マインドルのCG作成
学園モノと言えばモチロン居眠り。
これにて全メインキャラに居眠りシーンが完備いたしました。
居眠りゲーの看板に偽りなし。全国に推定5億人はいると言われる居眠りファンの心をわしづかみにすること間違いなし。
しかも今回は膝枕サービスつきという大盤振る舞い。
人生こんなこともあるのですから、長生きはしてみるものです。
念のため申し添えておきますと、寝ている方の人はいつものこの人です。
↓
わかりますよね? と言いたいのはヤマヤマですが、
自慢のちょんまげをほどいてしまっている以上、本人確認に支障を来すのもヤムナシというもの。
ですが心配ご無用。そんなこともあろうかと、お馴染みのヘアピンと輪ゴムを机の上に並べてございます。
これで本人であることは一目瞭然。
しかも目立つようにテキスト欄のすぐ近くに配置しているというのだから、いたれりつくせりとはまさにこのこと。もう涙が止まらない。
ちなみに、ちょんまげを解除しているのは何故かと言うと、
本文の中で「髪をなでている」と書かれていたからです。つまり、ちょんまげのままではナデにくかろうという心ニクい配慮。
ちょんまげを描き込むのが面倒だったから、というのはあくまでも表向きの建前に過ぎません。騙されるな!
ちなみに机を並べるのはもはやお茶の子さいさいです。
机並べスキルの上昇っぷりには目をみはるばかり。机のみならず椅子だってご覧の通り。
これほどのスキルがあれば将来は約束されたも同然です。まさにルンルン。
さて、そんなこんなで今週も自殺を止めたり胸に抱かれたり膝を抱えてうずくまったりと、大活躍の一週間でした。
その成果、実に7枚。
あれ? 失速してますね。おかしいなぁ。こんなにも大活躍をしているというのに。
しかし数字には誰も逆らえません。このやろ〜。
ともかく今後とも私の人数を増やしつつ地球の自転を遅めるよう努めて参る所存であります。
それから来年の選挙では時間の進み方を遅くしてくれる候補者にぜひとも投票しなければなりませんね。政治は大事。
あっ! でも時間の流れが遅くなったら私の動きも遅くなるから意味ないんじゃないですか? このやろ〜。
さらに言えば地球の自転を遅めても地球上の人類の動きが遅まるわけではないので同じことですね。実に嘆かわしい。
あと、ぜひ言っておかねばならないのですが、上記の3枚のSSの右端のやつ、
床の上に丸く広がっているのは影ですからね。おしっこを漏らしてるのではないですからね。誰にも言わないで!
そう思って見ると、お尻の下のラインに沿って描き加えてる影も湿っぽく見えてくるのだから不思議です。人生は催眠術。
> あっ! でも時間の流れが遅くなったら私の動きも遅くなるから意味ないんじゃないですか? このやろ〜。
> さらに言えば地球の自転を遅めても地球上の人類の動きが遅まるわけではないので同じことですね。実に嘆かわしい。
このことから、時間とは、つまり、「私」と「私以外」との差分であるということがわかります。
私だけが動くことができて、他の人たちや事物がすべて停止している状態というのが、
私にとっての「時間が止まった世界」ということになるわけですね。マンガ的な「時間停止」の状態。
しかしこれでは私が一人だけ年をとってしまうことになるでしょう。
つまり、私の時間は流れ続けている。
「私」と「私以外」ということをさらに厳密に解釈するならば、
「私の肉体」も「私以外」と言えるでしょう。
上記のマンガ的な時間停止の状態では、私だけは動ける、つまり私の肉体は相変わらず動いている=時間が流れている。
では肉体的な活動は諦めて、精神だけが目覚めていて、一切が停止した世界を観察している、としてみましょう。
この場合は、この状態をどれだけ「長く」続けても、「私」の肉体は年をとらない。停止している他の人たちと同様に。
ただ、この状態を長く続けていれば、その分だけ記憶の積み重ねや考えの変転といった精神面での変化は起きることとなるでしょう。
つまり、いわば精神的には「年をとる」。
ということは、つまり、
精神の中の、そうした、「年をとる」ような機能部分というものも、厳密に言えば「私」そのもの、ではない、ということになりそうです。
「記憶」「思考」「感情」「自己認識」といったものは精神の内面の作用ではありますが、それは「私」そのもの、ではない。
そうしたものを一切排除したところにある「究極的な自己」においては、時間は流れない。というより「時間」というもの自体がない。無時間。
さらにその地点では「自己」という措定自体も意味をなさない。なぜなら「他者」がないからです。
つまり、「自己」と「非自己」の区別が生じる地点が「時間の開始点」ということです。
その区別が生じるところで時間が始まり、その区別が消滅するところで時間が終わる。
では一体何がそのような区別を生じさせるのか?
