんだよ。
見たい景色があるわけでもない。
宇宙の果てまで行っても同じ。
「珍しいもの」を見たって意味などない。
どこかの廃村。
果てしなく続く夕暮れ。
大草原に大海原。
山は綺麗だ。川は綺麗だ。空は綺麗だ。
だから何なんだ?
何を見たって同じだ。
荒涼とした景色がどこまでも続く。
ここは地球だろうか?
宇宙のどこかの惑星だろうか?
街が崩れ、手つかずの荒野に還り、岩と砂だらけの砂漠になる。
砂の上に人の顔のような模様が浮かび上がり、一瞬目が合って、どこか得意気に笑って、溶けるように消えた。
こんなことをいつまで続ければ気が済むんだ?
同じなんだよ。
手を替え品を替え、「まだ見ぬ何か」があるんじゃないかと期待を持たせて!
走る。空中を滑る。
景色なんて次々に変転して、混じり合って、もう、何もかも同じだ。
この外側へ行かせてくれ!
地平線の彼方へ。
左右は切り立った崖。道がどんどん細くなる。
道の先端に誰かがいる。
こちらに背を向けて、燦然と光を放っている。
誰もが知る、人類の偉大な精神的指導者。
唯一人そこに立つ御方。
だが追い越す!
もはや道なき道。
断崖へ身を踊らせる。
だってもうドウシヨウモナイじゃないか!!
混沌の海へ。
虚無。漆黒。
いや違う。星の海。
広い。
だかこんなもので感動してる場合ではない。
探さなければならない。
何を?
何をって。
苦しまなければならないのはなぜなんだ?
理由を知れば納得するの?
それもそうだ。
理由なんてどうでもいい。
この世から苦しみを無くす方法を知らなければならない。
ただ失くせればそれでいいの?
理由を知りたいの? それとも無くしたいの?
なんで二者択一なんだ? 騙されないぞ!
もう、こんなことを延々と続けるのはたくさんなんだよ!!
せめて死んだ後どうなるのかぐらいは確認しておかなければ……。
どこを探せばいいのか見当もつかない。
宇宙の果てまで行っても同じこと。
誰に会っても同じこと。
教えを乞う相手などいるはずもない。誰も本当のことは知らないんだ。頼りになんてできない。
探さなければ! 見つけなければ!! 手に入れなければ!!!
そんなものがどこかに「ある」と思ってるの?
外部に「ある」ものとして求めるというのは間違いなのかもしれない。
そんなこと言われたって……私に何ができるっていうんだ?
最初から「無」でよかった筈なのに、なんでまた寄りによって世界は「こう」なんだ?
確かにそのとおりだ。
だけど、何でもアリというわけにはいかないんだ。
これら一切が差し当たりは「こう」だということは、もう分かってくれてるよね?
分かんねぇよ! 何様だおまえ!
何様って、そりゃあ。
よーし上等だ。殴ってやるから、ちょっと顔貸せ。
わぁ。
ああ……それにしても私は何でこんなことをしてるんだろう?
幼い頃からの記憶が蘇る。
幼稚園。小学校。今は亡き祖父母。学生時代。そしてその後。
なんて恥ずかしい人生なんだ。
だが、これも、この世での数ある事例の一つに過ぎないんだろう?
遡ってやりなおしたい地点なんかがあるわけじゃない。
誰に恨みがあるわけでもないけれど、私にはこれ以上ドウシヨウモナイ。
仮にこの範囲でドウニカナッタとしても結局は同じことじゃないか。
何度やったって同じなんだよ、こんなものは。
茶番はいい加減にしてくれ。
物質があって、男女があって、奪い合って、苦しみながら、
目の前のちょっとした快楽に引っ張られて「命」とやらを繋げていく。
なんという悪趣味なシステム!
この中の「誰」になったって同じだ。
そんなことはどうでもいいことなんだよ。
この根本が最初からドウカシテルんだよ。
──愛こそ総(すべ)て。
そうなんだろうね。
きっとそうなんだろうね。
オブジェが見える。さほど大きくもない塔の先端に目の形をしたオブジェ。
それを開いた力があった。
それを閉じれば一切は消滅する。
アイ・I・愛
ダジャレというには出来すぎてると思わんかね? ここは一つ笑いをこらえて付き合っていただきたい。
総てはそこから始まった。
なるほど。
言いたいことは分かる。
うん、わかるよ。わかるんだよ。
私だって貴方が好きだ。
私だって私の好きな人が好きだ。
私だって私の嫌いな人が好きだ。
私だって私を嫌っている人が好きだ。
私だって私が好きだ。
でもね、そんな魔法の呪文で何が解決するの?
