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◆◆ したこと: ◆◆

        マインドルのCG作成
        
        学園モノと言えば、やはり居眠り。
        
        
        

        パチッ。
        
        
        
      
        起きた。
        
        
        
        本文によると、「長い髪が机の上に拡がっている」らしいですが、そんな勝手なことを言われても困るというもの。
        ハリガネでも入ってるかのように見えますが、このぐらいで勘弁してください。
        あと3コマ目、目に涙がたまってるように見えますよね? はーい見えまーす。うむ。
        コンタクトレンズが外れたようには見えませんよね。はーい見えませーん。うむ。
        ていうかメガネですからね。メガネとコンタクトの重ねがけなどありえません。
        ん? ありえないんでしょうか? 裏技発見の予感。納豆の発見にも通じる偶然の産物。人類はこうして進化してきたのです。しみじみ。
        
        2コマ目も実は涙がこぼれてる設定なのですが、あまりに微妙すぎて、
        見えますよね? とは口が裂けてからでなければ言えません。ビリビリ。
        
        前回の経験をいかし、机は上手に並べられたと思います。机並べスキルがアップ。きっと今後の人生で役立つことでしょう。
        ちなみにノートパソコンはコミPo!の素材ですが、スクリーンセーバーにはLinux Mintのロゴを使わせていただいております。
        こういうところで、さりげなく布教をする。いつもお世話になっております。
        なお、コマが動いてもスクリーンセーバーは動きませんが、このぐらいで勘弁してください。
        その他の小道具もコミPo!の素材を適宜GIMPで加工しながら使っております。
        マウスはコードレスのようですね。コードを描き加えなくてもいいというのだから、よい時代になったものです。しみじみ。
        
        
        それにしても居眠りシーンばかりですね。
        ひょっとしてメインキャラ全員に居眠りシーンがあるのではなかろうか、
        と思って設定ファイルを確認してみたら、やはりあるではないですか。
        今、居眠りゲーが静かなブーム。
        
        
        寝てばかりというわけにも参りませんので、運動をしましょう。
        
        
        
        赤い髪の人が殴りかかって、水色の髪の人がヤスヤスとかわした、というふうに見えますよね? うん、見えるよ。よっしゃあ!
        右側の半透明はイメージ的なものであって、別に残像というわけではないのですが、
        大体、伝わりますよね? うん、伝わるよ。よっしゃあ!
        ちょっと凝りすぎたかな。だって右端がスカスカになるから、何か入れたくなるのが人情ってもんじゃないですか。
        
        
        
        赤い髪の人はコミPo!の純正なのでよいとして、水色の髪の人はカスタムメイドです。
        上の画像の中の人と同一人物に見えますよね? うん、見えるよ。よっしゃあ!
        
        
        男ばかりでムサ苦しくなってきましたので、お口なおしです。

        
        
        むちゅー。
        
        
        
        ぽっ。
        
        
        
        わ、わらわの唇が……奪われてしもうたゾイ。
        こんなしゃべり方だったかどうかは忘れましたゾイ。なお、メガネがどうやって鼻に乗ってるのかは誰にもわからないんだゾイ。
        
        
        伝統に従い、男優の顔は映らない仕様です。
        ちなみに、もとの予定では3コマ目だけだったのですが、どうせ作業の過程で途中経過の画像が出てくるので、使うことにしました。
        男優の後頭部凝視ゲーにならずに済んで本当にラッキーですね。
        
        それにしても野放図にイベントCGを公開してしまってますが、いいのでしょうか?
        もったいぶるほどのものではないので深く考えないこととしたんじゃなかったでしたっけ?
        そうでした。
        
        
        
        びっくりするほど前向き。セロトニン放出の音が聴こえてくるようです。シャンシャン!
        
        さて、そんなこんなで今週もビリビリと作業をしてまいりました。
        その成果12枚。なお、上記の口付けシーンは4枚で1枚の換算です。
        4=1 だなんて中学生もびっくりの方程式ですね。間違ったことがまかり通る世の中。まさに世も末です。
        
        それにしても12枚ですか。このままでは弥勒先輩登場ルートですよ。
        早いところ私の人数を増やさねばなりません。
        と言いつつ、すでに140枚中37枚。千里の道を250里ぐらい歩いてしまっているじゃないですか。
        私の人数が増えるのが先か? はたまた千里の道を歩きってしまうのが先か? 手に汗握る展開とはまさにこのこと。ドキドキ。
        
        

        さて、どうしようかな。
        さしあたり満ち足りてはおります。死ぬにはいいタイミングかもしれません。
        が、あなた方を愛しておりますのでまだ死ぬわけにはまいりません。
        