時間の開始地点までは突き止められましたが、因果の開始地点が見つかりません。
一つ言えるのは、この世は時間が流れる場所であり、すなわち、他人がいる場所、ということです。
すべてが最初から存在しなくてもよかったはずなのに、なぜか存在してしまっています。
他人が消えれば、それとの区別として析出されるものであるところの私も消え、時間も消える。
つまり、この世とは、他人のことなのでした。他人の出現に始まり他人の消滅に終わる。
ここでいう「他人」とは、広く認識対象の一切、ということです。
なんでまた「光よ、あれ」なんて余計なこと言っちゃたんでしょうね。口が滑ったとはまさにこのこと。
ならばせめて「よし」としたいものです。
ただ、なんていうのかな、
出自は不明ながら、ともかく、こうしてこの世が存在してしまっていて、
そのこと自体はよくも悪くもないはずであろうと思うのですが、
なぜか、この世は、人間が不幸になりがちな場所であると見えて、
一体なぜこの世はこのようなのか? と言わざるを得ない。
おっ、なんか久々にダジャレが成立した気がしますよ。私が言いたかったのはコレですよコレ。
何の話でしたっけ?
ペースが減速している話。
かろうじて一日一枚のペースは死守しておりますよ。
一枚完了した後、寝ずにもう一枚ヤレるかどうか?
寝ると、その間に地球が勝手にクルクル回るんですよね。このやろ〜。
人の寝込みに乗じてクルクル回るとは、なんて失礼な地面でしょう。親の顔が見たいものです。
えっーと、あとですね。
> えっーと、あとですね。
アッー、発音できないやつだ。キーボードめ!
えーっと、なんでしたっけ。
先日ですね、見たんですよ。久々に。
何をって、アレですよアレ、
なんていうんですか? 最近の若い人たちがよく言う、アレです。
たしか「ジコセキニン・ロン」とかいうアレです。
ネットで目撃したんですけど、すんごいコテコテのやつ。
私は知らなかったんですけど、その人はどこかの社長さんで、
そういうちょっと過激な発言をして、物議を醸しつつ、その界隈では有名になってる人みたいです。
その「ロン」の内容はさておき、その社長さんみたいに一定の社会的な成功を得たような人が言う分には、
それ自体は、ある種の必然かなという気はします。
ただ、そういうふうにネットで大々的に「煽る」ような形で発言することで、
「そうだそうだ!」と追随する人々と、「調子に乗るなコノヤロー!」と反発する人々とが出現して、
人々の間に無用に対立が深まるようで、いかにも残念です。
そうした「物議」をいくら重ねても、殺伐に殺伐が上塗りされるばかりです。
「物議」以前の出発点のところに、荒涼たる殺伐の地平が横たわっている。
ところで、最近ではもっぱら「ジコセキニン(ロン)」という言い方をするようですが、
昔は別の言葉がありませんでしたっけ?
なにしろ昔のことなので記憶が定かではありませんが、たしか「自業自得」と言ったような気がします。
しかしその頃は別段、「ジゴージトク・ロン」なるものが世間を席巻していたというような世相はなかったはず。
何が違うのか?
