たとえば保育園の騒音の擁護者:キレイ事と生の現実を都合よく使い分けている
保育園、あるいは幼稚園でもいいし、その他の学校施設でもいいです。
騒音源としての定番です。
この件に関して常々「騒音としての批判」と「擁護する理屈」との魔導大戦が繰り広げられているわけですが、
その内容については、双方とも出すものを出し尽くしていると思うので、ここでは触れません。
少し検索すればいくらでも出てくるでしょう。
なお、今回取り上げるのはそうした騒音の「騒音主」ではなく、騒音を「擁護する人々」の方です。
その点にご留意の上、読み進めてください。
さて、
擁護側の言っていることは基本的に(というか根本的に)キレイ事です。
それに対し、被害者側の言い分はのっぴきならない生の現実です。
日常生活が破壊される。その苦しみ。理屈じゃない。
しかし、おそらくですが、擁護者は自分がキレイ事を言っているとは思っていない。
むしろ自分(たち)こそが「現実」を語っていると思っている。
つまり、学校関連施設というものは社会的に必要なのだ、という「現実」です。
さらに、騒音被害を訴える人々こそが空疎なキレイ事を語っている、と思っていることでしょう。
つまり、「なんでもかんでも "騒音" と言って文句を言うのが趣味なだけなんでしょ?」というやつです。
しかしご存知のように(ご存知じゃないかもしれませんが)騒音被害というのは、まさに「生の現実」そのものです。
今この瞬間、日常生活を破壊されている。理屈じゃないんです。暴力なんです。
そして「騒音」という単語は、
それを呪文のように唱えれば世間が味方についてくれるような「権力を持った言葉」ではありません。
権力のある言葉というのは例えば「セクハラ」や「差別」などです。
あくまで「例えば」ですので、そうではない、という意見もあるでしょうけれど、
つまり、「世間的な承認を得やすい言葉」というものがある、という話です。
そのような「味方を得やすい」言葉が存在する一方、
「騒音」というのは現状では(残念ながら)そのような地位を得ていない。
むしろ逆です。否定の対象です。
「騒音」と言えば世間が味方になるどころか敵になってしまう。「おまえこそ神経質だ!」というやつです。
「なんでもかんでも騒音と言えばいいと思ってるんでしょ?」だなんて、とんでもない。
反発を覚悟でおそるおそる言わなければならない。
したがって「騒音被害を訴える」ということは「キレイ事」ではあり得ない。
「本当に苦しいから」という以外に騒音被害を主張する理由はあり得ない。
キレイ事として言っているのではなく、現実に苦しいから苦しいと言っている。
騒音被害というのは「生の現実」です。観念論ではない。
じゃあ、そのことを伝えれば擁護者は意見を変えてくれるか? 変えてくれない。
意見は変えず、否定の方法を変えるのです。
こうです。
「それは自分勝手だ」「我慢が足りない」
騒音被害というものをキレイ事(一般常識・観念論)の次元で否定し、
生の現実の次元でも否定する。
片方で議論が煮詰まるともう片方に足場を移し、被害者への攻撃を継続する。
とにかく、あの手この手で被害者を攻撃しようとする。
どうやら被害者を攻撃すること自体が目的のようです。
学校関連施設の騒音だけでなく、騒音問題全般で、いつもそういうパターンが見られます。
こういう場合、言葉そのものにとらわれていると、議論が堂々巡りになります。
堂々巡りになると、被害者の心は傷つく一方です。
他方、擁護者の心は1ミリも傷つかない。騒音主自身の心も1ミリも傷つかない。
議論に加わっている双方が対等ならば堂々巡りの結果も対等ということになりますが、
騒音問題の場合、対等じゃないんです。
被害者は今この瞬間苦しい。
今日が苦しい。明日が苦しい。今までの毎日が苦しかった。これからも毎日続く未来が苦しい。見渡す限りの絶望!
擁護者は平気です。涼しい顔で気の向くままにキレイ事を言って被害者を攻撃するだけです。
議論が堂々巡りになるというのは、擁護者にとっては、被害者を好きなだけ叩けるお祭りがいつまでも続くということです。
こうして被害者は、騒音そのもので心が疲弊している上に、擁護者からの二次被害でさらに傷ついていく。
議論の言葉そのものをいくら腑分けしても、このサイクルから脱出することはできません。
このサイクルそのものの構造を見据える必要がある。
このサイクルの中にいる限り、被害者が傷つく一方であることに気付く必要がある。
> 被害者が傷つく一方であることに気付く必要がある。
わかりにくい文章で申し訳ない。
「傷つく」の主語は「被害者が」です。
「気付く必要がある」の主語も「被害者が」です。
願わくば擁護者が気付いてくれるとありがたいのですが、そんなことは文字通り "有り難い" ことです。
なぜかといえば、擁護者はそんなことに「気付く必要がない」からです。
お気楽に気ままに、自分は世間の道理を理解している善人のつもりで、存分に被害者を叩いて気持ちよくなれる。
「気付いて」しまったら、その気持ちいい生活をやめなければならなくなる。そんなのイヤでしょ?
だから擁護者にそのような変化を期待することはできない。
被害者自身が、突破口を模索する必要がある。
さて、ではその突破口はどこにあるのかというと……。
ごめんなさい。
ここで何か特効薬になるような方法をお披露目できるとよいのですが、
私自身、取り立てて効果的な方法を見つけられずにいるところです。
さしあたり、ここで述べたことを念頭に置いておくことで、
二次被害を深める罠に嵌ることだけは(ある程度)避けられる……と、いいな、と願うばかりです。
被害者自身がそれを警戒しておく、という意味で。
騒音被害の真の恐ろしさは周囲に理解されない二次被害にあると言っても過言ではありません。
どうか、被害を受けているあなたの二次被害が少しでもやわらぎますように。
もちろん一次被害も一日も早くなくなりますように。
私は常に騒音被害者の味方です。
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