マインドルのCG作成
学園モノと言えばいやだ! 絶対に行かせない!
手前と背後とで、同じ顔の人たちが2組いらっしゃる図画、というわけではなく、
胸にお顔をぐりぐりしていると表情が見えないので、物理法則を無視して両方表示するという大胆かつ高度な表現技法です。
つまり、先にこうなっているというわけです。
↓
後ろ髪のギザギザが授業中に半分寝ながらノートの端にペンで描いたみたいな線なのは何故かと言えば、
見てのとおり、砂まみれになって汚れていることを反映して髪が乱れていることを表す高度な表現技法なのかもしれず、
あるいは、今回でCG作業がラストなのに、やっぱり最後まで絵が描けないままでしたってことなのかもしれず、
真相は後の時代の歴史家の手の解釈に委ねられることとなります。お楽しみに〜。
というわけで5枚組の超大作でした。私は本当に頑張り屋さんですね。
緑髪の人のお顔やお洋服の汚れは色を塗るのに失敗してこうなっちゃった、というわけではなく、
転んだりなんだりして汚れたり血が出たりしたよ、ということを表す高度な表現技法です。わかりますよね? わかってネ。
実際には文章がつくので催眠術が成立するものという見積りです。お楽しみに〜。
しかし、こんな有様でもメガネだけは無傷だというのですから、最近のメガネはよくできてますね。
さて、学園モノと言えばイベントの案内看板。
立看板はコミPo!に入ってた素材です。そこへ得意のGIMPスキルで文字を入れていく。
作業自体は今の私の手にかかれば朝飯前にお茶の子の手をひねるようなもの。混ざった。
お茶の子の手って何? そのようなことどうでもよいわヌハハのハー。どうですかこの意味不明かつ豪胆な余裕。
ではなぜ、この一枚が最後まで後回しになっていたのか?
これは、自分と同じ名字のお葬式の看板を街で見かけてドキッとする、という場面なのですが、
問題は、
名前を変更できるシステムになっている
ことです。
一体どうしたらいいんでしょうね? 誰か教えてください!
いつもながらスクリプトを書く人は後先考えずに勝手な指定をしてくれるものですね。困ったものです。
かくなる上は、看板の文字だけCGではなく、ソフトウェア的にフォントで表示しようか? 天才プログラマーの血が騒ぐぜ。ヌハハのハー。
わりと真剣にそれも検討したのですが、結局どう頑張っても不自然さが残ることになりそうです。せめて文字数が固定なら……。
こういうのって、頑張れば頑張るほど無理が目立つ案件です。このためだけに専用のフォントを同梱するのも気が引けます。
そのへんを見極めて諦めるのも天才プログラマーの力量というもの。うふふ。何がうふふだ。
というわけで、上記のように、名前の部分だけ、画面外に出す形で表示することとしました。
何しろ自分と同じ名字のお葬式の看板を見かけてドキッとするという場面ですので、
名前の部分を直視できない、という心の動揺がこの上なく的確に表現されることとなりました。素晴らしい。
システム的な制約を逆手に取っての高度な表現技法。私は本当に天才ですね。うふふ。何がうふふだ。
さぁ、いよいよラスト。
学園モノと言えば座禅。
コミPo!学園では座禅の実習がないみたいですが、もはやそんなことでは、この私を止めることはできません。
ともかく近いポーズを探して……。
別に座禅じゃなくてもこのままでいいんじゃない? という耳元の生々しい声を無視しつつ、
アングルをごにょごにょして、脚の素材を採取して、座禅っぽく組み合わせる。
ここまでくれば上半身はどうにでもなるというもの。
上記の脚ポーズをコピペして、なんやかんやとGIMPで魔法をかけてツナギ目をごまかせば……はい座禅! ガンギマリ中であることは一目瞭然。
なお、「座禅」という言い方をしてしまうと、目を閉じているのは座禅じゃないとか、
親指が離れているのは気が抜けている証拠とか、足首が異次元を突き抜けているのはグラフィックが雑な証拠とか、
いろいろと座禅業界のみなさんの警策が炸裂してしまうような予感もいたしますので念のために申し上げておきますと、
ここでは方便として「座禅」といいましたが、本文中では「座禅」とは一言も書いてないのでセーフです。ビクビク。隙ありバシーン! イタイぃぃぃ!!
もともとの予定では、シルエットだけの予定でした。
ただ、これだとちょっとわかりにくいかな〜、という心ニクイ配慮により、シルエットを表示する直前に上記の図画をお見せすることとした次第です。
シルエットだけだったらそんな難しくはなかったのですけども、
あなた方を愛するがゆえに頑張らずにはいられなかったというワケです。私は本当に慈悲深いですね。
というわけで、ついにCG作業が完了!
