理由のある自殺はそれほど深刻ではない
なぜかと言うと、理由がなくなれば自殺しなくていいということだからです。
あ、その前に一つ言い忘れていました。
タイトルの中に「深刻」という単語を入れてしまいましたが、
自殺そのものは深刻でもなんでもないですよね。至って日常的な普通のことだと思います。
わざわざ深刻がるようなことではない。
自殺だから深刻だ、というのは一種の錯覚です。
なぜかと言うと、自殺を考えるキッカケというのは、往々にして(世間的な意味で)深刻なものだからです。
自殺が深刻なのではなく、理由の側が「深刻」なんです。
たとえば酷い虐待を受けているとか、社会的に立ち直れないような状態に陥ってしまったとか、
そうした状況を称して「深刻」という単語を私は上で使いました。使ってしまいました。
だからそれを、自殺を考えるほどである「から」深刻であるとか、
あるいは、自殺とはすべからく深刻なものであるから、それを考慮せしめているその理由たるや言うに及ばず、であるとか、
そうした意味で「深刻」という単語を使ったつもりは、ない、のですけれども、
仮にそういう意味で「深刻」というならば、自殺を語る際に陥りがちな、言葉の用法上の誤りと言えるでしょう。
正確を期すためにもう一度言っておきます。
理由のある自殺(志願)の場合は、自殺(志願)が深刻なのではなく、理由の方こそが深刻というべきです。
ちなみに括弧書きで志願と書いたのはなぜかというと、本当に自殺を実行してしまった場合には、
本当は死ぬことは本望ではなかったはずだという意味で、やはり深刻だからです。
「あんなこと(理由のこと)がなければ死ななくて済んだだろうに……」と、後に残った人が言う。
なるほど。深刻だ。
以下、「自殺」という単語をどちらかと言えば「自殺志願」の意味で使います。適宜読み替えてください。
さて、最初の話に戻ります。
理由があって自殺したいということなのであれば、その理由がなければ自殺したくはならない、ということです。
したがって、それはどこまでも「理由」の側の問題です。
その場合の「自殺云々」というのは、理由の深刻さの結果として、生じるかもしれないこと、です。
または、その「理由」の深刻さを表す「しるし」の一つに過ぎません。
「自殺とか言ってるんだから、きっと深刻に違いないぞ」とかなんとか。
つまり自殺そのものが深刻なのではない、ということです。
深刻なのは、あくまでも、その「理由」の側です。間違えてはいけない。
たとえば「いじめが酷くて死にたい」ということであれば、
いじめが解決すれば死にたいとは思わないということです。
問題は「いじめ」なのであって、「死にたい」ということではない。
だから、繰り返しになるのですが、
理由があって「もう自殺するしかない!」という状態になっていて、「さぁ大変だ!」というのであれば、
そのことの何が「さぁ大変」なのかといえば、取りも直さず、その元々の「理由」が「大変」なのです。
「自殺」というのは、そこでは、問題の本質ではない。
だからそこで「自殺だなんてとんでもない!」などと「お説教」してしまうと、
そもそもの理由の側を置き去りにしてしまうことになる。
自殺志願者と自殺を止めようとする自称善人の間では往々にして話が噛み合わないものです。
それは、もしかすると、問題の本質をお互いに取り違えているせいかもしれません。お互いに、です。
自殺を止めるのが大好きな自称善人は、「すわ自殺か!」と張り切って、
「自殺はイカン! 自殺はイカンぞ!」と眉間にシワを寄せて得意気にお説教をするわけですが、
遺憾ながら、そのお説教は的を外しているのです。イカンだけに。
なぜなら、そこでは自殺が問題なのではなく、自殺を志願させるに至った理由の方こそが問題だからです。
たとえば虐待であるとか、社会的な生活基盤が崩れたことであるとか、そうした「理由」の側を無視して
「自殺」の方だけをターゲットにして「イカンぞイカンぞ!」と呪文を繰り返しても遺憾なだけです。イカンだけに。
もちろん話の流れ上、善人氏も「理由」の方に言及しないわけではないでしょうけれど、
「そんなことで自殺なんてイカン!」と言うばかりで、結局は「理由」の方を軽視した発言をしがちではないでしょうか?
つまり善人氏は「自殺」という単語に反応して磁石のように引き寄せられてきたのであって、「理由」には興味がない。
これが例えば「いじめ」や「多重債務」などと具体的な理由にフォーカスした相談事ということであれば、
イカンおじさんが無意味に入り込んでくる余地はかなり減るはず。
しかしイカンおじさんの手にかかると、まるで「自殺」そのものが主たる問題であるかのような見た目になってしまう。
あるいはその「お悩み」を吐露しいる本人も自分が口にしている「死にたいてんてんてん」というセリフの魔力に振り回されて、
自分のお悩みの本質を見失ってしまっているかもしれない。
そして繰り返される「死にたいてんてんてん」に、夜の街灯に集まってくる蛾のようにイカンおじさんが群がってしまう。
こう言うと傷口に塩を塗るようで心苦しいのですが、
「志願者」の方も、苦しみを訴える方法が適切とは言えなかったのかもしれません。
本当は自殺が問題なのではなく、そう思うにいたった理由の方こそが問題であるのに、
「自殺」ということを「ウッカリと」強調してしまったのではないか?
