騒音問題のために何ができるか?
騒音に反対する主旨のことを今日までここにいくつも書いてきました。
書くだけでなく、実際に声を上げることもそれなりにしてきました。
もちろんこれからもそうした活動を続けていくつもりです。
私は一人ではありません。
世の中には私と同じように、あるいは私以上に、
騒音の問題について提言をし、実際に行動を起こしている先達の方々が少なからずいらっしゃいます。
では、そうした活動が功を奏して世の中が静かになっているかというと、
残念ながら、静かになっていません。
それどころか、時を経るごとにますます騒がしくなっています。
そもそも「騒音主」というものは、
人から何かを言われたぐらいで音を出すのをやめる生き物ではありません。
どんなに精緻で反論の余地のないロジックで「音を出してはいけない理由」を聞いても
「わかりました。音を出すのをやめます」とは決して言わない。絶対に言わない。
だから、こういう状況も無理からぬところと言えなくもありません。
決してこの状況を肯定するわけではありませんが、静かになる目処は一向に見えてこない。
ではさて、そういう中で、それでも騒音に反対し続けることにどのような意味があるか?
現状を見る限り、何を言っても意味がないかのようです。何をしても意味がないかのようです。
その「意味がある」ということを「音を出すのをやめさせることに成功する」という意味で言うならば、
間違いなくそういうことになります。何をしても意味がない。あらゆる努力は徒労に終わる。
実際、何度となく「苦情を言う」ということを実践している私の体験から言うと、
「思い切って言ってみる」ことで、かえって絶望してしまうことの方が多い。
何も言わずに不満を溜め込んでいるよりはダメ元で言ってみる。
しかし、言ってもやっぱりダメだった。
言わずにいる間は、「思い切って言ってみれば案外わかってもらえるかも?」という希望もある。
しかし言ってもダメだったとなると、もはや、すがる希望もない。
いっそ黙ったまま腹の内で不満をためこんだままの方が精神的にマシだったんじゃないかとさえ思うことがあります。
こうしてネットに文章を載せることも同じです。
何を書いても、それを "騒音主が読んで" "反省して" "騒音行動を改める"、などということは万に一つも期待できません。
天地がひっくりかえってもそんなことはありえない。
じゃあ、やっぱり、何をしても無意味なのか?
一つの考え方としては、こうです。
「だからと言って、声を上げることをやめてしまったら変わるものも変わらない」
たしかにその通り。
私もそう思って、何もしないよりはマシと思って、今まで行動してきました。
しかし正直なところ、その理由で行動を続けることには限界を感じています。
「かすかで不確かな希望」よりも「実際に受けるダメージ」の方が大きいのです。
だから、行動を続けるのはしんどい。
この点、私だけではなく、世の中に少なからずいる私の「同志」も同じではないかと推察します。
何を言っても徒労に終わるので、次第に抵抗する気力をなくしてしまう。
しかしです。しかしですよ。
こうして声を上げることには、もっと別の、確実な意味があるではありませんか。
それは何か?
騒音被害者の味方でいること
です。
実際に「騒音主を静かにさせることができるかどうか」だけで言えば、負け戦の連続です。
どんなに頑張っても勝てる見込みは限りなく小さい。
しかし「騒音被害者の味方でいる」という点では楽勝です。
こうしてネットに一言でも二言でも載せるだけで、
それだけで確実に「自分は騒音被害者の味方だ」ということになる。
勝ちしか存在しない戦です。素晴らしい!
思い出して欲しいのですが、
騒音被害の深刻な点は「周囲に理解されずに孤立してしまう」というところにあります。
どうしても少数派・弱い立場になりがちです。
騒音そのもので精神的に疲弊しているところへ、さらに周囲からの無理解で追い討ちをかけられる。
二次被害です。
騒音問題とは、まさにこうした二次被害に特徴・深刻さがある。
だから、「被害者の味方でいる」ことは重要なことです。
「同じように思っているのは私一人じゃない」ということを知るのはとても心強いことじゃないですか?