マジですか? どうやらマジらしいですよ。なんだか実感がありません。なぜでしょう?
ひょっとしてすでに死んでいるのかもしれません。それならそれでいいんですけど。
さしあたりまだ生きなきゃイケないというのだから大変です。どっこいしょ。
さて、これからどうしようかな。死のうかな。
なにはともあれ、画像的なデータがほぼ埋まったというのはメデタイことです。
ここまで来れば少なくとも完成の目処が立たずに頓挫、ということはないはず。本当かな? ドキドキ。
これでようやく次の作業に進めるかと思うと、いても立ってもいられません。
手が震え出し、血走った目がギョロギョロと絶え間なく動き、半開きの口からヨダレとともに意味不明の独り言が止まりません。
次の作業とは、もちろん自殺ですが、その前に是非ともやっておかねばならないのが、対戦モードのAIの仕上げです。
天才プログラマーの血が騒ぎます。手が震え出し、目が血走って以下略です。
ていうかプログラミングなんて死ぬほど久しぶりです。リハビリの必要があるんじゃなかろうか。ブルブル。
楽しいリハビリに入る前に、せっかく画像がそろったことですから、
実際のスクリプトで表示確認をしておこうかな。よし、そうしよう。これは楽しみですね。わくわく。
その上で、心置きなく自殺をする、と。完璧なプランですね。他に何かすることなかったかな? あったようななかったような。
いやー、疲れました。私ももう永くありませんね。
それにしてもこの世は闇ですね。
なんていうのかな、ぶっちゃけ、とどのつまり、
この世の森羅万象の一切は、「おまえの母ちゃんでーべそ!」と言うために存在しているじゃないですか。じゃないですかと言われても。
何か、何でもいいので、身近な物事を思い浮かべてもらうといいのですけど、
それって結局、
「○○○である。ゆえに、おまえの母ちゃんでーべそ!」ってことじゃないですか。じゃないですかと言われても。
人間を苦しめることを目的としている。
そんなはずはない、って気はすることはするのですけど、
でも、実際、やっぱり、「そのゆえに人間が苦しむ」ばかりです。すべて、実際、結局、そうなっている。
あえて言い切りますが、例外はありません。
どんなものも「そんなもの、なくてもいいのに、ある」
で、人間が苦しむ。
その「なくてもいい、ある」を「なければならない、ある」に塗り替えるためのエネルギーたるや、凄まじい。つまり煩悩です。
さらに詳しく見ると、つまり、一切は、
人間の可能性を制限する
という役割を持って存在している。
そうした「可能性の制約」ということの総体を土台として、「この世」が存立している。
そうした制約をすべて取っ払うと、「この世」のタガが外れ、無限の宇宙へと雲散霧消してしまう。
つまり、この世がこの世として、このように存在している、ということは、まさにダジャレであるとともに、
それ自体、何らかの「可能性の制約」が行われている、ということの、動かぬ証拠でもあります。
ところで今思ったんですが、辞書には書いてないことですが、
「おまえの母ちゃんでーべそ」の英訳って「son of a bitch」ですよね。まさにぴったり。
と思ったのですが、「おまえの以下略」は攻撃を仕掛ける側(強者)が言う台詞であるのに対し、
「son以下略」の方は、苦痛を受けて苦しんでいる側が言う台詞なような気がいたします。
単語的にはうまく対応してるっぽいのに、使い方が違う。これが文化の違いというやつでしょうか。
何の話でしたっけ?
