デ某メトルファン540mg(メジ●ン)体験レポート
みなさんこんにちは。いつもお世話になって……あれ? えーっと。私は誰でしたっけ?
今トリップから帰ってきたところで、まだちょっと、自分が誰なのか思い出せずにおります。
もう摂取から24時間以上経過しているのに、まだ目ブレ、フラつきが収まりません。キーボードの打ちにくいこと。
焦点が合わないので片目でモニターを見ております。もちろん瞳孔は絶賛全開中。窓の外を見れません。
以前、OTCの●ンタックWで720mgまで試したことがあったので、今回はメジ●ンに移行するにあたっての小手調べというつもりだったのですが、
まさかここまで飛ぶとは予想外でした。
ちなみに今回は今までと違って吐きませんでした。その分、薬を余すところなく吸収できたのかもしれません。
ということは結局、今までは吐いてた分、飲んだ分量以下の効果しか得られていなかったということなのかな。
さて、何から書こうかな。思った以上に飛びが大きく、整理するのが大変です。
なお、いつものように、この内容はすべてフィクションということになります。よろしく〜。
■ 背景
かのラーマクリシュナ先生によると、この世界が存在しているのは「神のリラ(お遊び)」だそうです。
どこかの中学生が言いそうなことではありますが、昔のインドのエライ人も言っていたことだと思えば、あながちバカにもできません。
とは言うものの、この世界は「神のお遊び」などと言われて、「ハイ、そうですか」とも言えません。
ラーマクリシュナさんと言えば、日常的にサマーディ(三昧)という神秘体験に入っていたことで有名です。
それも、そんじょそこらのありふれたサマーディではなく、ニルヴィカルパ・サマーディ(無分別三昧)というメチャンコスゴイやつです。
どのようにメチャンコスゴイのかと言うと、あまりにメチャンコスゴイのでそう簡単には言葉では説明できないのですが、
主体と客体の区別を超えた、存在が存在する以前の始原の境地、だとか、なんかそんな感じだそうです。
よくわかりませんが、メチャンコスゴイってことだけはわかります。
この「主体と客体の区別を超えた」というあたりが「無分別(ニルヴィカルパ)」ということの意味ですね。
燃えるゴミと燃やさないゴミを分別せずに出して怒られても平然としている境地ということではありません。それはそれでメチャンコスゴイですけど。
この先生はまた、「神の意図は人間などには理解できない」ともおっしゃっていたそうです。
そりゃそうだろうとは思います。人間なんかに理解できないからこそ、神なわけですからね。これはもう言葉の定義だ。
とは言うものの、そんなこと言われて、「ハイ、そうですか」とも言えません。
それにしても、せっかくメチャンコスゴイ・サマーディに何度も入っていたのですから、
もうちょっと何か、腑に落ちることを言ってくれてもいいのに、と、私などは思ってしまいまいます。
この人は理論的な神学よりも、実践を重んじた人だったそうです。
神を知ることよりも神を体験することの方が価値がある、とかなんとか。
で、ぐだぐだ言ってないで黙ってサマーディ、というわけですね。
一理あります。
じゃあ、どうすればサマーディに入れるか、ということなのですが、そんな簡単に誰もが入れるというものではないと思うのですよ。
篤い信仰心や熱心な修行だけでなく、体質的な要因も大きいのではないかという気がいたします。
また、サマーディに入ると「外界の感覚が失われ」るため、周囲の人の介助が不可欠です。
周囲に誰もいない状態でサマーディに入ったまま何日も放置されれば死んでしまいます。
実際、この人がサマーディに入った際、親戚やお弟子さんたちが寝食のお世話をしていたそうです。そういう外的な要因も不可欠です。
話は変わって、ケン・ウィルバーさんという先生がいらっしゃいます。
この人は古今東西のありとあらゆる知見を集約して人間の進化の道筋を示す『万物の歴史』などの書物を著したメチャンコスゴイ先生です。
このご本の中で人間の発達段階が9段階に分けて語られております。
詳しくは同著をご参照いただくとして、誤解を承知で、その発達段階の全体を大まかに言えば、
「身勝手な赤ん坊」から「世間の常識をわきまえた大人」への発達、
さらにそこを超越して、「究極の霊的領域から万物を配慮する境地」への発達、
というふうに言っていいのではないかと思います。
現代的ないわゆる心理学や精神医学では前半の「赤ん坊~世間に適応する大人」の段階までしかカバーされていないのに対し、
