「○○は騒音か?」という問いの立て方がそもそもおかしい。
たとえば「子供の声は騒音か?」とか、
「某動物の吠え声は騒音か?」とか、
そういう問いの立て方が、そもそもおかしい。
「○○が騒音かどうか?」なんてどうでもいい。
「○○」のために苦しんでいる人がいる限り、どうにかしないといけない。
「騒音かどうか」という観念的な議論をして、
仮に「騒音じゃない」という結論になったとしても、
苦しんでいる人の苦しみが消えてなくなるわけではない。
多分ですけど、そもそも騒音だと思ってて、そのつもりで声を上げている人(被害者)は
「○○は騒音か?」なんてわざわざ問わないんじゃないでしょうか。
なぜなら、被害を受けている側にとっては、騒音であるということは自明のことだからです。
だって被害を受けてるんだもん。定義により、それは騒音だ。
「○○って騒音なんですか?」とか言ってるのは多分ですけど騒音主です。
または騒音問題を揶揄しようとしている第三者です(騒音擁護者)。
こんな形式で問いを立てて、それでどうしようというのか?
何らかの理屈で "○○は騒音ではない" という結論を引き出すことに成功したら、
そのロジックをふりかざして、好き放題に "○○の音" を出しまくろう、という魂胆なのか?
それとも、何らかの理屈で "○○は騒音だ" と誰かが言えば、
反省して、その音を出さないようにするのですか?
そんなつもりないでしょ?
自分が出している音について "騒音だ" と言われたこと自体が悔しくて悔しくて腹が立って腹が立って仕方がないから、
"騒音じゃない! 騒音じゃない!" と言ってるだけでしょ?
"騒音だ" と言われたから "騒音じゃない!" と言い返す。単なる条件反射です。
さて、私が今ここでこういう話をしているのは何のためか?
誰に向けて言っているのか?
"騒音じゃない!" とムキになって認めようとしない人には何を言っても無駄だと思っています。
その "騒音" の被害者の方に言いたい。
"○○は騒音か?" などというインチキな問いに騙されないで欲しい。
こういう問いを相手にすること自体が騒音主の思うツボです。
"騒音だから" ダメだとか、"騒音じゃないから" 我慢しなきゃならないだとか、
そういうロジックが、そもそもおかしいんです。
そしてもちろん、こういう議論を吹っかける側は "騒音じゃない!" という結論を押し通そうとしている。
あわよくば「○○は騒音じゃない」と誰かに言ってもらえれば、
「ほら見たことか。騒音じゃないもんね〜。ゆえに鳴らしまくるぅぅぅぅ。テメーは神経質なキチガイ確定!」となるし、
そうじゃなければ議論そのものを無視するだけです。
その場の議論の行く末はあんまり重要ではない。
「○○を騒音とか言ってるやつはキチガイ」というメッセージが少しでも世間に拡散すれば騒音主にとっては願ったり叶ったりです。
そうやって議論を吹っかけること自体が、騒音主にとって都合のいい結果にしかならない。
その騒音主の直接の被害者だけでなく、
同じく「○○」で苦しんでいる世の中の被害者全員に二次被害を広めてしまう。
いや、まてよ?
こういう議論が起きるからこそ、"騒音問題" としての認知度が高まるということもあるのかな?
そういう面もあるかもしれない。せめて、あって欲しいところです。
痛し痒しですね。
しかし冒頭でも書きましたが、実際に "被害を受けて苦しんでいる" という事実の前では、
その音が "騒音かどうか?" という観念的な議論は単なる空論でしかないと思うのですよ。
議論の結果がどう転んも被害の解決にはならない。
「騒音だ」ということになっても、そうやって口で言ってるだけでは解決にならないし、
「騒音じゃない」 なんてことになったら目も当てられない。
結局こういう議論は、
「この人、勝手に "苦しい苦しい" とか言ってるけど無視してもいいよね? 賛成の人、手ェ挙げて〜」
と言っているに等しい。
> しかし実際に "被害を受けて苦しんでいる" という事実の前では、
そうなんですよ。被害を受けた本人にしかわからないかもしれない。そして被害を受けた本人ならばわかる。
苦しい! 苦しい! 苦しい!
その音を止めてくれ! その音を止めてくれ! 止めてくれ!!!!!!!!!!!!!!!
この苦痛の前では、その音が "騒音かどうか?" などという "ラベル貼り" なんかどうだっていいんです。
"○○は騒音か?" などという議論は、問題のすり替えでしかない。
音を出してるのはそっちだろ?
止めようと思えば止めれるんだろ?
だったら止めてくれよ!
こっちがいくら念じても音は消えないんだよ。
その音を無くせるのはそっちなんだよ。こっちからは手出しできないんだよ。
だから止めてくれ! その音を出さないでくれ!
今この瞬間苦しい。
もちろん その音が "騒音だ" という認知が世間に浸透して、味方をしてくれる人が増えて、犯人も反省して音を出さなくなる、
というならば望ましい限りですが、それはあまりに楽観的かつ気の長すぎるシナリオです。
苦しいのは今この瞬間です。
そして "騒音かどうか?" という口先だけの議論に終始してしまうようでは何の解決にもならない。
火がついているから煙が出ている。
そういう議論が生じているということは、
確実に被害者が存在しているということです。苦しみが存在しているということです。
被害者の傷を広げて二次被害を作るようなことだけはしないで欲しい。
> 火がついているから煙が出ている。
ああ、そうです。そうなんです。
"○○は騒音か?" だなんて議論が生じているということは、
少なくとも "○○" という音は出ている(出している)ってことでしょう?
そもそも "○○" なんてやってないのに、"○○をヤメロ!" などと言われているのであれば、それは言いがかりですが、
でも、あなた、"○○は騒音か?" なんて言ってるじゃないですか。
ということは、少なくとも、身に覚えがあるってことでしょう?
よし。証明終わり。必殺の揚げ足取りが炸裂したぜ、コンチクショー。
私は騒音被害者の味方です!
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