「簡単に死ぬとか言うな」の「簡単に」とは「何が」簡単なのか?
何か「もう死ぬぅぅぅ」と言いたくなるような心情があるとする。
しかし「死ぬ」という単語を使わなくてもその心情を表現できたりもする、とする。
ならば、むやみに「死ぬ」という単語を使う必要はないのではないか?
「簡単に死ぬとか言うな」というお馴染みのお説教が、
"そういう意味" であるのなら、
それなりに一理あるような気はします。一般論として。
先日、とある「自殺志願者が語り合う」という主旨の掲示板を見ました。
自殺大好きっ子の私としては、かなり期待してたんですよ。
どんなことが語られてるのかな〜ワクワク、って。
が、そこで語られている「お悩み」の大半は、
あれ? これって別に「死ぬ」という単語を使わなくても語れる内容なんじゃない?
と、少なくとも私には思えるものばかりでした。
それぞれの「お悩み」の内容は、それぞれに深刻なものには違いないんです。
そのことは行間から痛いほど伝わってくるんです。
しかしながら、そこで使われている「死にたい」というフレーズは、
「とても困っています」ということの言い換えでしかない。
どれこもこれも「理由がある」んです。
なぜ「死にたい」と言っているのか? という「理由」がある。
たとえばイジメであったり、金銭的なことであったり、その他もろもろの人間関係のトラブルであったり、
ともかく、何らかの理由・事情がある。
そのことで「とても困って」いる。
それを言い表して「死にたい」と言っている。
「自殺志願者が語り合う」とは言うものの、
つまり、「死」そのものについて語っているのではないんです。
個々の理由・事情、について語り合っている。
またはそうした理由・事情のゆえに精神的にとても疲れた、ということを語り合っている。
「死」そのものではない。
「死」そのものと表裏一体であるところの「生」そのものでもない。
直接的に「死」について語っているわけではない。
「死ぬ」とはどういうことか?
「生きる」とはどういうことか?
人間はどうしてこの世に生まれてくるのか?
この世とは一体何なのか?
この宇宙に一体何の意味があるのか?
人間とは何か?
「私」とは何か?
「あなた」とは何か?
意識とは何なのか?
そういった、生き死にに直接的に関わる根本問題について、一切合切、まったく、語られていない。
とても頻繁に「死にたい」という言葉が飛び交っているけれど、
それは単に「トラブルに遭って非常に困っている」ということの言い換えでしかない。
「単に……しかない」などと言っては失礼かもしれません。
それぞれに深刻であることに違いはない。
後ろ向きな気持ちにならざるを得ないぐらい深刻、とは言えるでしょう。追い詰められているのは事実でしょう。
しかしながら、それと「死」ということとは、やっぱり、別次元の話です。
平たく言えば「世間のゴタゴタ」の一部です。「死」の話ではない。
将棋で言えば「もう投了したい……」ということなのであって、
将棋そのものの存在価値を問うているわけではない。人はなぜ将棋をするのか? と問うているわけでもない。
「飛車も角も取られちゃったよ〜、うわ〜ん」と言っているだけです。あくまでも将棋板の内側でしか思考していない。
繰り返しになりますが、
問題解決の難易度が高い、ということには違いないんです。
しかし、それは「死」そのものとは別次元の話です。
あるいはもっと単純に「分野が違う」と言った方がいいかもしれません。
だって、言葉の上では「もう死にたい……」などと言いまくってますけど、
その困ってる理由や事情が解決したら、
「死」のことなんてすっかり忘れちゃうんでしょう? そうでもないですか?
その掲示板では、定期的に「簡単に死ぬとか言うな」系のお説教野郎が降臨していて、
当然ながら、非常に嫌われている。
もちろん掲示板の「利用規約」の中でも、そうしたお説教は慎むように提言されている。
そりゃそうです。わかります。
しかしながら、しかしながら、
言いたくはないのですけれども、あれでは、
「簡単に死ぬとか言うな」などと外野から野次られてしまっても仕方がない気がしないでもありません。
もちろん、私は言いませんけどね。そんな野暮なこと。
あと、留意したいのは「簡単に死ぬとか言うな」的なセリフを、どういう意図で言っているのか? です。
その掲示板にときどき出現しているお説教野郎の書き込みを見る限り、
私が上で書いたような理由で言っているようには見えない。
聞こえのいいお説教の言葉を振りかざしてカッコつけたいだけです。多分。
何にせよ、困っている当事者の問題に向き合っているとは言えない。
的外れなお説教をしてはいけない。
ただ、なぜそういうお説教野郎が出現するかと言えば、
無闇に「死にたい」という単語を使っているから、です。
本当は「死にたい」という単語を使わなくても「すごく困っている」ということを表現できるはず。
そのことが、余計なお説教野郎を呼び寄せる「隙」になっているという点は否めないとは思います。
たとえば金銭的な理由で「死にたい……」と言っているのに、
「死にたい……」というセリフにお説教野郎が群がってきて「簡単に死ぬとか言うなんてケシカラン! ラララのラン!」
とかなんとか騒ぎ出して、肝心の金銭面での問題に向き合う話ができなくなったら困りますよね?
その意味で「うっかり "死にたい" とか言わない方がいいんじゃないですか?」
とは言いたくなるところです。言いませんけど。
そして的外れなお説教と言えば、
私がここで言っていることも彼ら彼女らにとっては的外れでしょう。
その掲示板に書き込みをしている人たちは、別に「死」に興味があるのではない。
私は「死」に興味がある。
私 と 彼ら彼女ら とでは、興味の対象が違う。
だから私が「そんなの "死" の話じゃないじゃん!」などと言うのも、
お説教野郎の「ラララのラン!」と同じぐらい「的外れ」と言わねばならない。
> だって、その困ってる理由や事情が解決したら、
>「死」のことなんてすっかり忘れちゃうんでしょう? そうでもないですか?
もしかすると、逆かもしれない。
本当は「死」そのものに関心があるのだけれど、
それを語る言葉を持っておらず、
そうした個々具体的な「理由・事情」を持ち出す以外に術を知らない、ということなのかもしれない。
生まれ変わり、ということがもしも存在しないならば、ですが、
今この時点で生きている人の数よりも、すでに死んだ人の数の方が圧倒的に多い。
つまり、ほとんどの人は死んでいるんです。
この宇宙は死者であふれている。
その中で、生きている人間はほんの一握りの例外的な存在です。
本当は誰もが死のことを知っているのかもしれない。
しかしそれを語る言葉がない。
何か特殊な理由や事情に託して、ズレた角度ながら、死の側が、死を思い出すように語りかけてきているのかもしれない。
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