そこへ宗教や哲学を統合することで、それをさらに超越しつつ、より包括的な展望が描かれていると言えるでしょう。
9段階の最後の段階を「元因領域」と呼び、そこを起点として「超えて、含んだ」次の発達段階が「非二元」と呼ばれ、最終的な境地とされています。
この「非二元」とは何が「非・二元」なのかと言えば、誤解を承知であえて簡単に言ってしまえば「主体と客体の区別(が、ないこと)」というようなことです。
「私」の根源は究極の <霊(スピリット)> であり、同時に、万物はその同じ <霊> の顕現なのであり、
そのことを体得している境地、ということですね。
これはラーマクリシュナさんのメチャンコスゴイ・サマーディと同じなのではないかと思われます。
おっと違った、なんでしたっけ、ニリ、ニラ、ニラレバ……ニルヴィカルパ・サマーディ! そうそう、それ。
この「ニルヴィカルパ(無分別)」の無分別というところですね。
これはつまるところ、燃えるゴミも燃えないゴミも <霊(スピリット)> の顕現なのだから、
分別せずに一緒くたに出したって究極的には同じなのだ、ってことですね(違う)。
どの宗教も究極の真理の表現の一種であり、優劣はなく、
根源まで遡れば一切の万物は究極の一者である <霊> の顕現なのであり、
多は一であり、一は多であり、 <霊> は無形・有形どちらの形を取ることもでき、何かが真で何かが偽ということはない、とかなんとか。
ケン先生のお話はわかりやすいです。いや、わかりやすくはないですけど。
ただ、なかなか整理のつかないようなことに、骨子を与えて、見事にすっきりと理論立ててくれてます。
古今東西の宗教、哲学、自然科学、社会科学といったありとあらゆる知見を集め、これ以上ないほど精緻かつ簡潔明晰に、
それらが指し示す大いなるロードマップを見せてくれます。まさに偉業です。
この中で触れられている本の一冊でさえ、私などには読みこなすのが難しいものばかりです。そういうものをいくつも踏まえた上で、
さらにそれらを統合して理論的な道筋を見せてくれているのですから、これほど有難いことはありません。
それはさておき。
一切万物は <霊> の顕現なのだ、というのは、そう言われればそうなのかな、という気がしないこともありません。
が、じゃあなんで、今、現に目の前にある「この世界」が「このような世界」なのか?
いわゆる「この世はなぜこのようなのか?」というお馴染みのダジャレです。
このダジャレに対する答えは、ケン先生の上記のご本の中には見つからないようです。
というより、「観察者自身の参与を無視した世界地図の作成」は厳しく批判されておりますので、
こうしたダジャレへの単一の答えを求めること自体、お門違い、ということになるのかなとは思います。
一切は <霊> の顕現なのであり、 <霊> が自身を展開し、理解するための道筋なのだ、
というようなお話があったかと思います。そう言われればそうなのかな、という気がしないこともありません。
私も <霊> 、あなたも <霊> 。私もサザエさん。あなたもサザエさん。古っ。わかる人いるのか?
しかし結局それにしたって、なんでまた <霊(スピリット)> なんてモンがあって、
それがまた、なんで、よりにもよって、このようなこの世、というダジャレのようなものを顕現しちゃってるのか、ってツッコミはしたくなります。
このようなこの世、というのは、苦しみの存在するこの世です。
今こうしてのほほんとネットなんぞを見ている間にも、
世界のどこかでは布団が吹き飛び、ストーブがすっ飛び、バスがガス爆発をしております。おっと最後のはダジャレじゃなかった。
なぜ、この世界は、このような苦しいダジャレに満ちた寒々しいこの世であるのか?
苦しみの渦中にあるとき、ダジャレを言われて凍え死にそうなとき、
そんなときに「この世は神のリラ(お遊び)」だの「神の意図は人間には理解できない」だの
「一切は <霊> の顕現」だのと取り澄ましたことを言われたのでは、思わずガス爆発の一つも起こしたくなるというもの。ドカーン。
お二方ご自身には決してそういう意図はないのでしょうけど、
結局のところ、押し付けがましい現状肯定に堕してしまいがちなものであるようにも思われます。
さしあたり現状が現状のようであるという点に関しては何の理解も得られず、
下手をすれば冷酷な自己責任論にもつながりかねません。
なんでまた、よりにもよって、この世はこのよう(ダジャレ)なのか?
