マインドルのCG作成
学園モノと言えば結婚式。
新郎と新婦に見えますよね? 見えてくれないと困るので見えてください。よろしく〜。
なお、どちらが新郎でどちらが新婦なのかは愛し合う二人にとってはどうでもいいことです。
なかなか「わかりやすい」一枚ですね。うむ。
ただちょっと、横向きなせいで服装が見えにくいのではないかと少々心配です。
ウェディングドレスの方はまだしも、タキシードの方はただの黒い服にしか見えないのではないか?
実際には直前の通常シーンが↓こういう感じなので、文脈から察していただけるものという予定ではあります。
察してくれないと困るので察してください。よろしく〜。
というわけでご両人ともども、ほぼ服装手描きコースでした。
死ぬかと思いましたが結局死ななかったというお馴染みの同じ道。私は一体いつになったら死ねるのでしょう?
手描きとは言え、タキシードの方はブレザーの親戚なので今の私の手にかかれば赤子の手をひねるようなもの、
の、はずなのに、妙にヤリにくかったのは赤子の手をひねることのできない私の心やさしい性根に加え、多分、横向きだからです。
これまで立ち絵にせよCGにせよ、真横向きというのがほぼありませんでした。さぁどうしよう。困った。
服の正面の部分が見えてれば、「ああ、タキシードなのね」っていうふうに察してもらえるじゃないですか。察してね?
こういうわかりやすい部分さえ頑張れば、あとはもうオマケのようなもの。
その点、横向きになってしまうと黒い全身タイツになりかねません。
というわけで、横向きながら正面の「おっす、おらタキシード!」な部分をチラ見せするように、高度な表現技法を駆使して作成。
うむ完璧。のはずが、腕のポーズをつけたら↓ 襟が隠れてしまったじゃないか!
さらに相方と合わせたら結局、正面部分がすっかり隠れてしまうじゃないか! もはやギャフンと言わざるを得ません。
ちなみに腕は「自分より身長が高い相手の肩を抱く」を実現するため、
コミPo!の素材を角度を変えてコピペしております。すでにお馴染みの高度な表現技法。
なお、足元に関しては高さがズレているとか足を踏んでるとか上履きズックなんじゃないかとか、いろいろ思うところはありますが、
実際には画面の外側に放逐されるのでなかったことになるという高度な表現技法です。
今回、どちらかと言えばウェディングドレスの方で困難を予想していたのですが、ウェディングドレスって、わりと「わかりやすい」じゃないですか。
なんか白い服と、ベールっぽい何か、ティアラ的なお飾り、っていう三点セットが揃ってれば、
「ああ、ウェディングドレスなのね」って察してもらえるじゃないですか。察してね?
というわけで緑髪の人の方はただの黒い服なのか何なのかって感じかもしれませんが、
相方のウェディングドレスのおかげで、「ああ、結婚式なのね」って察してもらえるじゃないですか。察してね?
ともあれ、とってもムズカシイ結婚式のシーンもこれにて完了! めでたしめでたし。
と、見せかけて、同じシーンでもう一枚あるらしいですよ? え? マジですか? もはやギャフンと言う他ありません。
この勢いで一気に片付けてしまおう、と言いたいところではありますが、そんな勢いはどこにもないので、来週へ先延ばしすることとします。
やらねばならないことは他にも残っております。
例えば学園モノといえば絶対に欠かすことができないのが高所からの飛び降り。
崖の上から下を覗き込んでいるように見えますよね?
え? 見えない。では行ってみましょう。
あっ、やっちゃった。
ひゅーん。
さて、どうすれば「高い場所」という感じになるのか?
絵が描けないなりに誤魔化す方法を探るべく三日三晩座禅を組んで考えた末、
一人称視点の足を表示することで察していただくこととしました。察してね?
あとはどうにか「崖っぷち」っぽくするべく、いろいろ混ぜます。
きまぐれアフター先生の岩場的な画像から拝借して足元を、(左)
maospace先生の川辺的な画像から拝借して断崖を、(中)
そしてコミPo!の草素材を散りばめて「野外ですよ」と主張。(右)
仕上げにグラデーションで黒っぽくすれば、ジャジャーン、細部を誤魔化しつつ、崖っぷちで怖い感じの完成であります。
あとはもう本文と合わせての催眠術で察していただくこととします。察してね?
