TOP > テキスト目次 > 「気のせい」ということを軽んじてはいけない:世の中は阿鼻叫喚の巷



◆◆ 思ったこと: ◆◆

        「気のせい」ということを軽んじてはいけない:世の中は阿鼻叫喚の巷
        
        
        「気のせい」だとか「気の持ちよう」だとか「気分の問題」だとかいう言い方が、
        「その問題の深刻さの度合いが低い」ということの同義語として語られています。
        
        しかし、それは大きな間違いです。
        
        なぜなら人間とはまさにその「気」そのものだからです。
        人生の意味とはすなわち「気」の問題そのものだからです。
        
        だから「気のせい」とか「気の持ちよう」とか「気分の問題」とかいうのは、
        実のところ、生き死にに関わる重大な問題であると考えなければなりません。
        
        たとえば。
        「あの店に行くとなんとなく気分が悪い」という場合。
        
        このとき「気」ということを軽んじているならば、
        「なんとなく気分が悪いけど、でも必要なものを買わなきゃいけないし」
        という理由でその店に通い続けることになるでしょう。
        なぜなら「気」ということを軽んじているからです。
        「大した問題ではない」と思っているということです。
        
        しかしですよ?
        たとえば
        「あの場所には放射能がある」とか「あの場所には地雷が埋まっている」とかだったらどうでしょう?
        その場合、絶対にその場所には近付きませんよね?
        「気分の問題」は軽んじているけれど、肉体的な被害は軽んじていない。
        
        しかし気分の問題は人生の重大事なのでした。
        肉体の被害に負けず劣らず重大事なのでした。
        
        であるならば、「気分の問題」であっても、
        「放射能がある」「地雷が埋まっている」と同じぐらい警戒してしかるべきです。
        
        そういう考え方で日常生活を見直してみる。
        すると、身の回りに危険がたくさん潜んでいることに気付くでしょう。
        そうです。
        我々を取り巻く日常の世の中には危険がたくさん潜んでいるのです。
        それでいて、「それが危険である」という共通認識がない。
        地雷や放射能がまき散らされて放置されているのと何ら変わらない。
        非常に恐ろしい状態です。
        
        こんなことを言うと、誰かが次のように言うことでしょう。
        「そんなこと気にしてたら生きていけないよ」
        
        そうです。その通りです。
        まさに今この世の中は「生きていけない」ような世の中なんです。
        大変なことです。
        
        人の心を傷つけて、それが当たり前とされている。
        傷ついて血を流しても「気のせい」とされてしまう。
        こんな世の中で「生きていける」はずがありません。
        
        目を開けて見てごらんなさい。
        そこらじゅう血みどろです。阿鼻叫喚の地獄絵図です。
        そしてそれを「気のせい」として目を塞いでしまう。
        
        この事実をまずは認めなければならない。
        
        
        ▽ こちらも読んで欲しい:騒音被害者応援テキスト集です
        -----------------------------------------------------------
        騒音問題テキスト保管庫