他に、ありえなかったのか?
今からでは、どうしょうもないのか?
そもそも <霊(スピリット)> が存在するのはなぜなのか?
そもそも、そいつが存在しなきゃよかったんじゃないの?
何もかも存在しなくてもよかったのに、なぜ何もかもが存在しちゃってるのか?
元因としての <霊> まで遡り、そこからUターンして「現実」へ戻ってくる。
一切万物は <霊> の顕現であることを理解する。
なるほど。それもよいでしょう。
しかしですよ?
Uターンして戻ってくるしかなかったのでしょうか?
突き抜けて「向こう側」へ行くことはできないものなのでしょうか?
その外側というものは「存在しない」ものなのでしょうか?
こういう問いは問い自体が愚問なのかなという気はしなくもありません。「勘違いしている」と指摘を受けそうな点があることは承知しております。
ただ、どうしても納得がいかないのですよ。
何も存在しなくてもよかったのに、なぜ何もかもが存在しているのか?
それも、よりによって、「このような」形で!
私自身もその <霊> の顕現の一つであり、その作用に参与しているというなら、
私が「地球上のすべての人びとが幸せでありますように〜〜!!!」って夜の屋上で叫んだら、そのようになるのでしょうか?
近所迷惑で怒られるだけです。そりゃそうですけども。
あるいは私が卑屈になってリストカットでもすれば、その分、世界が平和になるんですか? なわけねーだろって話。
それにしても納得いかない。どうしても納得いかない。
どうしてこの世には苦しみなどというものがあるのか? なんでよりによって、このようなこの世(ダジャレ)なのか?
どーーーしても納得いかない。
かくなる上は、私みずからがそのメチャンコスゴイ・サマーディとやらに入って、
いっちょ、その究極の霊的な元因とやらを見て、事と次第によってはぶん殴ってやるしかありません。
とは言うものの、どうすればそんなメチャンコスゴイ・サマーディに入れるのか?
私はそんなメチャンコスゴイ人ではないので、どうすればいいのか見当もつきません。
そこで薬物ですよ奥さん。誰が奥さんだ。
ラマクリ先生の伝記によると、サマーディに入ると「外界の感覚が失われ」とあります。
これは「解離(Dissociation)」の状態ではないか?
心理学用語として「解離」と言った場合、現実に対して現実感を持てない、というような一種の症状を指します。
また、麻酔薬の一種として「解離性麻酔剤」というものがあり、まさに五感(外界の感覚)を麻痺させる、というものです。
以下、Wikipediaで恐縮ですが引用です。日本語版の方はあんまり詳しくなかったので私の素敵な訳をタダで読めるチャンスですよ。よかったのぉ皆の衆。
Wikipedia「Dissociative」より:https://en.wikipedia.org/wiki/Dissociative
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(引用)
At sub-anesthetic doses, dissociatives alter many of the same cognitive and perceptual processes affected by other hallucinogenic drugs
such as mescaline, LSD, and psilocybin;
hence they are also considered hallucinogenic, and psychedelic.
Perhaps the most significant subjective differences between dissociatives and the classical hallucinogens (such as LSD and mescaline) are
the dissociative effects, including: depersonalization, the feeling of being unreal, disconnected from one's self,
or unable to control one's actions; and derealization, the feeling that the outside world is unreal or that one is dreaming.
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(私の素敵な訳)
麻酔以下の摂取量では、解離性麻酔剤はメスカリン、LSD、シロシビンなどのその他の幻覚剤で影響を受けるのと同じ認識的および感覚的プロセスの多くを変容させる。
そのため解離性麻酔剤は幻覚剤またはサイデリクスとも見なされている。
おそらく、解離性麻酔薬と古典的な幻覚剤(LSDやメスカリンなど)のもっとも重要な主観的な違いは解離効果である。
解離効果には脱個人化、非現実感、自身の自我からの断絶、自分の行動をコントロールできなくなる、外界が非現実である、または夢を見ているという感覚がある。
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これは解離性麻酔剤の効果が説明されている箇所です。
この中の「depersonalization(脱個人化)」や「disconnected from one's self(自身の自我からの断絶)」というのが、
「主体と客体の分離=ニルヴィカルパ=無分別」に該当するのではないか?