一体どうすれば崖っぷちっぽい画像を作れるのか皆目見当がつかず、もはや崖から飛び降りるしかないかとさえ思いましたが、
多くの先生方のお力を拝借し、こうして無事に崖から飛び降りることができました。本当にありがたいことです。
そんなこんなで今週の成果は作業計画上の枚数で言うと堂々の3枚! ギャフン。
作業自体の難易度や手間というより、どうすればそれっぽく見えるのかが分からないというのがツライ。
あと6枚!
いろいろな意味で「やりにくい」のが残っております。
絵が描けないのにどうするつもりなんでしょうね? 困ったなぁ。ここまで来たんだから何とかなるでしょう。本当かな?
どうしても無理なら、文章だけにして画面は真っ黒という最終手段もあるってことで。
それも含めて、今まで先延ばしにしてきた決断を下しましょうってことですね。死なない程度に頑張りますよー。
ところで先週お話したSSLの件ですが、三日三晩座禅を組んで三千世界を経巡って沈潜熟考した末、
さしあたり必要ないので導入はしないこととしました。普通の結論ですね。
理由を正確に書くと上中下巻に詳細な註解書を加えた浩瀚(こうかん)な大百科になってしまうので、かいつまんで言うと、
仮に導入するとすれば、その理由はとどのつまり「世間体」なわけで、それはアホらしいということです。普通の結論ですね。
検索エンジンの方針として、SSLを導入してないサイトよりも導入しているサイトを優先しますよ、というのは、
それ自体は、そこそこ妥当な方針かなとは思います。私が検索エンジンの中の人だとしても、そうするかもしれません。
しかし、それを持ち出して、だからSSLにしておかないとソンだ! みたいなことを言い出すのは流されすぎってもんです。
検索エンジンを理由にするというのが、もう、アホらしいの一言。
検索エンジンに「うんこしたあとは紙を使わずに手で拭かないと表示順位を下げるぞ」
と言われたらそうするのでしょうか? 他のたとえはなかったのか。
検索エンジンの方針と言うなら、むしろ、本当にSSLが必要というわけではないのに無駄に導入しているサイトの表示順位は下げる、
ぐらいの細やかさを求めたい気がいたします。
それから、一度SSLにしてしまうと、実質的に、元に戻せなくなる。
なぜか?
SSLにした状態でサイトが定着するということは、URLが「https~」でブックマークなどされるということです。
そんなある日、気が変わってSSLを解除するとします。
この状態で「https~」のままでアクセスされると、「接続の安全性を確認できません」などと、いかにも不吉なエラーを画面いっぱいに出されてしまいます。
こんな画面を見せつけられたら何事かと思うではありませんか。
落ち着いてURL欄を編集して「https」→「http」にすれば問題なく表示されるのですけど、訪問してくれる人がそこまでしてくれるかどうか。
一度こんな画面を出されてしまったら、もうこの街では生きていけません。
だからSSLを導入するのはいつでも可能ですが、一度導入してしまったら、二度と戻せないものと覚悟を決めねばなりません。まさに入れ墨。
ただの個人サイトの「かっこつけ」で導入するのは「荷が重い」。たとえ無料であろうが「心が不自由」になる。
それから、SSLじゃないとブラウザが「安全ではありません」などと表示しやがる件ですが、
じゃあ、SSLを導入すれば世間体がよくなるのかと言えば、導入したらしたで、また別の風評が懸念されます。
上記のとおり、SSLを導入しただけでは、今度は「運営者が信用できない」みたいなことを言い出すわけです。失礼ですわね!
これを解消しようと思ったら、高いお金を払って、サイト運営者の身元の認証をしてもらう必要があります。
手の込んだ商売……とまでは言いませんが、これまた個人サイトではそこまでやってられません。
結局、世間体を気にし出すとキリがありません。疑いが疑いを呼ぶ。
だったら始めから、ブラウザごときに「安全ではない」とか言われる程度でアクセスをためらうなら来てくれなくていいですよ、
と腹をくくるのが最善かなという気がいたします。
ちなみにサーバー自体は容量が足りなくなりつつあるので、移転する可能性があります。
移転先として検討中のサーバーでは無料でSSL化ができるらしいのですが、上記の理由により、敢えてやらない方針です。
というわけで、このページにアクセスするのは「安全ではない」ですからね〜。よろしく。
なんだかギスギスした話ですな。
どうしてこの世にはこんなにも疑惑や悪意が渦巻いているのでしょう? 私はこんなにもあなた方を愛しているのに。
前回も言いましたが、これは私個人がいかに善人か、ということとはあまり関係のないことです。
現象として何が起きているか、というのは理解はできます。
全員が悪人ではないにしても、少数の悪人がいるために、全員で警戒しなければならなくなる。
また、善人が多数を占める中での少数の悪人ほど、悪事をおこなうのに好都合となる。
そういう中で、「善人のフリをするのがうまい悪人」が幅をきかせ、「正直な善人」が「悪人」であるかのように罰を受ける。
現象面としては、全体として、だいたいそういうような構図があるものと「理解」はできます。
しかし救いがないですね。
この「理解」というのは「いかに絶望的であるか」の「理解」です。どうしょうもない。
これは、個別具体的な事例を持ち出して「いい人だっているんですよ」とか「世の中捨てたもんじゃない」とか、そういう次元の話ではありません。
さらに「そういう人は結局は損をするのさ」だとか「かわいそうな人なんだ」とか、そんなお題目を持ち出すに至っては、
まさに絶望ここに極まれり、と天を仰いで嘆息するしかなくなります。
挙句、「おまえだって人のことは言えない」などと「コンテスト」を開催されるに至っては、もう「お手上げ」です。
なんで悪なんてものがこの世に存在しているのか?