言葉が指している言葉どおりの意味ではなく、その背景の文化というか思想というか、思考回路の地平が違うようです。
「自業自得」の場合は、たとえば何か悪いことをした人が、その報いを受けて不幸な目に遭う、というような、
単にそれだけの意味合いだったはずです。
犯罪を犯した人が捕まって刑を受ける。ヨソ見をして歩いていた人がドブにハマる。
自動自得だよね〜、という。
それ以上でもそれ以下でもなかった。単に結果的な事実の一側面を言い表しているだけであり、
「ジゴージトク」の後ろに「ロン」がついて「ジゴージトク・ロン」に進化していくようなアグレッシブな衝動はそこには見受けられません。
それに対し、「ジコセキニン」の場合は「それ以上のこと」を言う。
不幸な境遇に陥っている人を積極的に見下す。
その積極的な攻撃性は、他人に向かっては「切り捨て」となり、自分に向かっては「自虐」になる。
結果的な事実を単に言い表すにとどまらず、さらに、
人生において自分の身の上に起きることはすべて自分の「責任」でコントロール可能であり、そうすべきである、
という「ロン」にまでパワーアップしていく。
言葉が指している言葉どおりの意味だけで言えば、「自動自得」も「自己責任」も同じようなものです。
どちらも事実の一側面、および世界観を言い表しているだけです。
しかし「ジコセキニン・ロン」における「自己責任」には、
何としてもタダでは収まろうとしない、関わる者一切を殺伐たる地平に巻き込まずにはおかない、猛々(たけだけ)しい攻撃衝動が横たわっているようです。
これは特定個人の性向として、というよりも、もっと大きく根深い影響力を持った人間以上の霊的な衝動として、ということです。
その意味で「横たわっている」という言葉を使いました。
なお、「横たわって」はいても「鎮座」はしてないようですね。鎮まってない。どこかに神社でも建立して御霊を鎮めたいところです。
霊が云々と言ってマズければ、文化的な、社会的な、と言い換えても多分いいです。
人外魔境の話をすると戻ってこれなくなりますので、このへんにしておきます。
さて、霊の影響かどうかはさておき、そうしたコテコテの「ジコセキニン(ロン)」が発言されている場面には大体共通していることがあります。
それは結局「利己的な利益の追求」という話に終始するという点です。
人生において自分の身の上に起きることはすべて自己の「責任」である、と言う。
ではその自己の「責任」とやらにおいて、何を目指そうというのか?
その点に関して、結局のところ、「利己的な利益の最大化」という話に終始しています。
「利己的な利益/不利益」の「責任」の所在を巡って、それは自己である、とか、そうではない、とかいう話が延々と繰り返される。
そこは結局のところ競争と奪い合いの地平なのであり、
そういう土俵に乗っかる限り、どう転んでも殺伐とした話にしかなりようがありません。
「ジコセキニン・ロン」それ自体は、一種の「閉じたロジック」です。
一切を「自己」の行動に帰着させて記述しようとする。論理操作によってそうした方程式を組み上げること自体は常に可能です。
組み上げられた方程式そのものは常に「正しい」。
ただし、その方程式が(言外に)前提している公理が「利己的な利益の最大化/不利益の最小化」なのであり、
これ自体は正誤でも善悪でもなく、ただの恣意的な措定に過ぎません。
「閉じたロジック」に対して何を言っても話は終わりません。
ただ、前提されている公理の中で踊り続けることになるばかりです。
ここではその踊りとは「おまえも私も利己的だ」という踊りです。
だから踊れば踊るほど殺伐とする。
この殺伐空間から距離を置くには、次のことを意識したいと思います。
「利己/利他」という対立軸と、「自力救済/他力救済」という対立軸の2本が直行するグラフを思い浮かべます。
お馴染みの十字図ですね。崩れてたらゴメンナサイ。得意のGIMPは今日はもう面倒なので起動しないこととしました。
他力
I
2 I 1
I
利己 I 利他
-----------+-------------
I
I
3 I 4
I
自力
利益の対象を「自己」とするか「他者」とするかで「利己/利他」という軸を置きます。
