「間違いが許されない」のはむしろゲームの世界の方だったりもする
よく、「現実」と「ゲーム(仮想)」を比較して、
現実の方がゲームと違って厳しいノダ! のようなことが言われます。
しかし実際は現実の方が厳しいとは限りません。
現実では、多少のミスがあっても、適当に融通を利かせて目的を達することができる場合がある。
しかし、ゲームであれば、ミスはあくまでもミスとして厳しく数値化が行われる。
例えば外国語でコミュニケーションをする場面を考えてみる。
現実の場面では、多少の言い間違いがあっても通じることが少なくない。
しかしそれをゲーム化するとなると、ほんの少しの言い間違いも全てミスとしてカウントすることになるでしょう。
他のプレイヤーと点数を比較して勝ち負けを判定する、というようなことが行われるでしょう。
こういう場合、現実よりもゲームの方が厳しいと言えます。
現実では間違いが許されるけれど、ゲームでは間違いが許されない。
例えば「テスト」の如きものは現実をゲーム化している典型例と言えます。
作文をする場合、現実ならばいくらでも辞書を使って単語の綴りや用法を確認しながら書けばいい。
しかしゲームだと辞書の使用が禁止だったりする。
現実ならばいくらでも「カンニング」ができる。人に教えてもらってもいい。
それを敢えて禁止するというのはゲーム的な「縛りプレイ」そのものです。
私が思うに、現実は案外やさしい。
そこには人がいて、人が人のために、手を差し伸べることができる。
少なくとも、そのはず、だと思う。
本来そうであるはずのところに、しかし、無意味に「厳しさ」を持ち込み、「ゲーム化」が行われる。
人間が現実をゲーム化して無意味に厳しくしている。
これではいけない。
人間が人間の世界を人間にとって不幸な世界にしてはいけない。
人間は人間の世界を人間にとって幸せな世界にしよう。カンニング上等!
「キサマは能力が足りない! ゆえに減点してやる!」とか言ってる場合じゃない。
能力が足りないと思うなら、手伝ってあげればいいじゃない。
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