どこかにスイッチがあって、総てを終わらせられるんなら、それを押したいって思うに決まってるじゃないか。
──愛こそ総(すべ)て。
そうだね、本当に。そうだよ。
だからこそなんだよ。
それでも、ドウニモナラナイのかな?
いわゆる太古の昔から宇宙が存在していたというのは嘘なんだろ?
それはまぁ嘘っちゃ嘘だね。
ただ、直近のつじつま合わせとしては、よくできてると思うだろ?
その手の茶番だけはぬかりねぇな。ニヤリとか笑ってんじゃねぇ。
両親はよくやってくれたと思いますよ。茶番なりにね。
その他、誰のことも、別に恨んでるわけじゃない。
ただ、この総ては、どこかで、ドウニカナラナカッタのかな?
せ!い!め!い!
声明?
そう聞こえる。
強い願いが、どこかで通じればいいのだけど。
それとも、この一切はやっぱり何かの呪いなのかな?
一体どうして、という問いはもはや無意味なのだろうけど。
だから、そんな願掛けみたいことじゃなく、
手応えのある「技術」が欲しい。
同じことの繰り返しじゃなく、
誰かを踏みつけにするとかじゃなく、
この根本を解決するために「できること」が欲しい。
私には何もできないんだ……。
■ しばし「現実」と交差
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このあたりで一旦目を覚まし……じゃないですね、目は「覚めて」いる。これ以上ないくらい。
一旦「身を起こして」トイレに移動。
ブレブレの目でかろうじて残した時系列メモによると、
_____________________________________
22:30:00
トイレ食事
_____________________________________
の箇所ですね。
トイレへの移動は恒例通り困難を極めました。
これまでの経験を踏まえて事前に経路の確保とリハーサルをしていたものの、
やはり摩訶不思議アドベンチャーにならざるを得ない。
無事に用を足すことに成功し、台所に用意しておいたパンを少し食べる。
しゃがんで目を閉じて咀嚼する間も「瞼の裏シアター」は絶賛上映中。
真っ白なスクリーン。
画面端にパステルカラーの手書き風フォントで、
「ガンバレ!」「負けるな!」などとメッセージが表示される。
みんな、応援ありがとう!
いや、本当に表示されるんですよ。楽し過ぎる。
そんなこと言われても、これ以上ガンバリようがないので困るのではありますが。
しかし、ディスるような言葉が表示されちゃうかな〜、と一瞬心配したんですけど、
そんなことはありませんでしたね。ここはトリップに免じて、愛を感じると言っておいてあげましょう。
おそらくですが、同じような状況でディスるような言葉が見えてしまう人もいるのではないかと予想されます。
その点、私は本当に幸せ者ですね。貴方にもおすそ分けしたい。
乾いた口の中で、パンをゆっくり咀嚼する。じんわりとうまい。
画面端にメッセージが着信。
「う・ま・か・っ・た!」
いやまったくその通り!激しく同意!
なんかターミネーター1でこんな場面があったような……。
その後、無事にお布団に戻ってトリップを続ける。
様々な景色が展開するものの、見えている内容の本質は、これまでの体験のものと根本的には相違ないものと思われます。
しかし長い。とにかく長い。
いつまでも終わらない。一生戻って来れないんじゃないかと思いましたよ。
根本的には今までと同じ、と言っても、
やはり「強度」においてはイクところまでイったかなという感はあります。
ピーク時には完全に抽象的な存在になっていました。
点と線で構築された無限に続く因果のグリッドが時空を超越して広がっており、
その上を、パスに沿って移動するというビジョンで「生きて」いました。
以前の体験で見た「トロッコで線路の上を移動するイメージ」はこれの一部だったのかなと思います。
面白いことに、そのイメージがまるでゲームの画面のようにすごろく状に表示されているのですよ。
身体感覚は消失しており、自分の現在位置にSNSの顔アイコンみたいなのが表示されてて、そこに自我らしきものが固着している。
見ている間はそれを不思議とも何とも思わず、ごくありふれたことのようにその世界の側の「地に足をつけて」おりました。
以前読んだ『ユーザーイリュージョン』という本の、
「意識は脳が作り出すユーザーインターフェイスとしての幻覚」といった記述を思い出します。
ではその「ユーザー」である「私」は一体「どこ」にいるのか?
