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◆◆ したこと: ◆◆

        マインドルのCG作成
        
        学園モノと言えば屋上の登ってはイケない場所。
        
        
        
        屋上かどうかはさておき、高い場所に座って見下ろしているように見えますよね? 見えましょう。
        見えると言えば、妙に短いスカートから伸びる逞しいフトモモが気になることと存じます。
        どうせテキスト欄に隠れるので構いませんよね? 
        しかし、だからこそ視線が向かわざるを得ないというもの。
        もはやテキストを読んでいる場合ではない。若者よ、テキストを捨てフトモモを見よう。
        
        なお、スカートの長さはコミPo!学園の校則で固定されているので仕方がありません。
        コミPo!め、おぬしもワルよのう。
        
        
        ちなみに、上記のポーズはこちらのコミPo!出力素材をGIMP上で加工したものです。
        
        
        
        つり輪競技で技をキメているポーズ……ではなく、地面に座って足を伸ばしているポーズです。
        これをGIMP上で服の模様と髪型を描き変えてヒザを曲げております。
        服装については今は別売りのブレザーという小粋なものがあるらしいですが、ここでは自炊をしております。
        だってブレザー発売前から自炊でデザインを決めて作業を進めてしまってたんですもの。もはや自炊で完走するのみ。
        
        そんなことより、さっきからパンツが気になって仕方がありません。

        早くなんとかしてくれないと鼻血が何リットルあっても足りません。
        そう、みなさんご存知の通り、何を隠そうコミPo!学園はパンチラ学園だったのでした。コミPo!め、おぬしもワルよのう。
        でも最終的には屋根の縁に腰かける恰好になるので問題ないハズ。

        ↓

        
        
        うむ。完璧。
        
        ……と見せかけて、依然としてパンがチラしているのをこの私が見逃すと思ったか!
        
        
        
        このままでは青少年のみなさんに悪しき影響を与えてしまう。速やかに対策を実施せよ。
        というわけでGIMPでパンツを削除。
        
        ↓
        
        
        
        うむ。完璧。
        そう。パンチラを防ぐにはノーパンにしてしまえばよい。
        これぞまさに肉を切らせて骨を断つ戦法。
        
        なんか微妙に日本語の使い方が違うような気もしないではありません。
        毒をもって毒を制す、かな? 毒とは何だ毒とは。
        パンツもノーパンも神聖なもの。毒とは違うのだよ毒とは。
        もうノーパンをもってパンチラを制す、でいいじゃん。じゃあ今後はそれで。言葉は時代とともに変化する。
        
        
        さて、ドキドキが止まらなくなって参りましたので、シックな一枚で落ち着きましょう。
        
        
        
        それでもドキドキが止まらないのはなぜ?
        そりゃあアナタ、胸元が妙にハダケちゃってるからですよ先輩! ヒトケのない放課後だからって大胆ですね。
        これもまたコミPo!で出力するとこうなってしまうのですから仕方がありません。コミPo!め、おぬしもワルよのう。
        
        さて、古来より我が国には、ノーパンをもってパンチラを制す、という言葉が伝わっております。
        すなわち、胸元のハダケを制するには全裸にすればヨイということ。明晰なロジックが進むべき道を照らし出す。ドキドキ。
        もはや選択肢は残されていないというのでしょうか? 
        決断を先延ばしにしている間にも時は容赦なく流れ続ける。今日も鼻血が止まらない。
        
        はい、そんな感じで鼻血を流しながら今週もモリモリと作業をして参りました。
        今週は12枚完了。
        このペースが限界なのかな。一日2枚が限界っぽい気はしているところです。
        ただ、居眠り→起きた、みたいな顔が変化するだけのシリーズものの場合は1粒で何度もオイシイ感じなので、
        単純な枚数だけで言えばもうちょっとハイペースでイケるハズ。地球が滅ぶ前に完成させねばならぬ。
        
        自分で元の絵を描いているわけではないので相当に楽ができているハズですが、それでもイロイロと神経を削ります。
        構図を決めるとか、細かい箇所のドット修正とか、昼寝とか。
        結局そうした作業は自分でやらざるを得ないところです。絵が描ける人って本当にすごいですね。
        昼寝はさておき、世間には精緻なCGがあふれており、その一枚一枚に想像を絶する精魂が込められているに違いありません。
        さらにマンガなんて一体どれほどなのでしょう。
        ためしに今ちょっと手元のマンガをパラっと見てみたのですが、見渡す限り絵!絵!絵! 見ているだけで気が遠くなります。
        これを人間が描いているなんて!
        大変な作業だと聞き及んではおりますが、単に絵がうまいというだけでは片付けられない恐るべきエネルギーを感じざるを得ません。
        マンガにしてもCGにしても、当たり前のように世間にあふれておりますが、どこが当たり前なものですか。ものすごいことですよコレは。
        絵を描いてる人って本当にすごいですね。
        
        
        
        他に何かなかったかな。
        思うところはイロイロとございます。
        騒音問題のことととか。
        寒いダジャレのこととか。
        怪しい法案がロクに審議も報道もされないまま次々と可決されてしまっていることとか。
        