それを達成する力を「自分の力」とするか「自分の力の及ばない諸力」とするかで「自力/他力」の軸を置きます。
すると、いわゆる「ジコセキニン・ロン」というものは上記の「3」のエリアの話である、という展望が得られます。
さらに、この地平に乗っかった上での「反対論」も、結局のところ「2」のエリアに落ち込みがちなものとなるということも理解できます。
そして、この「2」こそ、「3」の立場からの「他人をアテにするな」という「打ちごろ」の糾弾ターゲットなのでした。今日もホームランだ。
「すべてを自分の力で切り開くべし」と豪語する「ジコセキニン・ロンジャー」に対し、
「この世には自分の力の及ばない諸力がある」と「反論(反発)」する。
その反発に対し「ロンジャー」は「他人をアテにするな」と言い返す。カキーン。
なぜかと言えば、結局のところ話の会場は上記左半分の利己空間だからです。そして議論は「3」へと吸い寄せられる。
「この世には自分の力の及ばない諸力がある」という言説そのものは完全に「真」です。
ただ、「ロンジャー」とのバトルアリーナに身を置くと、本人の意図によるか否かはさておき、上記左半分での応酬にからめ捕られてしまう。
「世の中を良くする」「社会問題の解決」といったことが語られることもあり、
そうした話は右側のエリアに属するはずですが、それでも「ロンジャー」とのバトルアリーナでは、
「結局おまえがトクしたいだけなんだろ?」という形で左側に回収されてしまい、
それを引き受けた上でのエクスキューズつきの発言以外は許されなくなってくる。まさに魔空間。
「ジコセキニン・ロン」が恣意的な論理操作による閉じたロジックである、という話を先にしました。
恣意的な論理操作は上記の2つの軸それぞれに対して同時に行われています。
「自力/他力」の軸に対しては、一切を「自力」の如何に還元して記述し、
「利己/利他」の軸に対しては、一切を「利己」の目的として取り扱う。
ロジックの生成基盤そのものが、最初っから、「3」なのであり、
その上で行われる話のすべてが、結局のところ、「3」に吸い寄せられるような仕組みになっています。
「ロンジャー」の背景にはドウショウモナイほどの霊的な(社会的な・文化的な)アグレッシブな攻撃衝動があり、
関わる者すべての間に不和を引き起こさずにはおきません。一日も早い神社の建立が待たれます。
その言説そのものは単純明快かつ巧妙であり、その明快さに目をくらまされている限り、不和のサイクルから逃れる術はありません。
距離をおかねばならない。
ところで不和のサイクルって自転車店の名前みたいですね。
そんなお名前のお店があったらごめんなさい。距離おかなくていいですよ! 自転車大好き。
何の話でしたっけ。
さて、上記のような「閉じたロジック」のブラックホールから距離を置いたとして、
では、どこへ向かえばいいのか?
そこが不明であることもまた、「利己主義という迷信」「自力救済という極論」に強力な重力が備わる要因ともいえるでしょう。
明晰さがそこに生じるからです。
「利己/利他」および「自力/他力」という2軸を想定いたしました。
この点に関しては、どちらの軸についても、まず、そもそも、
「自己」と「自己以外」を区分けするところから出発している、という点を念頭に置く必要があります。
その区分けにすべての端緒がある。
さてその上で「利己主義」が一種の迷信であるという点を思い出す必要があります。
なぜなら人生は無意味だからです。
自己意識なるものが存在するのは残念ながら事実ですが、だからといって、その「自己」がその身に利益を集中させることを目的とするものである、
というのは端的に言って錯覚です。
それは一切が無意味であるということの、それでも「自己」が存在しているという事実を特異点とした裏返しに過ぎません。
もちろん、ロジックを操作して「だからそれは結局自分がそうしたいからだ」というふうに方程式を組むことは常に可能です。
が、それは一つの事実をそのような側面で言い換えているだけなのであり、ロジック上の「見かけ」に過ぎません。
その正誤自体を問うても何も出てきません。そうではなく、そのようなロジック操作をせずにいられない衝動をこそ問いの俎上に乗せる必要があります。
ただ、その衝動からはさしあたり距離を置いたのでした。早く神社を!