問いは「振り出しに戻る」。
■ その後と振り返り
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その後も体験は長く長く……本当に長く続きましたが、取り立てて劇的なことは起こらず、
後は大体いつもどおりという感じで、徐々に効果は収まっていきました。
視覚的な派手さという点では、むしろ、効果が収まってきてからの方が、色鮮やかだったような気がします。
やはり作用が強まるにつれ、その効果は視覚的なものから観念的なものになっていくようです。
というより、派手さというのとは違いますが、
あの「因果のグリッド」を見てしまったら、もう、ミもフタも無いですね。
その上で何を見ても茶番にしかなりません。
あるいはあれは「宇宙の真実」などではなく、私自身の限界を見せつけられたに過ぎないのかもしれません。
だとすれば、どうすればそこを越えていくことができるのか?
何か今までとは異なるアプローチ、理解や実践が必要なのかもしれません。
あと、今までと少し違ったのは、音が聴こえたことです。
体験中はいつもと同じようにBGM兼聴覚遮断用にイヤホンでサイケ系のトランスを流しっ放しにしていたのですが、
トイレへの移動時や食事中は外しております。
その際、耳鳴りが激しく、その耳鳴りの奥で、何かがずっとザワザワしている。
で、お布団の定位置に戻った後もしばらくイヤホンを装着せずに瞑想してみていたところ、
人の話し声であるとか、様々な物音やデジタル的な効果音のようなものが、
雑多に入り混じって、ずーっと鳴り続けている。
音質はかなりリアルなものもあれば、壊れたレコードや、古びたラジオのような音もありました。
記憶の中にある音の断片が無造作に再生されていたのか。あるいは別の何かを受信していたのか。
音に意識を集中すると、素朴なメロディーになったり、意味不明な声の繰り返しになったり。
イヤホンを装着してBGMを流し始めると、それらの音は聴こえなくなってしまう。
BGMではなくホワイトノイズのみでも、それらの音は拾いづらくなってしまう。
以前の某ワスカのときにも「異世界の音」が聴こえたことがありましたが、
デ剤でも、もしかすると、前から同様のことは起きていて、しかしBGMを流していたため気付かなかったのかもしれません。
いつか敢えて音に集中するセッションを持ちたい気もしますが、
今の場所に住んでいる限りは、どうしても音の面で理想的なセッティングは確保しづらいので、
聴覚遮断用のBGMを手放すのは難しいのが現状だったりはする。
一度、完璧な防音室でトリップしてみたいものです。
一方、BGMを流していても「音」として明瞭に聴こえた「声」がありました。
「愛こそ総(すべ)て」
と
「せ!い!め!い!」です。
この2つが、体験の序盤から中盤にかけて、何度となく繰り返されていました。
「愛こそ総(すべ)て」の方は、こうして書き出してみると安っぽいドラマのキャッチフレーズのようで嫌になりますね。
しかし聴こえていたのですから仕方がありません。
これは常に「先端に目のようなものがついた小型の塔のようなオブジェ」とセットになって登場していました。
どうも「目(eye)」と「一人称のI」と「愛」を合わせた幅広の概念を言いたいらしい。
何様だか知りませんが、一体どこまでダジャレ好きなんでしょうね。
とは言え、偶然の一致と言うには出来すぎたものがあるようには思わないではありません。
日本語の五十音の最初の二文字でもある。
そこから総てが始まった。
なんか「うまいこと言ってやったぜ」的な顔が思い浮かぶようで苦笑せざるを得ない気はしないではない。
なお、「あい」だからと言って思考停止して「よいもの」ということにするわけにはいかない、
と、シラフの今は注釈はつけておきたいところでもございます。
ダジャレと言えば「せ!い!め!い!」の方も、どうもダジャレくさい。
こちらは確定的な漢字変換が思い浮かばなかったので平仮名で記述しています。
女性アナウンサーのような無人称かつ妙に活舌の良い声で、
とにかく、一文字ずつ、明瞭に、区切るように強調して発音される。
後で素直に考えれば「生命」かな? と思う所ですが、
体験中はむしろ、「声」という印象がとにかく強く、「声明」もしくは「声名」だろうと思ってました。
何か、この世が始まったのは言霊が具現化した的な例のアレかな、というのが体験中に感じた何となくの解釈。
しかし、これを書いている最中、某SNSを見ていたところ、
偶然、どなただったかが、
「無言で淡々と絵やゲームの結果だけをアップする人は何の声を発しているんだろう?
