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◆◆ 思ったこと: ◆◆

       「自殺」を語る言葉。その貧困さについて
       
       
       「死にたい」という言葉を、単に「とても苦しい」という言葉の同義語にしてしまっているのではないか?
       そうであればこそ、周囲から「ただ単に弱音を吐いているだけ」との誹りを招きもするのではないか?
       
       「とても苦しい」の同義語で「死にたい」と言う場合、
       そこで語られているのは「死」そのものではありません。
       その意味で、タイトルの「自殺」にはカギカッコをつけました。
       
       それにしても言葉が足りない。
       
       もちろん、「とても苦しい」という意味で「死にたい」と言っているのであれば、
       きっと「とても苦しい」のでしょうし、その点を無視することはできません。
       「死にたい」というのが実は嘘なのだから、罰ゲームとして放置! あなた、いい趣味してますね。
       
       まず言わなければならないことが1つ。
       「生きていて感じる苦労」と「死を望む」ことは別のことです。
       毎日安楽でも死にたいときは死にたい。
       
       しかし毎日安楽なのに「死にたい」と言うと、多分、多くの人の反発を招く。
       「世の中にはおまえより苦労してる人がたくさんいるのに、安楽なおまえが死にたいとは何事!」とかなんとか。
       
       じゃあ、苦労を理由にして「死にたい」と言えば反発は招かないのかと言えば、別に全然そんなことはない。
       「世の中にはおまえより苦労してる人がたくさんいるのに、その程度で死にたいとは何事!」とかなんとか。
       
       じゃあ「どの程度」だったら死について語ることを許してもらえるのか?
       そこのところは果てしなく不透明ながら、
       ともかく、どうやら希死念慮を語るには、苦労話を盾にする必要があるらしいと見える。
       希死念慮を語りたければ、苦労話をどんどん持って来〜い! というわけです。
       苦労話バトル選手権を勝ち抜いて希死念慮について語る権利を手に入れろ! というわけです。
       
       いずれにせよ、この時点ですでに道を踏み外している。踏み外されている、と言うべきか。
       苦労体験が希死念慮の必要条件であるかのような錯角を植え付けられてしまっている。
       
       いや、道を踏み外してはいないのかもしれない。
       その苦労話は、希死念慮を語るために持ち出した盾なのか? それとも本当に苦労しているから言っているのか?
       その点もまた、希死念慮を巡るお説教スクランブルであやふやになってしまう。
       
       だからやっぱり、言葉が足りない。
       「死」は「死」として語られるべきであり、
       「苦労」は「苦労」として語られるべきであるはず。
       
       もちろん、重なる場合もあるでしょう。
       「こりゃあ死にたくなるのもしょうがないよなぁ」と納得せざるをえないような苦労、というものもあるでしょう。
       しかし何度でも言いますが、苦労と死は別です。
       
       苦労があって希死念慮もある場合もある。
       苦労があって希死念慮がない場合もある。
       苦労がなくて希死念慮がある場合もある。
       苦労がなくて希死念慮がない場合もある。
       
       えーっと、網羅できたかな?
       部分的にコピペしながら書いたので間違ってるところがあるかも。きしねんりょとか変換しても出てこないんだもん。
       目が痛くなるので確認はしてませんが言いたいことはわかってもらえると信じます。
       
       さて。
       ここでお説教大好きっ子さんは
       「苦労の有無」と「希死念慮の有無」を都合よくピックアップして、
       「希死念慮がないこと」を「苦労に耐える精神的強さ」と言い換えるわけです。
       そういう因果関係をでっち上げる。
       でっち上げて、希死念慮を語る人にお説教をする。
       「この弱虫毛虫が! ベロベロバーのピー!」とかなんとか、ここぞとばかりにまくしたてる。牛乳拭いた雑巾を投げつける。
       
       しかし、何度も言っているように、
       「苦労の有無」と「希死念慮の有無」は別のことです。
       この両者に因果関係があるように見えるのは目の錯覚です。
       
       じゃあ、たとえば、こうしましょう。
       「希死念慮の有無」と「スマトラオオコンニャクに花が咲くかどうか」の因果関係を考えてみましょう。
       
       スマトラオオコンニャクに花が咲いて希死念慮がある場合もある。
       スマトラオオコンニャクに花が咲いて希死念慮がない場合もある。
       スマトラオオコンニャクに花が咲かなくて希死念慮がある場合もある。
       スマトラオオコンニャクに花が咲かなくて希死念慮がない場合もある。
       
       つまりスマトラオオコンニャクの花と希死念慮は無関係、ということです。
       しかし、すわ希死念慮と見るや、
       「世の中にはスマトラオオコンニャクに花が咲かなくても生きてる人が大勢いるのにその程度で死にたいなんてブヒーブヒー!」
       と鼻を鳴らして走り回る人物が世の中にたくさんいらっしゃる場合、どうなるでしょう?
       スマトラオオコンニャクの花と希死念慮は無関係、という明白すぎる事実を、いつの間にか見失ってしまうのではないでしょうか?
       え? 見失うわけないって?
       でもあなた、苦労の有無と希死念慮の有無が関係ないって事実を見失ってるじゃないですか。ブヒー。
       
       もちろん、スマトラオオコンニャクの花ゆえに死を選ぶ場合もあるでしょう。そんな生き様があったっていい。
       当人にとっては意味のあることなんです。何一つ恥じることはない。
       と同時に、たとえ死を選ばないとしても、当人のスマトラオオコンニャクの花にかける思いが否定されることはない。
       だって死とか関係ないんだもん。
       