つまり、解離性麻酔剤を用いることで、メチャンコスゴイ・サマーディを疑似体験できる可能性がある。
もちろん、宗教的な神秘体験を唯物的な科学の言葉で解説して「わかった気になる」ことの野暮さは承知の上です。
また、仮に薬物の力を借りて強引にそのような状態を実現することが可能だとしても、修行ができていない者にとっては結局意味がなく、
そこでの体験を自分のものとして持ち帰ることはできないであろう、とも思います。
せいぜい何か勘違いしてゴミを無分別に出して、収集車が回収してくれなかったゴミを自分で持ち帰るハメになるのが関の山です。
ただ、しかし、それを言うなら、さんざんサマーディに入っておきながら、
結局言うことが「世界は神のリラ(お遊び)」っていうのも、ちょっとどうなんですか? などと言っては怒られるでしょうか。
ともかく、このような手段が存在するというのならば、
あくまで薬物の力を借りての疑似体験であることを承知の上で、一度は試してみる価値はあるのではないか。
さて、解離性麻酔剤といえば、いろいろありますが、代表的なものはケタミンです。
ケタミンをご自身で100回以上体験したというD.M.ターナーという先生はご著書で次のようにご報告していらっしゃいます。
日本語版も出てるらしいですが、ちょっと手に入らなかったので、なぜかネットにあった英語版からの、これまた私の素敵な訳でお届けいたします。
『The Essential Psychedelic Guide(D. M. Turner)』より
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The experience is one of being in total orgasm with the universe. I feel like I'm
in hyperspace, simultaneously connected to all things. Billions of images
and perceptions are simultaneously flowing through my circuits. I am not
bound into three dimensions. In the fourth dimension of time I am not
locked into the current moment. I experience backwards and forwards in
time as well, with the current moment being the center of intensity.
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その経験は宇宙と一体の全体的至福というあり方の一種だ。超空間にいて、同時に万物とつながっていると感じる。
無数のイメージや認識が同時に私の思考回路を流れる。私は三次元には縛られていない。
時間の第四次元で、現在の瞬間に固定されてはいない。
現在の瞬間が強度の中心としてありながら、時間においても前後に移動する経験をする。
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これはまさにメチャンコスゴイ・サマーディではないでしょうか!
一緒にすると怒られるかもしれませんが、少なくとも一部似ているところがあるとは言えるでしょう。
とはいうものの、麻酔剤のケタミンなんて、お医者さんでもない素人が手に入れることはできません。
昔はそうでもなかったらしいですが、現在の日本では規制されてしまっております。がっかり。
しかしケタミン以外にも類似の効果を持つ物質は存在しております。
効果の要はNMDA受容体拮抗作用です。
その効果を持つお薬の中には、現在も合法的に購入可能なものが存在しております。
代表的なものが、はい、みんな大好きデキスト某メトルファン(以下「デ剤」)でございます。
なお、いかに合法とは言え、このような使い方は「乱用」以外の何物でもありません。
推奨する意図も、広める意図もございません。あくまでもすでにご存知の方を対象としての情報共有が目的です。
よい子以外のお友達がみだりに真似をするようになっては、いずれ規制ということにもなりかねません。
したがいまして、一部を伏せ字としてお送りさせていただくこととしております。
この道にお詳しいみなさんはすでにご存知のことと思いますが、
デ剤の効果は摂取量および強度により「プラトー」と呼ばれる段階で区分けされております。
プラトーは4つ(+α)存在し、その中の第3プラトーについて、とあるサイトには次のようにあります。
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Third Plateau (7.5 - 15 mg/kg) - The Third Plateau is much more intense than the second.
One should gradually work up to it. The effects of the third plateau can include but are not limited to:
dissociation, sedation, nausea (during comeup), memory suppression and ego death, auditory hallucinations,
internal hallucinations, cognitive dysphoria, Cognitive and Physical Euphoria, anxiety, delusions,
and all the effects of the second plateau.