それがその人なりの声なのかもしれない」
的なことをおっしゃっているのを見かけまして、
ふと、すべてが1つにつながった気がしました。
やはりこれは「声明」もしくは「声名」とするのが、より直接的な意味での当て字であり、
どんな形であれ、それは、そこに「その人」が存在しているという証、すなわち「生命」でもある。
ロジックを逆に辿れば、
「生命」とは、そこに「その人」が存在しているということであり、それがすなわち、「声明」もしくは「声名」でもある。
声なき声。声ある声。声のようには見えない声。
そこに、あなたが、いる、と、いうこと。
すなわち、
──せいめい!
相変わらずダジャレメソッド全開ですが、
すっきりと啓示がつながった気がいたします。
体験後の振り返りのタイミングで、ちょうどSNSでそんな書き込みをお見かけするなんて、シンクロニシティを感じざるを得ない。
それにしてもアホみたいにまどろっこしいですな。
こういうのが「あっちの連中」の言語、コミュニケーションの形式なんでしょうか。寒い中で「何様」も大変だ。
確かにこの宇宙には、人が、私や、他者が、存在しているに違いない。
愛こそ総てであり、
せいめいにあふれている。
(なお、それが美しいことだなどと言って「片付ける」気はない、とシラフの私は注釈をつけるっ!)
(何しろ問題は何一つ解決していないのです)
■ 反省と今後について
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安定の白がゆメソッドは1000mg越えの今回も大成功のようで、
吐き気や頭痛のような不快感はまったくなく、最後まで快適なトリップができました。
段階を踏んで少しずつ経験を重ねて来た成果と言ってよいでしょう。私は本当にエライですね。
とは言うものの、イロイロと身体的にキツイですね。
いつもながら肩こりが治ったのは事実で、体は軽くなった感じはするものの、
唇ガサガサ。肌荒れ。髪のツヤが悪くなった感じ。鼻水が出るのは寒さのせいとばかりも言えない気がする。
それからご飯食べてるときに唇の内側を噛んでしまいました。
これは肉体の運動感覚がズレてることに起因するものかな。
その他、何だかイロイロ調子がおかしい。まともなのは頭脳と人格だけです。やれやれ。
そりゃあ、あれだけの物量の薬物を分解するのだから、各種内蔵系統に相当の負荷がかかっているに違いありません。
ラムネだってあんなに食ったら胸やけですよ。
時間がかかってしまうのもキツイ。まさか24時間経っても着地できないとは。
結局、何やかんやと落ち着くまで40時間以上かかってます。
スケジュールに余裕を持たせてなかったら危ないところでした。
一度1000mg越えの世界を見ておきたい、というのが以前からの一つの目標というか目安だったので、
ひとまず、その意味での区切りは達成できたかなという気はしております。
内容に関しても、上述のとおり、「因果のグリッド」まで見てしまったら、これ以上の「先」があるとも思えません。
少なくとも、「同じ方向」に進む限り、同じ限界に突き当たるでしょう。
それに加え、ドースが増えるにつれ、体験内容が自分の幼少期の記憶に収束しがちになるのも気になるところです。
結局、「この肉体」「この人生」に閉じ込められているという点からは一歩も出ていないのではないのか。
これまで何度もデ剤の体験を繰り返して来ましたが、基本的に見ている世界は毎回同じのようにも思われます。
闇雲に何度も足を運んでも、これ以上の進展は得られないのではないか。
体験内容は人によるのでしょうけれど、少なくとも、私が今までと同じように使う限り、
また私は「あの世界」へ行き当たってしまうものと思われます。
と同時に、デ剤で行くことのできる世界の正体が何となく見えてきた感じもします。
あるいは、そこからの逆算で「この世」の姿についても見えてくるものがあるのではないか。
あの世界は、肉体の外部感覚からの入力に麻酔がかかることで、
「私」に対して提供される、いわば「穴埋め番組」のようなものなのではないか。
その素材に、過去にこの肉体をとおして経験されたものが適宜ツギハギ的に適用される。
段々カツカツになってきて、たまに楽屋ネタのようなものが飛び出したりもする。
