マインドルの残りの作業
学園モノと言えばフリーバトル。
なんだか同じ顔ばっかり並んでしまっているので、下の方も披露しておきますよ。
やっぱり同じ顔ばっかり並んでいるじゃないか、というツッコミはテレパシーで受付中。
というわけで、ストーリー側でクリア済みの対戦イベントが再プレイできる他、
練習試合として、チュートリアルに出てきたキャラと、難易度を変えて対戦ができたりもするモードです。
これで本文で試合が全然なくて腕が鈍っちまうぜ、というお悩みも解消です。
はい。「学園棋神伝」と言いつつ、本文では対戦イベントがあんまりなくて、
読むだけゲー、と見せかけて、唐突に対戦イベントが発生して、えっ?! やり方忘れちゃってる〜!
という皆さんのお姿を得意のイマギナティオーンで鮮明に予知しておりましたので、
いつものように持ち前の慈悲深さを発揮して、ここでいつでも練習試合ができるようにしておいた次第です。
と、思っていたのですが、実際にこうしてストーリー上で発生する試合を全部並べてみると、
思っていたよりも多くて、つまり思っていたよりも作成の作業量も多くて死ぬかと思いました。
その数、なんやかんやと43試合。さらに練習試合として難易度別の5試合が追加されて、全部で48試合。
SFMLを駆使した自前のスクロールバーが大活躍の豪華ボリュームでございますよ。
あ、ちょっと心配になったんですけど、右端のやつ、スクロールバーだってこと、伝わりますよね? 素晴らしいデザインのおかげで。
なんだよ〜、3列しかないのかよ〜、と思われてしまったらどうしましょう。
わかりやすく「スクロールバー」とこれ見よがしに書いておく必要があるのでしょうか?
今更デザインを変えて文字を追加するのは面倒なので、みなさまの逞しいイマギナティオーンで察していただけるものと期待しております。
念のため、練習試合のついでに一言申し添えていただくことにしましたよ。私は本当に慈悲深いですね。
↓
そんな感じで、危うく命がいくつあっても足りないフラグが立ちそうになりつつ、
UI仕上げの残作業に戻りますよ。
あと何が残ってたんだったかな?
このままで「完成ぇ!」と言い張って言い張れないこともない気がしないこともありません。
あまりこだわると、それこそ命がいくつあっても足りません。
どうしても気になる箇所がいくつか残っているので、そこだけは手を入れつつ……、
最後に全体的な動作確認をして、リリース作業、ということになるのかな? 本当かな? ドキドキ。
なんか、あと少しのハズなのに、なんやかんやと足踏みしておりますね。
時間が止まってくれたらいいなというのは多数派の願い事だと思いますが、
民主主義のハズなのに、どうして世論の声が実現されないのでしょう? こんなのはオカシイ! このやろ〜。
そういえば今日は七夕だったのですね。
どうか時間が止まってくれますように〜。
それから、どうかこの世の誰もが幸せでありますように〜。
もちろん、あの世の人も幸せでありますように〜。
さて。
もうそろそろ、いい加減、本当に、死にたいというか、この世とおさらばしたいなと思うわけですが、
実際のところ、死んだ後どうなるかがわからないというのが困るところではあります。
何事もやってみないとわからないとは言うものの、
ある程度の大づかみなイメージぐらいは欲しいなという気はいたします。
それとも、そういう「現時点で思い浮かべることが可能な一切」を手放すということが死ぬということだったりするのでしょうか。
地獄だとか天国だとかいう概念も、所詮は生きている人間が思いつく程度のことなのではないのか。
それを言い出すと、「死後の世界」という概念自体が、生きている人間の想像可能な枠組みの内側のもの、という気がしないでもありません。
何となれば、今こうして「生きている」ということからして、「何がなんだかわけがわからない」ことなのでした。
死んだらどうなるのかがまったくわからないにもかかわらず、「死にたい」とはもしかすると奇妙なことなのではないのか? そうでもないか?
たとえば、今までの人生で一度も食べたことのないものを「食べたい」と思うことと比較してみるとどうか?
その比喩で言えば、それほど奇妙なことというわけではないように思えますね。
もちろん「カレーを食べたい」というのと「南極の氷で作ったかき氷を食べたい」というのとでは、性質が異なってはいる。
「カレーを食べたい」の場合、今までに食べたことのあるカレーを想像しつつ、「またあれを食べたい」ということです。
「南極の氷で作ったかき氷を食べたい」の場合、食べたことはないけれど、一度食べてみたいもんだなぁ、ということですね。
だから、死んだことがあるわけではないのですが……、
と言いつつ、実はそうでもないのかもしれません。
たとえば、この世に生まれてくる前はどこにいたのか?
「あっち側の世界」のことを知らないわけではない、という気がしないでもありません。
「この世で生きている状態」では、忘れていると言いますか、「この状態」での可能な認識の枠組みには収まらないのでしょうけれど。
南極の氷で作ったかき氷は食べたことがありませんが、
「あっち側」にいたことなら、あながち、ないわけではない気がしないでもありません。
というか、今も実際、そうなのではないのか?
「意識」が「眼球」を通して「この世」を見ているわけですが、その「意識」が「いる」のは実のところ「どこ」なのか?
「眼球」の「手前側」は「あの世」なのではないのか?
今まさに「あの世」にいるのであって、一時的に「このようなこの世」というダジャレを目下体験中であると。
で、その「この世」とは結局、一体何なのでしょう?
「あの世」がイイトコロであるとかないとか、この世は地獄であるとかないとか、
そういう話は。それはそれとしてさておき、
なんで「この世」なんてものがあるのでしょう?
一つ言えるのは、ここは「"他人" がいる場所」であるということです。
だからこそ「地獄」であり「ドウショウモナイ」。
「人間」が「私」と「他人」の2種類に分かれており、
そうであればこそ、「他人」との関係の上で、「私」が「悪」になり得る。
そのような分離が起きなかったとすれば、一切の「悪」は成立し得なかったはずです。
そこにあるのは無限の調和と安らぎだけだったはずです。
それが「私」と「他人」との分離で、「悪」が始まってしまった。
だからつまり、ここは「地獄」であり、何をどうしても「ドウショウモナイ」わけですが……、
だからこそ、この条件で、このような場所を、なんとかして「天国」にしていく必要があるということだったりするのでしょうか。
この「ドウショウモナイ」場所に、それでも「い続ける」ことの意味があるとすれば。
ああ。どうか。
今日もあなたが幸せでありますように。
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