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第3プラトー(7.5 - 15 mg/kg) - 第3プラトーは第2よりはるかに強烈である。少しずつそこまで上げていくべき。
第3プラトーの効果には次のようなものがあるが、これに限るものではない。
解離、鎮静、吐気(効果発生時)、記憶の抑制と自我消失、聴覚的幻覚、内部幻覚、
認知的不快感、認知的および身体的多幸感、不安、妄想、および第2プラトーのすべての効果。
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さらにこの上の第4プラトーではこれに外部幻覚や完全な解離効果が加わり、第3プラトーの全効果が増強されたものとなるそうです。
特にこの中の「自我消失(ego death)」というものがニルヴィカルパ・サマーディを彷彿とさせるものがあります。
この状態になればゴミの分別だってできなくなるに違いありません。
というわけで長くなりましたが、
デ剤を使って元因領域までイッて、神とやらを殴ってやろう、というのが今回の企画。わーわー、パチパチパチ。
■ ドースについて
冒頭でも申し上げたとおり、私は過去にOTC版の方で720mgまで試しております。
その結果第3までは行けたかなという手応えでしたが、あくまで色々とあり得ない景色を見れただけ、と言えばそれだけのものでした。
結局最後まで「自分は部屋で寝ているだけ」という自覚があり、それ以上のものとは言い難いものでした。
なお、実際そのとおりなんだからそうなんだろ、というツッコミは華麗に無視することといたします。
OTC版のものは1箱の容量が24カプセル(合計720mg)となっており、これを超えるには2箱以上購入する必要があります。
が、そのようなことをすれば店員にマークされることは火を見るより明らか。しかも割高。
というわけで今回からはメジ●ン(以下「メ錠」)です。まとめ買いをするならこちらの方が割安。しかも余計な物質が入っていないのも好ましい点です。
ただ、OTC版のものと比べて、効果の出方に違いがあるという話がございます。
そのため、イキナリ高用量に突入するのではなく、まずは試しに低めのドースでどうっすか、ということです(言っちゃった!)。
というわけで、後日もっと高いドースでやることを目標としつつ、今回は540mgとしました。
この数字の理由は、OTC版で始めて第3に入ったのがこのドース(18c)でしたので、比較のため同一量を選ぶこととしました。
■ 摂取方法
メ錠36錠をぬるま湯で飲み下す。事前に白がゆを食べておく(約15分前。数字は適当)。
実施前にはたっぷりと睡眠をとっておき、途中で寝落ちちないようにする。
白がゆは胃壁の保護が目的です。
今までは空腹の状態で飲んでいたのですが、毎回吐いていて、しかも嘔吐物が明らかに薬臭い。
薬の効果で吐いているというより、胃壁が刺激されて吐いているのではないか? 吐いた分はせっかく飲んだのに吸収されていないのではないか?
そこでネットでの先達の先生方の情報に従い、事前の白がゆです。
胃にものを入れておくことで胃壁の保護になるだけでなく、胃が活発になるので、この方が吸収も消化もよくなるとのこと。
その結果はと言えば、冒頭にも書いたとおり、一度も吐くことなく帰ってくることができました。すばらしい。
吐気を我慢していたわけでもなく、吐気自体が一度もありませんでした。すばらしい。
それについては今後量を増やせばセトロニン絡みでの吐気が出る可能性はあるのかな。
ともかく白がゆメソッドは大当たりでした。ありがとうございます。
それにしても36錠を数えるのは面倒くさいですね。今後はさらに増やす予定なのに、先が思いやられます。
ネットを見ていると、ヤケッパチのようなハイドースの報告をしている方がときどきいらっしゃいますが、
ちゃんと数えているのだとしたら、ヤケッパチと見せかけて、なかなか几帳面ですね。
では出発です。
■ 開始 ~ 効果発現まで
就寝前には何も食べずにおいて、しこたま寝る。
起床後、熱いシャワーを浴びてバッチリ目を覚ましておく。
その上でレトルトの白がゆを食べ、約15分後にメ錠36錠をぬるま湯で一気飲み。
・00:00 ~ 01:00
事前に用意しておいたトランス系のBGMをイヤホンで聴きながらアイマスクをつけて瞑想。
普段よりも瞑想がハカドるような気がしないこともない。
が、アイマスクの裏の光景に変化はなく、気がつけば約1時間経過。
・01:00 ~ 01:25
疲れて横になる。薬の効果が出てきてフラついて、という感じではない。
単に背筋を伸ばして座っているのに疲れたのと、瞑想の集中力がなくなっただけ。むしろ普段よりもハカドった方。
やたらと痰が出る。さすがは鎮咳去痰薬。でもメ錠って去痰剤も入ってましたっけ? 気のせいかな。