だからつまり、この世は闇なのですよ奥さん。誰が奥さんだ。
つまり、結局、この世がこのようであるということは、ダジャレであるのみならず、
この世が「存在」する時点で、端的な必然として、このようであるということになる。この世は闇だ。
教会が先か、今日かい? が先か。いいえ、それらは同じ事象の裏表です。不即不離。不二一元。
無限の中へ解消することなく、存在している。存在とは「無限に対する制約」と言えるでしょう。つまり有限。
存在とは有限のことであり、つまり制約のことです。
存在 "させる" とは有限 "とする" ということです。つまり制約のことです。
だから製薬会社がグローバルな資本力でこの世を "制約" しているというのは、単なるダジャレとも言い切れない。いや、ここは言い切ろうか。
さらに、このことから、見えてくるものが、もう1つあります。
人間は、そもそも、この世の側に属するものではない、ということです。
なぜなら、だからこそ、制約して「この世」の範疇に閉じ込める必要がある、ということだからです。
この世では「この世」をこのように存立させようとする諸力が常に作用しており、
そこは人間に制限をかけて可能性を封じ込め続けている場所ということです。
我々は常に手枷足枷をハメられている。この世は闇であり人生は苦しみです。
この世がこのようなこの世である限り、解放はありえません。ただダジャレあるのみ。
なお、上記にいう「人間」というのは、
地上を歩いている個々の肉体およびそこに制限されるものであるところの自我存在、というような意味
ではなく、
この世における存在者である以前の根源的な主体者、というような意味です。
後者を前者から区別する意味で「霊」という方が便利かもしれません。
ただし、おばけの話じゃないですよと申し添えておかなきゃイケないのかな。
というか、そこですよ。こういう話をしにくくなっている、という世相がある。
その世相が、すでに、制約の典型であり「この世の闇」なワケです。制約について話すこと自体が制約されている。
この世がこのようなのはなぜか? というより、
この世だからこのようなのだ、と言わねばなりません。いずれにせよダジャレであることを免れ得ないと知りつつ。
何気なく外を歩くだけで、否応なく目に入ってくるもの、耳に入ってくるもの、肌をなで、体を押すもの。
例えば○○○とか、△△△とか、◇◇◇とか。
どうして、わざわざ、人に嫌な思いをさせるためのことをするんですか?
それも、さも善行であるかのような顔をして。
さも善行であるかのような顔をするということは、つまり、否定されることを否定する、ということです。
いわく、「おまえは理解が足りない未熟者である」とかなんとか。
つまり、いわゆる「常識」というやつです。
そういう「反撃」を用意して、誘うかのように、わざわざ、人が嫌な思いをするようなことを、する。
それが「世間を成立させている作用」です。
枠をハメ、枠に触れることを禁じ、ときには見せしめを行い、人間を閉じ込める。
そうまでして、そんな世間を存立させておく必要があるのか? もちろん、ない。
ない、からこそ、ある、かのように見せかけて、その見せかけを維持するための、恐るべき力が必要になる。
何も存在しなくていいのに、何もかもが存在している。無の中に有を維持するための、恐るべき、そして涙ぐましい力。
そこでは枠を飛び越える「自由」は厳しく制限されねばならない。
こうしたことは、単に現代の日本がそのようである、というだけのことではなく、
あるいは一部の特定の国家が独裁的で抑圧的である、というだけのことではなく、
そもそも、「この世」そのものの存在の、取り去り難い、性質、なのではないか、という気がいたします。
根本の部分に、そういう動因がある。そういう動因こそがこの世を存立させている。
で、こういうことを言うと、仮に話がある程度通じたとして、
「世の中そんなもんだ」とか「誰だって我慢してるんだ」とか「お互い様なんだ」とか言うんでしょ?
はい。この世は真っ暗闇ですね。
で、単にそういうような「お説教」を言うだけであれば、それらの文言そのものは、必ずしも悪いものではないのですよ。
「それ自体は、ある意味では、大体そうかもっすね」ぐらいの妥協は可能です。
ところがですね、信じ難いことにですね、そういう「さも道徳的」なことを言うと同時に、
わざわざ人に嫌な思いをさせるようなことを、わざわざ、するんですよ。わざわざ。
例えば○○○とか、△△△とか、◇◇◇とか。
で、こういうことを言うと、仮に話がある程度通じたとして、
「被害妄想だ」とか「おまえだって人のことを言えない」とか「許し合いが大切」とか言うんでしょ?
はい。この世は真っ暗闇ですね。
で、「仕方ない」とか言いつつ、わざわざ、そういうことをして、「仕方な」さを実現してしまう。
例えば○○○とか、△△△とか、◇◇◇とか。
はい。この世は真っ暗闇ですね。
なお、伏せ字にしているのは、個別具体的な社会問題に踏み込むつもりはないからです。あえて具体的には書きません。
というより、具体的個別的な社会問題に踏む込むこと自体、本質から逸れて「煙に巻かれて」しまうようなところがある。
この世には、さまざまな社会問題が無限に存在し、何を言っても解決しない。
共通している特徴として、どれも、
一見すると答えは明白なように見える。しかし、
「人によってさまざまな意見が」あって、「単純には善し悪しが決められず」
踏み込めば踏む込むほど、泥沼に足を取られて、苦しみが増大する。自己をも他者をも苦しめることになる。
例えば○○○なんて典型中の典型で、そんなもん、「@@@@@」で一発解決じゃないですか。
でもそれを言うと、必ず「******」と言う人が出てくる。
それはそれで、一つの意見、あるいは個人の事情としてわからなくもない。
じゃあ間を取って「#######」でどうですか? 両者の顔を立てるなら、これでバッチリじゃないですか?