        ちなみに先日のトリップのアフターグロウは終了しているようです。
        同じように天気がいい日があったので比較のために同じ道を通って同じ景色を見てみましたが、
        帰還直後のときのような感動はありませんでした。

        ただ、街路樹の幹の表面が面白かったです。
        なんというか、こう、グランドキャニオンの航空写真みたいで、
        今まで気にも留めませんでしたが、へ〜、木の幹の表面ってこんなんだったのか〜、と、しばらく魅入ってしまいました。
        おまわりさんに呼び止められなかったのは幸いという他ありません。小学生の下校時刻じゃなくてよかった。くわばらくわばら。
        
        
        
        久々にゲームをしました。
        久々と言っても一週間ぶりぐらいですけど。
        できればゲームはしたくないのですよ。なぜかというと、どのゲームもほぼ例外なく
        
        「戦い」
        
        だからです。
        将棋のようなものであれ、アクション系のゲームであれ、RPGであれ、
        何らかの形で
        
        「戦い」
        
        をするというものです。
        たとえ「たかがゲーム」とは言え、できればそのようなことはせずに生きたいものです。
        しかし、手軽な気分転換の手段としては非常に便利なので、結局やってしまっております。
        
        それにしても格闘ゲームの「ガラの悪さ」には辟易します。
        スト2以降、時代を下るにつれ、登場人物が相手を「見下す」「バカにする」「挑発する」という演出が過剰になる傾向がある気がします。
        最近のはどうなっているのか存じ上げませんが、どうなのでしょうね。
        ともかく仕方がないので勝利デモのところは目を逸らして早送りです。
        気分転換のためにしていることなのに、嫌な気分になるような要素に触れたくはありません。
        ていうかそもそも殴り合っちゃってるんですよね。
        人が嫌がるようなことをして、うれしがる。一体どんな変態さんなのでしょう。
        しかし、それならそもそも、やらなきゃいいって話ですよね。その通り。反論の余地がありません。
        ただ、格闘ゲームは各種のゲームの中でも特に短時間で手軽にやれる、という便利さがあってなかなか手放せません。
        他に何か精神的に害がなく手軽に実践できる方法がないかなと模索してはおりますが、今のところ見つからずにおります。
        一番いいのは自殺ですが、手軽とは言い難いのがタマにキズです。

        > たとえ「たかがゲーム」とは言え、できればそのようなことはせずに生きたいものです。
        
        この点に関しては虚構と現実の区別がうんぬんかんぬんという議論があります。
        が、問題はそれ以前です。
        たとえば、現実に人を殴るのはダメだけどバーチャルなら殴っても「いい」ではないか、という指摘は認めるとして、
        そもそも「人を殴りたい」のか? って話です。
        「人を殴る」ことにヨロコビを感じているのか? って話です。
        できれば現実に人を殴りたくて仕方がないけど、それはダメだから我慢してバーチャルで「手を打って」いる、とでもいうのか? って話です。
        
        もちろん人の感性はそれぞれですから、中には人を殴ること自体に喜びを感じる人もいらっしゃるでしょう。これ自体は善悪の問題ではなく。
        しかしそういう感性の持ち主が多数派だとは思えません。
        しかるに、これほどまでに当たり前のように「戦い」が「娯楽」になっている現状は一体何なのか?
        
        「一体そもそも何を望んでいるのか?」
        という点に関して、根本的な勘違いが横たわっているように思えてなりません。
        
        「どうせオマエは人の嫌がるようなことをして喜ぶような悪人なんだろ?」
        という悪魔の声に、いかにしてノーと言うか?
        はい。
        こういうのは「悪魔の声」なのですよ。
        さしあたり「悪魔の手の内」にいるという事実は認めざるを得ないところではあります。
        が、根本のところで軍門に下ってしまっては生きている意味がありません。
        そして今日も肉を食う。
        この矛盾をいかに生き抜くか? 生きているのは誰か? 生きているのは悪魔ではない。私だ。
        
        
        ゲームをやめてアニメを観る。
        しかし結局同じですね。
        ほぼ例外なく、何らかの形で
        
        「戦い」
        
        が描かれております。
        そういうのが「おもしろい」ということになっている。
        それでいて主人公の口からは「戦いのない平和な世界を!」とかなんとかいうセリフが出てくるわけですよ。
        まさにその戦いを「娯楽」として画面に映しておきながら。
        じゃあ、それを観て「おもしろ」がってるのは誰だ、って話です。はい、その通り。
        じゃあ、観なけりゃいいじゃん、って話です。はい。反論の余地がありません。
        
        仕方がないので目を閉じて静かに座る。
        うむ。ピースフル。これぞ涅槃というもの。
        そして外から拡声器のアナウンスが飛び込んでくる。もう我慢ならん!
        