そして、もしかすると自分自身も、問題の本質を見誤っていたのではないか?
あくまでも理由の側が問題なのであって、自殺そのものが本懐というわけではなかったのではないか?
「志願者」も「善人」も互いに「自殺」という単語に踊らされて、
もともとの「理由」を見失っているのかもしれない。
などと他人事のように涼しげに観察してしまいましたが、
当事者にとってはそれどころではないですよね。
「善人」の方は実際に他人事ですから、飽きたらいつでもお帰りいただいて結構ですが、
そうしている間にも「志願者」の方はどんどん傷を深めていく。
もともとの「理由」だけで、たとえウッカリであるにせよ自殺を考えてしまうほど深刻だったのに、
それを自称善人な常識おじさんに引っ掻き回されて余計な傷を増やされてしまった。
挙句に本当に自殺してしまっては目も当てられません。
だからこれは悲劇なんです。
一刻を争う、のっぴきならない悲劇なんです。
タイトルでは敢えて挑発的に「深刻じゃない」なんて書いてしまいましたが、
理由があるということは、やはり、その理由で苦しんでいるということに他なりません。
それなのに、その理由を解決するという建設的な方向へは向かうことができず、
「自殺」という隘路に陥って遭難してしまっているのです。
そこへさらにイカンおじさんの魔の手も迫ってくる。大変に危機的な状況です。
ではなぜ「自殺」という隘路に陥ってしまうかと言えば、
そもそもの「理由」が、それほどまでに深刻であるということでしょう。
正面から向き合うことができないぐらい深刻であるということでしょう。
その結果、「もうイヤだ。疲れた。死にたい」などのような言葉が出てくることになるのではないか?
だから、また繰り返しになるのですが、これは理由の深刻さを語っているに過ぎないはずです。
死について語っているのではなく。
たとえば理由が「いじめ」であるならば、「いじめですごーーーーく困っている!」というのが問題の実相なのであって、
自殺云々というのはその結果として思い浮かんでいること(の1つ)に過ぎない。
だからこれは、とどのつまり、例えば「いじめ問題」なのであって「自殺問題」ではない。そこを間違えてはいけない。
以上のようなことを思ったのはなぜかと言うと、
とある「自殺願望について語り合う」という主旨を標榜する掲示板を見たからです。
自殺についての掲示板だということで、私自身も一応は希死念慮オーナーの端くれですので、
勉強させてもらおうと思って目を通してみたのですが、死そのものについての話が全然出てこない。
たとえば、「死ぬとどうなるのか?」とか
「生きているとはどういうことか?」とか「命とは何か?」とか、
「意識とは?」とか「存在とは?」とか「無とは?」とか、「自己とは?」とか「他者とは?」などなど、
そういった、死にまつわる形而上学的な話が全くと言っていいほど出てこない。
ここに書き込みをしている人たちの関心は「死」そのものではないということでしょう。
そして、掲示板の利用上の注意事項の中に決定的な文言がありました。
(引用)-------------------------------------------------------------------------------------------
「死にたい」って事を大っぴらに言ってもいい掲示板。でも理由を隠したり、理由がない自殺願望者は歓迎しません。
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> 理由がない自殺願望者は歓迎しません。
揚げ足を取るようで心苦しいですが、
ここでいう「自殺」というのは、そもそも、「理由」のあるものを指しているのでした。
私に言わせるとそれは自殺願望ではない。
自殺願望と言うよりは、個々の困難な「理由」があり、それらが非常に深刻、ということです。
死そのものを希求する想念とは根本的に違います。
念のために申し添えて置きますが、だからと言って、
この掲示板に書き込みをしている人たちが直面している苦悩が軽微なものであるなどと言うつもりは全くありません。
この掲示板に限らず、「理由」があるからと言って、その苦悩を軽視するつもりは全くありません。
ただ、そうした場合、問題の本質はやはりその「理由」の方にこそあるのであって、
「自殺」ということをキーワードにしてしまうと、問題の解決から遠のいてしまうことになるのではないかと心配になるのです。
とは言え、そう簡単に元の問題が解決しないからこそ苦労しているわけで、
せめて自分が否定されない空間として、精神的なダメージを回復することができるといいのかな? そうあってくれればいいなと思います。
> 「自殺」ということをキーワードにしてしまうと、問題の解決から遠のいてしまうことになるのではないかと心配になるのです。
おっと、これはちょっと、おためごかしかもしれないゾ!
私の本音は、そこで「死そのものにまつわる形而上学的な根本問題」が語られていないことが残念だった、ということです。
しかし、これはどこまで行っても私の個人的なお好みの話であって、
件の掲示板がそれを主旨としていないこととは何の関係もない。
ごめんね。てへ。
とは言うものの、「自殺」と「苦労話」が混同されている風潮は面白くないとは思う。
なぜなら、自殺の意味を限定しすぎているからです。それじゃあ面白くない。
自殺は自殺として、苦労話とは関係なく語れるような風潮が到来してもよいのではないかと思うわけです。
それはきっと、とってもエキサイティングな風潮です。血沸き肉踊る風潮です。
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