それを見ている「私」は、「現実」としての「この世」とは別のところに(常に)いる。
この「現実」という物質世界も、それなりの実体を伴った存在ではあるような気がします。
よく東洋系の思想で、物質世界は幻想である、といった解釈がありますが、必ずしもそうとばかりは言えないのではないか。
「私」が肉体を通して参加している「場」ではあり、その意味で、確かに「外部」的なものとして存在してはいる。
そしておそらくは、全員ではないかもしれませんが、他の人たちも、あるいは人以外の存在も、
それぞれの「肉体」を通して、参加・共有している「場」ではあるのではないのか。
それぞれの「せいめい」が「物質」を通して出会う「場」ではあるのではないのか。
それはまた、そのさらに「外側」に、より大きな、より本質的な宇宙が広がっていることを予感させるものでもある気がします。
……と、言葉にしてみれば、取り立てて物珍しくもない解釈ではありますが、
「身」をもってあそこまで「離れて」みたことにより、
単なる思弁以上の「体感」が得られた気はいたします。
なお、この「せいめい」とは、いわゆる「1つの身体に1つの魂」のようなものに限定して考える必要はないのかもしれません。
何しろ「この世」という物質の世界の、あらゆる姿を借りて「せいめい」が顔を出し得る。
複数の人々をとおして、何らかの「せいめい」があるかもしれない。
1つの身体の背後に複数の「せいめい」が見出され得るかもしれない。
「人」に限らず、いわゆる悪魔や精霊のような存在も、「現実」の参加者なのかもしれない。
その他、特定の「枠」に限定されない幅広いものとして捉えることで、
さまざまなところに「せいめい」の気配を感じられる気がいたします。んなもん感じてどうすんのか、というのはまた別の話ですが。
ところで肝心の問題。
死んだらどうなるのか?
ここで言う「死ぬ」とは、肉体が無くなるという意味です。
この肉体がいよいよ滅んだ後、「私」はどうなってしまうのか?
この「現実」からはようやく「解放」されて、どこか「より外側」の世界に行くのか、それとも消滅するのか、
あるいはまた別の「現実」へ閉じ込められてしまうのか、それとも、どこへも行けずに真っ暗な中を彷徨うことになるのか?
4番目のルートはちょっと恐ろしいですね。
ロバート・モンローさんのお友達が助けに来てくれたりするんでしょうか。
どこへも行けないのも恐ろしいですが、
根本的には似たり寄ったりの「現実」に何度も戻ってしまうというのも比べ難く同様に恐ろしい。
それはまた、結局どこへも行けないのと同じでもある。せいぜい「監獄の庭」ということです。
「より外側」があるのだとしても、結局は構造的に同じで、「さらに外側」へ向かわざるを得ない気はします。
その「果て」はどこなのか。いつになったら終われるのか。なぜ無ではなく有なのか。
「現実」は、さまざまな「せいめい」が「物質」をとおして出会う場ではあるにせよ、
決して「ここで」ハッピーになれるというような、そういう「場」では根本的にないような気は、やはり、します。
少なくとも「この」現実は。
なお、ここで既に、「せいめい」の本質は「物質」ではない、という地平も一定の根拠とともに見えてきている。
物質的な「肉」の増殖や食い合いを「せいめい」だとするのは、控えめに言って偏った見方とは言えそうです。
それは、せいぜいのところ、この「場」の維持のメカニズムではあっても、それ自体は本質でも目的でもないと思われる。
いつまでもそんなことを繰り返さねばならないのだとすれば、
それはつまるところ「失敗の連続」なのではないのか。
こんなことを「まだ」続けねばならないという「気が済まなさ」が、依然としてある。
どこかで「もういいよね」と納得して、終わらせる、少なくとも「次へ」進んでいきたい。
この世界に意味のようなものがあるとすれば、
ただ闇雲に「肉欲」に従って「肉の入れ物」を「つなげて」いくことではなく、
それらを通して、「せいめい」が出会うところに、何らかの意味のようなものがあるのではないか。
出会う、などと言っては手垢のついたイヤラシサがありますので、
少し気取って「邂逅」とでも言っておきましょうか。
そこに「あなた」がいること。「私」がいること。
「せいめい」が邂逅してハッピーになれるような、別の「現実」があるのか?