アイマスクの裏の光景には何の変化もない。吐気もフラつきもない。
こりゃあもしかしてハズレかなぁ? すでに何度もやってるから耐性ついちゃったかなぁ? 何度もと言っても実質2回だけなのに……。
などと思いながらお布団でゴロゴロと過ごす。
やがてアイマスクの裏に若干の変化が。
真っ暗な中、頭の後方から、光の輪が表れて、前方へゆっくりと進んでいく。
光の輪は連続して表れ、光のトンネルのようなものが形成される。
こういうものは今までの体験でもシラフでも見えたことがありません。眼球を動かしても頭を動かしても消失しない。これも初。
・01:25 ~ 01:35
そういう閉眼幻覚が収まったり激しくなったりしつつ継続する。
ずいぶん長く続いたなぁ、と思いつつ、ふとタイマーを見ると10分程度しか経過していない。
時間の流れを遅く感じる。
この時点で、視覚的なものではありませんが、何か、エピソード的なものが2、3発生したような記憶があります。
眠りに落ちる直前の譫妄のような感じ。何かの会議の席につれて行かれて「この人じゃないんだ!」と懸命に弁護するかされるかしていたような。
よく思い出せませんが、仮に覚えてたとしても、内容をここに書いても面白くはなさそうです。
さて寝てしまったか、と思いましたが、そういうわけではなさそう。意識は明晰。
一方、閉眼幻覚の方は相変わらず。
これ以上特に派手になるわけでもなく、暇な時間がダラダラと続く。
やっぱり耐性がついて、この程度しか見れなくなってるのかなぁ。残念だなぁ。ぐずぐず。
などと思っているうちに完全にぶっ飛んでました。
なお、以降は時間の確認ができなくなります。時系列に沿っての正確な記述も不可能です。
■ 気づいたら離陸済み
何が起こったのか?
最初のキッカケはもはやわかりません。
さまざまな光景な次々と展開する中に放り込まれていて、それでいて、特に何の疑問も感じない。
そうした中で、ふと、ああ、そっか、今トリップ中なんだ、と思い出す。
いつからそうなっていたのか? それはもうわかりません。
なぜこうなっているのか? どのような経緯でこういうことをすることにしたのか?
自分が誰で、どのような人生を送って、そしてなぜ今、こういうことをしているのか?
思い出せないわけではないのですが、遠い昔のことのような、または実際にあったことなのか、やろうとして想像していただけのことなのか、
あるいは何かのマンガで出てきた作り話のような、手応えのないものとしか感じられない。
真っ白な世界の中で、窓の向こうに人影が見える。
「結局あの恥ずかしい人生のやつをやんなきゃいけないってわけ?」
などと話しているのが聞こえる。
あの世の舞台裏を垣間見てしまった気分。
暗い中で何人もの僧侶が座禅をしている。その姿は緑色に光っていて、顔は見えない。
その上を飛ぶように視界が流れ、遠ざかるにつれ、その場所が宇宙に浮かぶ島だったことがわかる。
宇宙のどこかにそんな場所がある。
誰もいない作り物のような街。それでいて異様に明るい。
そんな中をジョルジョ・デ・キリコの絵に出てくる車輪を回す少女のような影が音もなく横切っていく。
晴れ渡った、見通しのよい街の光景が現れる。
一点透視図の消失点に意識を集中すると、どこまでも無限に解像度が上がっていく。
それがトンネルのような、遊歩道のような形に変化し、吸い込まれるように景色がスクロールしていく。
街の片隅の、どこにでもあるようなありふれた縁石に画面がフォーカスし、ピタリと停止する。
異様なリアルさ。コンクリートの砂粒の1粒1粒が見分けられる。
それでいて、その背景では、何かが超高速でビュンビュンと絶え間なく流れているような、距離感のない光景。
いつまで見ていても飽きない。何か重大な意味を持った縁石のように思われる。
やがて景色が移り変わり、またどこかの街に。
そこでもやはり、ひとしきり視界がスクロールするとは、どこかのビルの壁の角の突起に画面がフォーカスし、ピタリと止まる。
異様なリアルさ。視界の右上から、何らかの光源が強烈な光で壁を照らす。
どこにでもあるような、何の変哲もない壁。何の変哲もない突起。
それでいて、どこかの宇宙に確実に、確実に存在する何か。
ときどき狭い地下のような、棺桶のようなものに閉じ込められる。
不思議な安心感がある。目の前の壁に文字のようなものがあるが読めない。
少し街外れのような、田園が広がる光景。笑顔の人々が素朴に暮らしている。
右側に川がある。
初めてのトリップの時にも川がよく出てきましたが、そのときには常に川は左側でした。ついに川を越えてしまったか。
明るい街の中を飛ぶように視界が進む。
綺麗な広場。巨大な金色の菩薩のような何かが両手をやわらかく広げて輪になって瞑想している。
菩薩の広場を通過すると宇宙へ。
そして再び真っ白な世界。誰かがいるような気配がする。
誰もが幸せでいられる世界じゃどうしてダメなんですか?