        どうしましょうかね。
        一番いいのは自殺です。
        しかしながら、あなた方を愛しておりますので、さしあたりは地上を去るわけにはまいりません。さて。
        
        
        
        > そういうのが「おもしろい」ということになっている。
        
        「ことになっている」とは言いましたが、かと言って、あながち嘘っぱちというわけではなく、
        事実として認めざるを得ないものがあるとは思います。
        
        戦いはおもしろい。
        
        人と人の戦いに限りません。
        困難な状況との戦い。
        努力を続けて、苦境を切り開き、時には倒れ、また立ち上がり、果てなき彼方を目指して歩き続ける。
        そういう姿にドラマ性を見る。手に汗握り、感動する。
        人と人の戦いであれば、一方は勝利し、一方は敗北する。栄光と挫折。光と影。
        互いに譲れないものをかけて、意志と意志がぶつかり合う。
        そういう姿に生きることの輝きを見る。この世の哀愁を見る。
        人生の意味の充溢がそこにある。
        
        平和はつまらない。
        平和が打ち砕かれることで物語が始まり、戦いが終わることで物語も終わる。
        戦いのない平和は物語の「埒外」であり、戦いこそが物語られるべき充溢する意味なのでした。
        
        「平和と戦い」を「善と悪」と言い換えてもよいでしょう。
        平和は定義により善です。戦いは素朴に言って、それ自体、悪の側の事象と言ってよいでしょう。

        善のイメージは平坦で画一的です。
        どこまでも光に満ち溢れ、穏やかで、安定していて、不変的。

        一方の悪の世界は波乱万丈です。
        闇に閉ざされ全貌は把握できず、疑いと欲望が錯綜し、不安定で、変化に富む。
        権謀術数が渦巻き、争いが絶えず、一瞬の油断が潮目を変える。
        情念に焦がされた愛欲と憎しみが人間ドラマを燃え上がらせる。
        勝つか負けるか生きるか死ぬか。
        まさにスリルとサスペンス。ドキドキがノンストップ。
        
        「平和/戦い」「善/悪」は「あの世/この世」と言い換えることもできそうです。
        光に満ちた善の平坦なイメージは涅槃そのものです。
        穏やかで欠けたところのない満ち足りた世界。
        そしてそんな世界には語るべきものは何もない。まさに無の世界。
        一方の悪の世界は物語るべきものに事欠くことはありません。これが有の世界。すなわちこの世。
        
        この世とは「語られる "有"」の織り成す、戦いと悪の世界なのでした。
        この世がそのような場所であるというより、生きるとはそのようなことであると言うべきなのかもしれません。
        すなわち、その逆が「無」であり「涅槃」であり「死」であるということです。
        無限の安らぎ。まさにピースフル。
        
        すると、生きている人がこの世的な「楽しさ」を追求するとき、
        そこに本質的な次元で分かちがたく悪の性質が組み込まれている、というのは、
        ほぼ同義語と言うべきレベルで避けがたいことなのかもしれません。
        死は善。生は悪。
        
        しかし、そうおっしゃられましてもねぇ。
        弊社ではこれ以上のご対応はいたしかねます。誰だよ弊社って。
        
        
        と、こういうふうに考えてみると、なんだかドウショウモなさそうな話ですが、
        いや別にそんなことないんじゃないの? と、素朴なレベルでは、思わないでもありません。
        平和がつまらなくて争いを好むという傾向は一方であるのだとしても、
        穏やかで平和で仲良しでラブアンドピースで、ウフフ、アハハ、ということだって充分あるのではないですか?
        私がいて、あなたがいて、あの人がいて、その人がいて、みんな大好き。ウフフのフ。
        そういうのが退屈なことだというのではなく、
        むしろ、そういう中にこそ、充溢した意味があるというような、そういう空間だってあるのではないですか?
        あるでしょう。ありえるでしょう。
        ただ、現代の人類の精神構造では難しいような気はします。
        
        ところで、こうして言葉にしてみると、なんだかいかにも
        
        「押し付けがましい」
        
        感じがしないでもありません。
        
        たとえば。
        私の手元にスイッチがあって、それを押すと全人類の精神構造がピキーンと切り替わって、
        たちどころに地球全土がラブアンドピースに包まれるよウフフのフ、というのだとしたら、
        私はそのスイッチを押すでしょうか?
        
