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◆◆ 思ったこと: ◆◆

        騒音へ苦情を言うことは「寛容性のないこと」なのか?
        
        
        私は逆だと思います。
        
        人によって生活の都合も感性も異なるのだから、
        誰かにとって騒音ではない音も、誰かにとっては苦しみをもたらす騒音になりえる。
        
        音というのは広範囲に無差別に広がるものです。
        音を鳴らせば、音の届く範囲にいる全員に「強制的」に聴かせることになる。
        人の都合はお構いなし。
        音は暴力です。
        
        そういう性質のものについて「文句を言うな」というのは、
        それこそ「寛容性のないこと」です。
        
        音が広い範囲に届くほど、その範囲にはたくさんの人がいます。
        たくさんの人に、強制的に、音を聴かせることになる。
        その全員が一人残らずその音を受け入れることを期待する。それが "当たり前" だと決めつける。
        それが「寛容性のあること」ですか?
        
        どうせ誰も文句を言わないだろう、と当て込んで、広範囲に音を鳴り響かせる。
        もしも誰かが文句を言ってきたら、そいつのことを「寛容性のないクレーマー」とでも言って叩けばいい。
        味方になる人の方が多いだろう。多数決で押し通せば勝てる。
        そんな考え方が「寛容性のあること」ですか?
        
        人それぞれの違いを認めない。それが「音」の暴力性です。それは非寛容なことです。
        音を出すことこそが非寛容的です。
        静かにすることこそが寛容的です。
        
        
        実際、「苦情」の内容に耳を傾けてみれば、わかるはずです。
        ほとんどの騒音被害者は「音を出す理由」そのものを否定しているわけではない。
        
        例えば防災無線なら「防災」という目的そのものを否定しているわけではない。
        移動販売業者なら「販売業」という目的そのものを否定しているわけではない。
        ボイスアラームなら「安全」という目的そのものを否定しているわけではない。

        ただ、「音を出されると私は困る」「音を出さない方法もあるんじゃないですか?」と言っている。
        お互いの共存を前提としている。
        相手の存在を認めている。寛容的です。
        
        しかし音を出す側はそうした話には一切耳を傾けない。
        とにかく音を出すことをやめようとせず「ご理解せよ!」の一点張り。
        相手の存在を認めようとしない。非寛容的です。
        
        
        
        
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