私は今まで何度となく、ネット上の「同志」の書き込みや、騒音に問題提起をする書籍などに精神的に救われました。
騒音主を静かにさせるという実質的な役に立つかどうかと言えば、残念ながら、多分、立たない。
少なくとも現状では無力です。
世の中の風潮が騒音を擁護する方向に大きく傾いている現状では、どうしたって無力になってしまう。
無力な中で、それでも発言や活動の矢印を「騒音主(及びその擁護者)」に向ける。
何を言っても何をしても、押し返されてしまう。差し引きマイナスの結果が待ち受けている。
しかし、矢印の向きを変えれば景色が違ってくる。
被害者の味方として、被害者にエールを送る目的で活動・発言する。これならば話は180度別です。
お互いにうれしい気分になることができる。根本的にプラスの結果が待ち受けている。
被害を受けて「どうせ悪いのは私だから……」と萎縮した誰かの心を勇気づけることができる。
長期的戦略的に言うならば、
そのようにして被害者たちが精神的にパワーアップして、横のつながりを広げていくことで、
騒音主義者が優勢である現状の潮目を変えていけるかもしれない……
ということになるでしょうか。
しかし、そんな打算的なことを考えなくてもいいんですよ。
苦しいときに味方がいるとわかれば、心強いですよね? それだけで、もう意味がある。
被害を受けて傷ついてるときって、苦しいじゃないですか。
しかも騒音の被害ってなかなか人に理解してもらえません。
「むしろおまえが悪い」みたいなことを周りからさんざん言われる。
もちろん音そのものはずーっと鳴り続けている。
苦痛な音を聴かされながら、しかも、迫害を受ける。
もう本当にうんざりですよね。
そういう耐えがたい苦しみの渦中にあるとき、
自分と同じようなこと考えている人が世の中にいるということがわかるだけで、精神的にかなり楽になるはずです。
それでいい。
いや、よくはないんですけど、
「実際に騒音主に音を止めさせること」を目的にしてしまうと、徒労感の積み重ねになってしまう。
しかし、被害者の味方を表明する、ということであれば、話は実に簡単です。
何か騒音に反対する主旨のことを書いてネットに載せたとして、
それを万が一にも「騒音主側」の人が目にしても、鼻先でせせら笑うだけでしょうけれど、
被害を受けて苦しんでいる人の目にとまれば、心に響く可能性が高い。
実際に「静かにさせる」役には立たなくても、無意味ではない。それどころか大いに意味がある。
もちろん騒音主はケシカランですし、そんな騒音主を擁護する連中もケシカランです。
その考えを曲げる必要は一つもないし、曲げてはいけない。騒音許すまじ! 騒音擁護許すまじ! ぷんぷん!
ただ、そういうケシカラン彼ら彼女らのケシカラン行動を変えさせることに成功したか否か、を、
活動の主たる成果判断の基準とする必要はない。
私は騒音に反対している。
騒音に苦しんでいる人たちがいる。
その人たちの味方であり続ける。
騒音に苦しめられているそこのあなた!
あなたの苦しみは正当なものです。あなたは間違ってません。
あなたの周囲の人はあなたを責めるかもしれませんが、私は責めません。
いいですか? 私はあなたを責めません。
私はあなたの味方です。
私は常に騒音被害者の味方です!
あなたが静穏な生活を望むのは当然のことだと思っています。
これからも私は騒音被害者の味方として、騒音被害者のために発言・行動していきます。
あなたもぜひぜひ、あなたと同じように被害を受けている人たちの味方として、
ネット上に愚痴なりなんなり書き込んでみませんか?
騒音主(&擁護者連中)への批判は「どうせ通じない」から、そこはもう、気楽に構えてですね、
同じように苦しんでいるであろうどこかの誰か、に向けてメッセージを送る。
では、もう一度言っておこうかな。
私は常に騒音被害者の味方です!
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