        これって何か、例のアレですよね。
        人類の行く末を憂いたマッドサイエンティストが秘密結社を組織して、
        地球規模で人類を改造する極秘の計画を進めていて、見たまえ! 素晴らしいとは思わんかね? アーハハハー! とかなんとか。
        つまり悪役ってことです。
        
        この場合、主人公は多分、素朴な熱血漢で、
        最初は相手側のことを単なる悪の組織だと思って正義のためだと信じて戦うのだけれど、
        敵の姿が明らかになるにつれ、実は誰よりも平和を愛する人物だということがわかって戦う意味を見失って、
        そこへさらに親友だと思っていたキャラが実は件のマッドサイエンティストの腹心の部下で、
        キミならわかるはずだよ、さぁ、僕たちと一緒に新たな世界を創造しよう! とかなんとか誘われて、
        なんやかんやで結局バトルになって、
        なぜ醜い人類の味方などをするんだ! 確かにそうかもしれない。だが俺はそんなみんなを守りたいんだ!
        とかなんとか噛み合わない会話を巨大ロボット的な何かを操縦しながら叫び合っているところへ、
        件のマッドサイエンティストの最終兵器が発動し、親友が巻き添えをくいそうになるところを主人公が身を挺して守って、
        お互いに傷を負いながらも、からくも生き延びて、
        キミの言う守りたいものの意味がわかった気がするよ、とかなんとか、非論理的な会話で仲直りして、
        二人で最終兵器を止めようということで意見が一致して、最終兵器と肉体を一体化させたマッドサイエンティストとのラストバトルに突入。
        このへんで大体23話目ぐらいか。残り3話。さぁ、うまくまとまるんでしょうか? 手に汗握る展開とはまさにこのこと。
        24話は崩壊した世界の中で故郷の街の避難所で怪我人の手当てなんかをしているガールフレンドと再会して、最後の戦いへの決意を新たにして、
        25話で元マッドサイエンティストの最終兵器と死闘を演じて、勝ち目がなさそう、ってところで最終話へ。
        最終話なのでオープニングの歌は省略されてて、勝ち目がなさそうって場面を絶望的っぽいBGMとともに淡々と映しつつスタッフのテロップ。
        その後、満身創痍の主人公が壊れかけの機体の中で諦めかけたところで、24話でガールフレンドからもらったお守りが懐からこぼれ落ちて、
        ここで俺が負けてしまったらみんなが……、というところで故郷の街の避難所に画面が切り替わって
        ガールフレンドおよび故郷のみなさんが避難所での作業を懸命に続けつつ主人公の安否を祈っていて、
        なんか祈りが通じた的ないい具合の画面転換で主人公側の戦場にシーンが移動して、
        最後の気力を振り絞って立ち上がって、うまい具合に最終兵器の弱点を見つけて一発逆転。
        これでマッドサイエンティストの野望は阻止できたぜ!
        というわけで崩れ落ちる秘密基地から脱出。その過程で瓦礫が降ってきて、さぁ大変、というところで例の親友が犠牲になって、
        新しい世界をキミの手で作るんだ、罪を重ねた僕にはその世界で生きる資格はない。キミは生き延びるんだ! とかなんとか。
        この時点でもう26話の後半の残りあと5分ぐらいになってるので別れを惜しんでいる暇はありません。
        空中で大爆発する秘密基地の遠景シーンになって、爆煙の中から小さな点のような脱出ポッドが出てきて、
        故郷の仲間に笑顔で出迎えられて、めでたしめでたし。どうにか枠内に収まって本当によかった。
        さて、次は何を観よっかな〜。
        
        はい。
        
        何の話をしていたか忘れましたが、大体こんな感じかなって気がします。
        戦いが終わったら話も終わってしまう。
        本当は戦いが終わった後こそが重要なはずで、そこからが本番とさえ言えると思うのですが、
        ラスボスとの戦いが最終話までもつれ込んでいる時点で、その部分が描かれているとは期待できません。
        序盤の数話を観て、壮大な設定が出てきて、これ一体どんなオチをつけるのかな? と思って最後まで観てみると、大体このパターンです。
        いつだって肩透かし。
        
        でも、このぐらいでいいんじゃないですか?
        変に思想を語られても鬱陶しいじゃないですか。娯楽なんだからこのぐらいでちょうどいい。
        確かにその通り。尻尾の先までスリルとサスペンスが詰まってました、ってなもんです。たい焼きか。
        はい。すっかり忘れてましたが、アニメは娯楽なのでした。
        
        娯楽だから戦闘に終始する。
        なぜかと言えば、生は悪で死は善だからです。
        
        なんだかやっぱりドウショウモナイ。
        一体なぜこの世はこのようなのでしょう? もちろんダジャレです。
        一体なぜ我々人間は存在するのでしょう? できればダジャレにしたかったのですが思いつきませんでした。
        
        これは多分、ほんの少し悲しいことです。
        なぜかと言えば、あなた方を愛しているからです。
        だからせめて、今日もいつものやつを。
        
        今日もあなたが幸せでありますように。