たとえば、悪というのも神の計画の一つなのだ、というような話があります。
そんな神はくそくらえです。
あるいは、根源的には善も悪もなく、一切万物は究極の <一者> の聖なる顕現なのだ、というような話があります。
そういう話自体は、わりと説得力のあるものだとは思います。
が、なぜかその手の話は、決まったように、その究極の <一者> 的なものに「聖なる」とか「荘厳な」とか「慈愛に満ちた」とかいうような
何か「善」的な形容詞をくっつけて話すんですね。
根源的には一切の価値観を超越している、とか言いつつ、その根源を語るに及んで、なぜそこで「善」的な「価値観」を持ち出すのでしょうね?
この手の「お気楽な」話には、
「なぜ何も存在しなくてもよかったはずなのに、万物が存在しちゃってるのか?」という絶望の念がすっぽりと抜け落ちています。
修行して解脱しましょう、という。
はい。結構なことです。がんばって参りましょう。
で、だからなんで、わざわざ修行して解脱しないと苦しみ続けることになるような、そんな「この世」が、そもそも存在しちゃってるんですか?
存在の根源までさかのぼって、そこに究極の <一者> を見つけ出して、
そこでUターンして、この世に戻ってきて、おお、なんと、一切は究極の <一者> の顕現なり! みたいな話はもうお腹いっぱいです。
こういう話って、「私はすべてを悟ったZE☆」というようなケレン味だけは満載ですが、何の役にも立ちません。
しかし何しろ「役に立つ・立たない」というようなこの世的な価値観を超越しているのだから、それも当然かもしれません。
まさに「お気楽」です。神秘体験としてはさぞかし楽しいのだろうなとは思います。サトリ・ジャンキーめ。
> 存在の根源までさかのぼって、そこに究極の <一者> を見つけ出して、
> そこでUターンして、この世に戻ってきて、おお、なんと、一切は究極の <一者> の顕現なり! みたいな話はもうお腹いっぱいです。
そんなふうにサトリを得るのも結構なことではありますけども、
結局戻って来るしかないってことなんでしょうか。
そこまで行って戻ってきた人、というのは、おそらく歴史上あるいは現在も、わりと少なからず、いらっしゃると思うのですよ。
でも、だから何なんだって話です。
この世は相変わらずこのようです。今日もダジャレが冴え渡る。
大体、そんなふうにして「世間的な価値観」の「超越」を目指すということは、
もともとそういう「世間的な価値観」に対して、あんまりいい思いを持ってなかった、ということだったりすると思うのですよ。
それが結局、イクところまでイった挙句に戻ってきて「いやぁ〜、一切は <一者> の顕現なんスよね〜」とか言い出すのって、
若い頃は手のつけられない不良だったのに今じゃすっかり丸くなって、みたいなほのぼのストーリーですか。みなさんそういうの大好きですよね。
どうせ「存在」するにしても、何か、もっと、別のあり方、というものは、ありえないものなのでしょうか。
またはUターンして結局「現状肯定」というのではなく、究極の <一者> の反対側まで突き抜けることはできないものなのでしょうか。
それがどういうことなのか、想像もつきませんけど。
何とかならないかな。もうちょっと、なんとか。
何か、ないかな。何か。もうちょっと、なにか。
なりそうな気がする。ありそうな気がする。
何か! なんとか!
何か、何かもうちょっと、ナニか、ナニか!
ナニかないかな!
↑悲痛に叫んでみたつもりですが、カタカナで書くと卑猥なナニかを想像してしまいますね。え? 想像しない? こいつめ!
それはさておき、今日もあなたが幸せでありますように。
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