それでいいじゃないですかー。なんとか言いなさいよー。答えなさいよー。なさいよー。さいよー。いよー。よー。
■ 07:00 ~
ふと落ち着いた気がして、アイマスクを外してパソコンの画面上のタイマーを見る。
目ブレがひどくて見るのが大変ながら、約7時間が経過していたことを確認。
早いような遅いような。
というか、「時間の経過を確認しなきゃ」という意識だけはあるものの、「誰が・何のために」という認識に現実味がない。
アイマスクを再装着する際にも、手は自然に動くものの、「アイマスク? これって何?」などと頭の片隅で思っている。
「なぜ私はこれの装着の仕方を知っているのだろう?」と不思議に思いつつ、
立ち上がることもできず、他にすることもないのでそのまま寝そべって再離陸。
その後もトリップはひたすら続きます。
ただ、あまりに支離滅裂すぎて、個別に書き出すのは不可能です。
総じて言うと、
・明るく色鮮やかな景色が多かった
・動きがあった。意識していないはずの景色の細部や視界の端のものも動いていたのが印象的
・街の景色もあれば、山や川や海などの自然の景色もあった
・人や生き物の姿もあった(会話はほぼなし)
・孤独感はなく、常に何者かが見守ってくれているような充足感があった
・音はほとんど聞こえなかった。たまに声が聞こえても、音ではなく頭に直接入ってくる感じ
・体の感覚は、かなり消失
実際には布団に寝ているだけ、という自覚が完全に消えることはなかったはずですが、
目を閉じている限り、トリップ側の景色の方が存在感が優勢でした。
また、寝そべった状態で空中で両手を合わせようとしたところ、スカッと空振りする、といったことがありました。
シラフのときには目を閉じていてもそんなことはない。
・手は見えなかった
初めてのトリップのときにはアイマスクをつけていても自分の手が見えて驚きました。
今回も見えるかどうか試しましたが、そういったことはありませんでした。
ときどきうっすらと半透明の影のような腕が見えることがあった程度。
・体の向きの感覚は消えなかった
一度、身を起こして、背筋を伸ばして瞑想ポーズをしてみたところ、見える物に変化はないものの、視点が少し高くなったようでした。
寝そべった状態のときには、地面に埋まって首だけ地上に出しているような見え方が多かった。
・全身の皮膚の表面が痺れたようになり、叩いてもあまり痛くない
・具体的な事物だけでなく、抽象的・幾何学的模様もあった
まさにShpongleの動画のようなものが見えていました。色つき。普段からよく見ているから見えただけかもしれません。
模様自体が単独で見えることもあれば、建物の壁にそうした模様が映っていることや、
または空いているスペースがそういう模様で埋まっていることがありました。
見えること自体に不思議という感じはなく、当然の光景、というふうに眺めていたように思います。
・感情の変化(快・不快)は特になし
エピソード的なものや概念的なものも特にはなく、淡々といろいろな景色が見えていて興味深く美しいものではありましたが、それだけと言えばそれだけです。
一度、巨大ロボットに叩き潰されそうになりましたが、恐怖もなく、無感動なままでした。
・知らない景色ばかり
ただ、一度、はるか天空までそびえる巨大な真っ白な塔が見えて、
「あ、これは駅の近くにあるあのビルだな」と、見た目はまったく違うのに妙に冷静に思ったことがありました。
・視野の広がり
トリップ開始のタイミングがわからないということを上に書きましたが、
どこかの時点で、アイマスクの裏側で、視野が、ズオンッ、と広がったような感じがありました。
まだ何も見えてはいないけれど、何かが取り払われて、視界が360度に展開した感じ。
一方、アイマスクを外すと視界はブレブレ。もうシラフじゃない。
■ 09:00 ~ 11:30
そろそろ終わったかな、と思い、アイマスクを外す。
まだ視界のブレは継続中。身を起こそうとするも、ふらつきが激しく、危険を感じ、諦める。