        うーん。
        
        思うところは本当にイロイロあって……
        それを全部、方程式の左辺に並べて、足し合わせて、右辺に解を書き出すと、
        
        {思うところ}イロイロ=うーん。
        
        になってしまいます。
        一体結局、この世は何なのでしょう? もちろんダジャレ……おっと、ダジャレにならないじゃないか!
        もはやダジャレさえもままならない。
        
        
        ちょっと話は変わりますが、
        というかそもそもまだ何も話をしてない気もしますが、
        えーっと、騒音現象。
        救急車とか、防災無線とか、ボイスアラームとか、アレとか、コレとか。
        結局いまだに何一つ「解決」はしていない。
        
        で、それはそれとして、今は直接的に話題にするつもりはないのですけども、
        つまり、そういう各種「騒音」が、今でも毎日、世間を席巻しちゃってるわけですよね。
        各人の思いや考えはさておき、ともかく、今現在、そういう中で、我々は、日々の生活をしている、という事実がある。
        
        私などは意識的に、そういう「音」を、できる限り耳に入れないように心がけて、対策を習慣づけて、生活をしているのですけれども、
        しかし、大多数の人々は、まったく無防備に、そういう「音」に、さらされて、毎日の生活をしていることでしょう。
        来る日も来る日も。24時間。外にいるときのみならず、家の中にいるときも。
        
        そのことが「悪い」という意味で言っているのではありません。
        また、そうした「音」を「気にする/気にしない」という次元の話でもありません。
        ただ、事実として、「音」を無防備に浴び続けている、ということ。
        その「差」の「積み重ね」というものが、まったくないということはない、という気はいたします。
        
        いや、別にですね、そのですね、
        ああした「音」そのものに、何か、サブリミナルな洗脳効果が仕込まれていてどうのこうの、
        みたいな、陰謀論的な妄想を語るつもりは、ほんの少ししかないのですよ?
        そこは誤解しないでいただきたい。
        
        ただ、なんていうのかな。
        
        たとえば、特に救急車音や防災無線なんかが典型的ですが、
        結局、ああいう音って、「まさか "うるさい" だなんて言うワケがないですよね?! よね?! よね?!?!?!」
        という、「甘え(が、まかり通ること)」のようなものを前提にしているようなところがある。
        あるいは、「(画一的な)善良さ」を当然視している、とでも申しましょうか。
        
        救急車がいくら大音量で喚いていようとも、
        「怪我や病気の人のためなのだから我慢してあげる」のが「正しい」ことということになっている。
        防災無線がいくら大音量で鳴り響こうとも、
        「防災のためなのだから我慢する」のが「正しい」ことということになっている。
        
        音が耳に入ってくるたびに、毎回いちいち、そこまで明確に意識するわけではないでしょう。
        ただ、結局的に、そういう「(画一的な)善良さ」の「確認のひととき」になっているという面は否めないはず。
        そして、それを、毎日、毎日、毎日、毎日、毎日、何度も、何度も、何度も、何度も、何度も、繰り返している。無防備に!
        外にいるときも、家の中にいるときも、病めるときも、健やかなるときも、朝となく昼となく夜となく、24時間、無防備に!
        
        そういうことの「積み重ね」というものが、まったくないとは言い切れない気がします。
        
        いや、別に、ああした「音」そのものに何かそういうサブリミナルな洗脳効果が仕込まれているだとか、
        ましてや、意図的に悪意をもってそういう「音」が繰り返されているとまで言うつもりは、ほんの少ぉ〜ししかないのですよ?
        そこは誤解しないでいただきたい。
        
        繰り返しますが、これは、
        ああした「音」を「気にする/気にしない」とか、
        個々の「音」の正当性を認めるとか認めないとか、
        単に物理的な意味で「うるさい/うるさくない」とか、
        そういう次元の話ではありません。
        
        ただ、事実として、ああした「音」が日々、繰り返されていて、我々は、その中に、どっぷりと浸かり切っている。
        私のような一部の人間を除いて大多数の人々は何の対策もせず無防備に「音」に身をさらし続けている。
        昨日も今日も明日も、今までもずっと、これから先もずっと。
        そうした事実の果てしない「積み重ね」がある。
        その「積み重ね」を抱えて、この社会は、営まれている。昨日も、今日も、明日も。
        
        だから何なんだ、という話ではありません。実は何でもないのかもしれません。
        ただ、事実として、そうした「積み重ね」がある、という話です。
        大多数の「個人」に「積み重な」っていることであり、すなわち、社会全体に「積み重な」っている、という話です。
        ただ、事実として。
        
        
        この話は記事を分けて、騒音関連の話として書いた方がいいかな。久々に。
        騒音問題に関しては、今はちょっと、具体的に何かが言える段階ではないかな、という気がしていて、
        思うところはイロイロありますが、イロイロありすぎて、あえて何も書かないようにしておりました。
        
        そろそろ窓の外が明るくなってまいりました。
        今日も一日、世間では各種の人工音が鳴り響きまくるのでしょうね。
        それでいて、「鳴っている」ということは話題にもならず、一日が営まれていくのでしょうね。その「音」を無防備にその身に浴びながら。
        だから何なんだ、という話ではないのですけど、ただ、事実として。
        
        だから何、というようなことは何も言えません。
        さしあたりは「うーん。」としか言えません。
        何も言えない。
        
        あ、1つあった。
        というわけでいつものやつを。
        
        今日もあなたが幸せでありますように〜。