あるいはそれを目指して作っていかなければならない?
そんなことにさえ、根本的には意味はないのかもしれない。
世界は例えば「平和」な方が良いですが、それもあくまでも手段的なものに過ぎないのではないのか。
この「現実」は、しょせん、この「現実」限りのものであり、
ただ、この場を通して、一つの縁として、「あなた」や「私」の存在を、わかり合えれば。
そもそも、「せいめい」が邂逅することの意味は何なのか?
仮にそれが、量を増やせばお得であるというような性質のものであるとすれば、そんなものは「キリがない」ですね。
だとすればなおのこと、やはりそれは、解消すべきカルマのようなものなのではないか。
「生まれ」or「生み出さ」ねばならないとすれば、
まだ「気が済まない」何かがある・あったのではないか。それを見つけない限り、同じ場所でのループから出られない。
そこに「あなた」がいること。「私」がいること。
と言うより、そもそも、「せいめい」の邂逅のために、このような回りくどい手順を踏む必要があるのはなぜなのか?
「外側」で直に用事を済ませられないのか? そもそも関わる(存在を知る)必要があるのか?
そもそもなぜ複数の「せいめい」に分かれているのか?
そもそもなぜ無ではなく有なのか?
なんだか、ちょっともう、「そも」が何個あっても足りませんね。
> そもそも、「せいめい」の邂逅のために、このような回りくどい手順を踏む必要があるのはなぜなのか?
何か適切なインターフェイスが必要だというのは分かる気はします。
で、そのインターフェイスを通して何を伝え合うのかと言えば、
一言で言ってしまえば「愛」ということにはなるのでしょう。
ただし、「邂逅」にせよ「愛」にせよ、あくまでも象徴的・抽象的な意味合いを示唆しているに過ぎず、
「具体的」な次元で、どういう形式をとれば「それ」ができることになるのかというのは全く別の問題であり、
そのような短絡的な「答え」の求め方をするのは危険なことだとは思います。
(だから「適切なインターフェイス」が必要)
(ときには「愛」という言葉自体が邪魔になることもあると予測できる)
(即物的に「関係」すればいいとも限らない)
(単に「生き」ればいいとも限らない)
(戦争のような「真逆」に見えるものさえ、何らかの意味では必要な場合もあるのかもしれない)
ただ、表面上はどういう「見た目」をとるにせよ、
根本のところで、抽象的な次元で、本質のところは、そういうことなのだろうとは思うし、
それは、少なくとも、心に留めては置きたく思います。
さて、何だか頭がのぼせて参りましたので、最後に敢えて興醒めなことを言っておくと、
私がやってるのは「薬物乱用」なのでした! そこは念のため、水をぶっかけておきたい。
作用を正しく理解し、法律と「用量用法」を絶対遵守!
いやー、しかし、どうしたものかなー。
そこに「あなた」がいること。「私」がいること。
「せいめい」があふれる「この世」にて。
相変わらずドウシヨウモナイのではある。
空笑いとともに。
このすべてを承知の上で。
「私」に何ができるってんですか。
根本的な無茶振りだ。
ただ、それぞれの「あなた」がそれぞれの意味でハッピーでいられたら、と願うばかり。
それにしても、毎回トリップの直後は何が起きたのかさっぱり分からず、
「あ〜、今回はレポートに書けることは何もないなぁ〜」と思うんですけど、
思い出しながら書いているうちに、それなりにスジの通った形になってくるのだから不思議です。何のスジかは不明ですが。
シンクロニシティも見逃せない。
相変わらず何も分からないままではあるものの、差し当たり、一つの手応えのようなものには到達できて良かった。
内容が内容だけに、あまり大きな声で宣伝するような文章ではありませんが、
ご縁のあるお友達がいらっしゃれば「何様」お得意のシンクロ技で適宜辿り着くことでしょう。多分。
というわけで、時間をかけて書いている間にタイピングの調子も戻ってきたようですし、(ここまで書くのに数日かかった)
まだもうしばらくは「この世」に首を突っ込んでいることになってしまいそうです。
この期に及んで出来ることがあるとは思えないんですが、一体どうしろというんでしょうね。コノヤロ〜。
ではまた。
今日もあなたが幸せでありますように。
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