でもそれを言うと、またまた必ず「%%%%%%%%%」と言う人が出てくる。
そろそろ伏せ字にするための記号がなくなってきました。
つまり、気がつけば泥沼ってことです。
そして問題は問題のまま放置され、
「さも道徳的」なことを旗印に掲げて、人間を苦しめることを、わざわざ、する、ということが横行する。
ただ横行するだけではく、「道徳的に」横行する。
そこで見かねて口を開けば、またぞろ泥沼シナリオの繰り返しです。
そういうふうにしかならない。
必ず、そうなる、ように、なっている。
「この世」には常に「問題」が存在し、人が苦しむようになっている。
この世の存立の基盤を成す、不可欠の支柱として、そのようになっている。
除去可能な「異物」として、ではなく。除去すると、この世自体が除去されてしまう、そのようなものとして。
そもそもの始まりから、「そう」なのでした。「そう」いうものとして、万物が始まったのでした。
それがこの世だ。
もうダメだ。いや、最初からダメだった。
この世は闇だ。
もうダメだ。いや、最初からダメだった。
どうしょうもない。
果てしなくドウショウモナイ。
と、思うと同時に、そんなはずがない、とも思います。
だって、おかしいじゃないですか。
なんでわざわざ人間を苦しめなきゃならないんですか?
結局そういうふうになっている、というのはわかります。
ただ、それが(この世の発生以前の)根本の願いだとは思えません。そんなはずはない。
なぜかと言えば、人間が「いる」からです。
つまりそれは愛なんじゃないんですか?
愛ゆえに悪をとか苦をとか、そんなヤヤコシイ胡散臭いものじゃなく、原初の、最初の一歩のこと。
無から有になった、その最初の、0.0000(略)00001の瞬間のこと。プリムム・モビーレ。
その始まりが「悪」であるとは、そんなはずはない。そんなはずはないんですよ。
だって、それを見て「よし」と思うんでしょう?
その後の紆余曲折は知りません。
ただ、最初の一歩は……。
しかし、そこまで遡って考えた上で、なお、やはり「この世がこのよう(ダジャレ)」という結論なのであれば、
それはもう、仮に原初の動因が何であれ、やはりドウショウモナイのではないか?
結局、一度滅んで、宇宙のどこか別の場所で進化を最初からやり直すしかないのかもしれません。
少なくとも今のままではそうなるでしょう。
仮に地球を一瞬でお布団とともに吹っ飛ばすボタンがあるとして、それを押したとしても、
どこか宇宙の別の場所で同じことが繰り返されるでしょう。大規模なダジャレの実演となるに過ぎません。繰り返しても寒いばかり。
存在というものが、そもそも悪の性質のものであるのか?
それとも、別の形式の存在というものもあり得るものなのか?
この瞬間も、異なる次元で、さまざまな宇宙(この世)が誕生し続けているのだとして……
そのすべてが結局「このようなこの世(ダジャレ)」であるのか?
それとも、そうとも限らないものなのか?
構造的に悪であるような「この世」ではない、別の存在の形というものもあり得るものなのか?
仮にそうなのだとして、じゃあ、我々が今こうして存在している「この世」を、今からどうにかする道はあるのか?
結局、我々が今こうして存在している「この世」については、ドウショウモナイのか?
存在の根源まで遡って、すべてを「ぐるん」とひっくり返すことはできないものなのか?
それは実のところ結局、一度滅んで、宇宙のどこか別の場所で進化を最初からやり直すということになってしまうのか?
何しろ、どうやら、ドウショウモナイ現状において、それでも生きている我々は、じゃあ、どうすればいいのか?
せめて可能性を知りたい。
私はあなたが幸せであって欲しいと思っています。思っていないかもしれませんが思っています。だってその方がいいじゃないですか。
私は私の嫌いな人が幸せであって欲しいと思っています。思ってないかもしれませんが思っています。だってその方がいいじゃないですか。
私は私を嫌っている人が幸せであって欲しいと思っています。思ってないかもしれませんが思っています。だってその方がいいじゃないですか。
なぜこの世はこのようなのか? 聞き飽きたダジャレが、それでも到底言い足りない。
この宇宙の誰もが幸せであってくれるといいのに。
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