「自力/他力」の軸についてですが、この2項は対立項のようではありますが、必ずしもそうではありません。
まず「他力」ですが、「この世には自分の力の及ばない諸力がある」というのは、単なる「事実」です。
一方、「自力」の指す「自分の力ですべてがコントロール可能であり、そうすべき」というのは「生き方の方針」です。
「他力」からも「生き方の方針」という意味合いは引き出されます。いわゆる「他人まかせ」というやつです。
その「他人まかせ」かつ「利己的」ということが、「3」の立場からの「手頃なターゲット」だったのでした。
もちろん「自力」についても、事実の一側面を言い表しているという面はあります。決して嘘は言ってない。
ただ、「事実」と、そこから導かれる「生き方の方針」は分けて考える必要がある、ということです。
だから結局、どちらも正しい。ロジックは閉じ、議論は終わらない。対立は激化し、人々の心は荒む一方です。
はい、したがって距離を置く、という話なのでした。モチロン神社もお忘れなく。
> もちろん「自力」についても、事実の一側面を言い表しているという面はあります。決して嘘は言ってない。
とは言いましたが、この点は「他力」のそれと比較すると、限定的な事実と言わざるを得ないところではあります。
なぜなら人間は神ではないからです。
だから結局のところ「この世には自分の力の及ばない諸力がある」という壁にはぶつかる。
その点、「自力」の側は「客観的な事実」にはなりきれない。それよりは「生き方の方針」としての側面が強い。
他人を操ることはできず、自分の意志で操作できるのは自分だけです。
その力の及ぶ範囲に限界があるにせよ、さしあたり「自力を頼る」というのは「力強い」言説ではあります。
それに対し、「他力」の方はと言えば、間違いなく「事実」ではありますが、積極的な生き方の方針にはなりえません。
なにしろ、これを徹底してすべてを「他力」に委ねてしまえば、それを生き方の方針と「する」という「自力」さえ放棄することになるからです。
「ジコセキニン・ロン」が猛々しく放ってやまない「アグレッシブさ」とは逆方向を向いています。
それを踏まえると、これを「私の生き方」とするには、少々「頼りない」というのは認めざるを得ないところではあります。
なんだかんだ言って、結局のところ、生きているのは「私」なのであり、
その点を否定しては「生きている意味がありません」。
この世が「私」の力の及ばない諸力に満ちているということが「事実」であるのと同様、
確かに「私」がここにこうして生きているということもまた、紛れもない事実です。
事実を曲げることはできません。
となれば、前者を事実として認めつつも、それでも確かに生きている「この私」のイカに生きるかという「責任」をも引き受けたいところです。
いわゆる「ジコセキニン・ロン」では、「この世は思い通りにならない諸力に満ちている」という点が「スルー」されます。
それもそのはず、「思い通りにならない」ということを認めつつ、それが「自己の責任である」というのは壮絶に矛盾しています。
この矛盾をいかにして克服するか?
でも別に矛盾はしていないし、眉間に青筋を浮かべて克服に努める必要もないのでした。
なぜなら両方とも端的な事実に過ぎないからです。
この世が「私」の力の及ばない諸力に満ちていて思いどおりにはならず、なおかつ、紛れもなく「私」はここにいる。
いつから、なぜこうなったのか。
それはさておき、何の因果か、宇宙が「私」と「それ以外」に分かれた瞬間から、この世はこのようなものとなった。もちろんダジャレです。
宇宙の始まりが「私」と「それ以外」との分離によるものであることを踏まえれば、
つまり、「私」にとっての「この世」とは、すなわち「他人」である、ということがわかります。
そしてお馴染みのように、人生は無意味なのでした。
ただ、一切がうつろいゆくのが見える。この意識ある限り。
無意味な宇宙に地球が浮かんでいるのが見える。
ならばせめて、目にうつる一切のものが、それぞれなりに、よい状態であって欲しいと思う。
行き着くところはそれだけです。それが「利他」かどうかなんて、もう、どうだっていい。
私の嫌いな人の幸せを願い、私を嫌っている人の幸せを願い、私の好きな人の幸せを願い、あなたの幸せを願う。
なぜなら人生は無意味で、地球は美しいからです。
というわけで今日もあなたが以下略。略すんかい。
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