アイマスクを再装着し、トリップに戻る。
そんなことを断続的に繰り返す。
トリップに戻るたびに、直前にアイマスクを外したのがいつだったのかわからなくなる。
直前だったはずなのに、遠い昔のような、あるいは外そうと思いついただけで、まだ実行していないことなのか。
■ 11:30 ~
トイレへ移動。慎重に慎重に。
まずは、あの床に右足を乗せて、次にあの壁に手をついて……と、慎重にコース取りの計画を立てながらの大冒険。
用を足す最中も目を閉じるとあっち側にイってしまうので気をつける。
ついでに台所で軽く食事。事前に開封してキッチンペーパーの上に並べておいたお菓子を少々と、きな粉ジュース。
きな粉ジュースはゲロを吐く直前に胃液から歯を守るために飲むつもりで事前に用意しておいたものですが、
結局吐くことはなく、この時点でも吐気はまったくなかったので、普通に飲み物としていただきました。
ハミガキの際に鏡を見ると、瞳孔は予想通り全開。黒目がち。真っ黒だ。まだまだ効果は継続中のようです。
さて、もうひとっ飛びするかぁ。
慎重に寝床へ戻ってアイマスクを装着して寝そべる。
海が見える。うっすらと霧がかかった綺麗で静かな青い海だ。ああ、綺麗だ……。
■ その後
その後、寝たり起きたりを繰り返しつつ、今に至ります。
ハッキリと眠れたという気はあまりしません。
もういくらなんでも終了したかな、と思って、これを書き始めているわけですが、
冒頭にも書いたとおり、書き始めた時点ではまだまだ目ブレおよびフラつきが収まっておりませんでした。
なお、肩こりは予定どおり全快しております。素晴らしい。全身の軽いことと言ったら。
ここまで書く間になんだかんだと半日以上経過してしまっており、身体症状はかなり回復してきております。
が、ときどき鏡を見ると、まだまだ瞳孔が開きぎみ。
目を閉じると具体的に何かが見えることはないものの妙に明るい。ときおり視界の端からビカーッと光が差し込む。
うっすらと影のようなものが見え、意識を集中していると街の景色の稜線のようなものが見え始める。まだ継続中なんじゃねーの?
立ち上がると、まだ足元がフワフワします。この状態で外へ出る気にはなれません。
さきほど台所で食事をした際のこと。調味料を取ろうと手を伸ばしたところ、指がスカッと空振りする、ということがありました。
社会復帰できるのでしょうか? ドキドキ。
■ 反省と今後に向けて
540mgという特にハイとは言えないドースのつもりでしたが、予想に反して大きな飛びでした。
1回目と2回目のトリップのいいところを合わせたような内容であり、しかも吐気などの不快な点がない。
精神的にも怖い思いなどをすることはなく、単なるトリップとして見れば、文句のつけようのない「グッド」なものではありました。
ではさて、元因領域まで行けたのかどうか?
「イケたぜ!」という実感はありません。やはり単に支離滅裂な光景に翻弄されていただけのような気はいたします。まだまだ修行が足りませんね。
また、そのように、さまざまな光景が見えていたところを見ると、元因云々というよりも想念の世界、
某シュタイナー先生のお言葉を借りると、アストラル界だったのではないかという気がいたします。
さらにその向こうへ行く必要がある。
ときどき真っ白な世界があったのは、それなのでしょうか? よくわかりません。
冒頭でも述べましたとおり、今回はメ錠でハイドースをする前のあくまでもリハーサルというつもりではありましたが、
予想以上の飛びだったため、ドースを増やすことについては慎重になりたい気がしてきております。
もう少しドースを増やすべきか、それとももう少しこの世で研鑽を積むべきか。
さしあたり、しばらくは休薬です。今回、第三 ~ 第四プラトーの手前ぐらいまでは行った感じがしますので、
プラトー×週のガイドラインに従って、一ヶ月はお休みです。
ではまた。
今日もあなたが幸せでありますように〜。
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