       さて、えーっと、何の話でしたっけ?
       苦労話と死ぬ死ぬ話のオシャレな関係がどうのこうの。
       そうでした。
       
       死ぬ死ぬ話をする前に苦労話ワールドカップで優勝しろ! というのが昔ながらの伝統ですが、
       そんなもので優勝しなくても死ぬ死ぬ話をしていい。
       死ぬ死ぬ話の本質は苦労体験とは関係ない。
       
       じゃあ、死ぬ死ぬ話の本質は何なのか?
       そこで「うーん、言葉が足りないなぁ〜」となる。
       言葉が足りないから、思わず苦労話に頼りたくなってしまうかもしれない。悪しき誘惑。
       しかしそんなことをしていると、いつまでたっても死ぬ死ぬ話の本質に近づくことはできないんだゾ!
       ちなみに、きしねんりょが変換できないので死ぬ死ぬ話と言い換えてます。貴殿の脳内変換に期待します。
       
       言葉が足りない。
       両方の意味で、言葉が足りない。
       死ぬ死ぬ話のための言葉が足りないだけではなく、苦労話をするにしても、多分、言葉が足りてないんです。
       だから「いかに苦労が大きいか」の表現として「死ぬ死ぬ話」を持ち出してもしまうのではないか?
       
       そして、おそらくそこにもまた、お説教野郎の邪悪な影が忍び寄る。
       「いかに苦労が大きいか」をいくら語っても「そんなことで苦労話ワールドカップで優勝できると思ってるのか! 腑抜け野郎!」
       とかなんとか面白いことを言われてしまう。
       そんな面白いこと言われたら、言われた方だってノリにノッて口が滑って死ぬ死ぬ話を口にしてしまうじゃないですか。
       「これでどうだー!」ってなもんです。
       だがそれこそお説教野郎の思うツボだ。
       「ククク。飛んで火に入る夏の虫……喰らえ、"その程度で死ぬ死ぬ話を持ち出すなどブヒブヒ" アタッーク!」
       
       以上は、苦労話が本懐なのに死ぬ死ぬ話になってしまうシナリオです。
       言葉が足りないゆえにそうなるのであり、同時に、お説教野郎の邪念のゆえにそうなる。
       
       それとは逆に、死ぬ死ぬ話が本懐なのに、苦労話バトルになってしまうシナリオもある。
       それもまた言葉が足りないゆえであり、同時に、お説教野郎の邪念のゆえです。
       
       さてどうしましょう?
       お説教野郎はどこにでもいらっしゃるから、もう、放っておこう。相手にしてはいけない。
       ちなみに、言葉が足りないからお説教野郎が群がって来るんだゾ! と思わず言いかけたのですが、言うのをやめました。
       なぜなら、いくら言葉を尽くしても、お説教野郎は群がって来るであろうから。だってあいつら、耳がないんだもん。
       
       というわけで、問題はやはり言葉が足りない件です。話を進めるために。お説教野郎云々はもうどうでもいい。
       
       言葉、と言いました。
       自分が感じていること、思っていること、考えていること。
       それを言語化する。
       つまり、自覚する、ということです。
       
       何を自覚するか?
       まずは自分の本懐が何であるのかを自覚しなければ話にならない。
       特に苦労話と死ぬ死ぬ話がごっちゃになっている場合はそうです。
       場合は、というか、今、大抵、ごっちゃになってますよね? 
       自分の本懐は死ぬ死ぬ話であるのか? それとも苦労話であるのか?
       そこのところを冷静に判断する必要がある。
       
       その上で、苦労話が本懐なら、苦労話として話を進めればいい。
       死ぬ死ぬ話が本懐なら、死ぬ死ぬ話として話を進めればいい。
       
       あと、お説教野郎の邪念に惑わされないことも大切ですね。
       「言語化」と言いましたが、お説教野郎に聞かせてやるための言葉なんてビタ1単語も必要ない。
       そもそも、他人に聞かせる必要がない。
       言葉は他人に聞かせるためだけにあるわけではない。
       自分で自分の考えを整理して自覚するためのものでもある。
       
       たとえば、あなたが「自殺志願者」であるとする。
       ではさて、あなたの本懐は何だろう?
       
       死ぬ死ぬ話が本懐かもしれない。そうじゃないかもしれない。
       もしもあなたの話の中に苦労話が含まれているなら、苦労話こそが本懐なのかもしれない。そうじゃないのかもしれない。
       
       苦労話が本懐なら、苦労話として話が前進して欲しいと思います。
       死ぬ死ぬ話が本懐なら、死ぬ死ぬ話として話が前進して欲しいと思います。
       

       
       私は「自殺志願者」に死ぬことを思いとどまらせようなどとは全く思いません。
       自殺が悪いことだとは思っていません。
       死を希望する人がもっと自由に死ねる世の中になって欲しいと思っています。
       
       とは言うものの、本当は死が本懐ではない人が、言葉不足ゆえに「自分は死を望んでいる」と思い違いをして、
       そのゆえに何かの間違いで死んでしまうのは、あんまりいいことだとは思いません。
       ん? それはそれでいいのかな? だって地球から人間が減るんだもん。いいことじゃん。
       いやいや、ダメですって。本人の意志を尊重せよ。騙し討ちいけないアルよ。
       
       もしもあなたが「自殺を考えている」のだとして……
       私からあなたに何かを言う機会があるのだとしたら……
       私はあなたに自殺をするなとは言いません。自殺が悪いことだとも言いません。
       だって自殺が悪いなんて思ってませんからね。自殺上等!
       
       私はあなたに、言葉を持って欲しい、と言うでしょう。
       
       あなたの言う「死にたい」とはどういうことなのか?
       それをあなた自身の言葉で語って欲しい。
       あなた自身の心を掘り下げて、それを語る言葉を探って欲しい。
       人に聞かせる必要はない。あなたがあなた自身に聞かせる言葉です。