スピーカー騒音は「大きい小さい」だけの問題ではなく……
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// 話は意外と通じたりもする
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たとえば、
「店内放送が大きすぎませんか?」
と店の人に言えば、意外と話が通じたりもする。
アンケートを設置している店では、
「店内放送を控え目にしてくれませんか?」と投書すると
「ボリュームを大きくしすぎないように気をつけます」と回答してもらえたりもする。
それで次回その店に行くと、体感できるぐらい音が小さくなっていたりもする。
だけど相変わらず陳腐なJ-POPが流れていて、
「キミを愛してる〜」だの「夢を諦めないで〜」だのと頭の上から聞かされてしまう状況は変わらない。
ああ、うっとうしい!
いや、実際「大きすぎませんか」と言って、
その通りに「小さく」なったのだから注文通りなのですけど、
そうじゃないんだよな〜、と悶絶してしまうのです。
では、どう言えばよかったのか?
店内のBGMに限らず、スピーカー騒音の「うるささ」は「ボリュームの大小」だけの問題ではありません。
人為的な音声で何らかの意味ある(or意味ない)メッセージが語られている。
それを強制的に聞かされることが「うるさい」のです。
そこのところが世間的に認知されていない。
そもそも日本語として、そのことを端的に言い表す言葉が存在しない。
念のために言っておきますが「嫌ならその店に行かなければいい」という問題ではありませんよ?
なぜならどの店も状況は大差ないからです。
それとも無人島で自給自足するしかないのかな? ナイスアイディアですね。
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// 音が大きいから騒音なのではなく、強制的に聴かされるから騒音
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もちろんボリュームの大小も無視できない要因ではあります。
大きいよりは小さい方が被害を防ぎやすい。
しかし、音が小さければ騒音じゃないのかといえば、そういうことにはならない。
音が大きければ、騒音に「なりやすい」。音が小さければ騒音に「なりにくい」。とは言えるでしょう。
音が小さければ、その場を離れるとか、耳栓をするとか、なんらかの手段で、自分の意志で防ぐことができる可能性が高い。
音が大きければ、いかなる手段を講じても、自分の意志では防げない可能性が高い。
その意味で、音が大きいことは深刻なことです。しかし、音が小さい「ならばよい」、ということには断じてならない。
たとえ小さな音でも、耳元で延々とささやき続けられれば不愉快でありましょう。
音の大小は騒音に「なりやすさ」の度合いなのであって、音の大小そのものが「騒音であるか否か」ではない。
従って、たとえばデシベルを計測して、いくつ以上は騒音だが、いくつ以下は騒音ではない、などというのは典型的な勘違いです。
特に、その音が「言葉」である場合、一度耳に届いてしまえば、音の大きさは無関係です。
なぜなら、音として大きかろうが小さかろうが、言葉の「意味」は同じだからです。
大きい声で「忘れ物にご注意せよ」と言うのも、小さい声で「忘れ物にご注意せよ」というのも意味としては同じであり、
そうしたメッセージを「強制的に聴かされる」という精神的な苦痛そのものは同じです。
たとえて言うなら、スパム電子メールのようなものです。
大きい文字で表示されればスパムだが、小さい文字で表示されるならスパムではない、ということにはなりませんね?
(ちなみに言えば、電子メールならば視界に入れない手段はいくらでもありますが、音はそう簡単には防ぐことができません)
音の大きさというのは、防ぎやすさの度合い、すなわち、騒音に「なりやすさ」の度合いではあっても、
一度騒音になってしまった後の、騒音被害としての被害自体の度合いとは異なる次元の要素です。
つまり、音を防ぐことができず自分の意志に反して強制的に音を聴かされてしまうことが「騒音」なのです。
物理的な音量の大小とは別次元の問題です。
また、音が大きければ大きいほど、無関係の相手を巻き込んで聴かせてしまうリスクも高まります。
典型的なのは「左へ曲がります」です。
トラックのすぐ横にいる通行人にだけ聴こえればいいはずのものが近隣家屋の屋内にいる人にまで聴こえてしまう。
それが「騒音」になる。
この場合、大きい音だから「騒音」というより、
音が大きいゆえに不要なほど広範囲に届いてしまうことが「騒音」というべきでしょう。
しかし、こんなふうに特別に例をあげるまでもないはずです。
たとえば、周囲に人がいる場所で、大声で立ち話をすれば「うるさい」と思われる。
小難しい理屈を展開するまでもなく、日常的な感覚として理解できることであるはずです。
しかしこうした場合でも、「声の大きさ」=「うるさい」という図式が前景に出ていて、
その内実であるはずの「聴く必要のない立ち話を強制的に聴かされていること=うるさい」という視点は見落とされているのではないか?
「音の大きさ」そのものは「騒音」の本質ではない。
このことは何度でも強調して言っておく必要があります。
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// 極端に音が大きい場合は別
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「音の大きさ」そのものは「騒音」の本質ではない、とは言っても、極端に音が大きい場合は別です。
極端に音が大きい場合、音の大きさそのものが肉体的・精神的なダメージになる。
参考:
http://www.30hikikomori.com/
こうしたケースの被害者に向かって、
「音が大きいことは騒音の本質ではない」などと言ってはいけない。
また逆に、こうしたケースを引き合いに出し、
その他の「比較的に音が大きくはない騒音」の場合は取るに足らない、などと言ってしまってもいけない。
再びスパム電子メールのたとえで言うと、
文字が極端に大きくて、受信しただけで画面いっぱいにタイトルの文字が広がって何も見えなくなる、
という場合は、文字のサイズこそが切迫した問題と言えるでしょう。
かと言って、文字が大きくないスパムはスパムではない、ということにはならない。
「音の大きさ」そのものは「騒音」の本質ではありませんが、
「音が大きくてもいい」などと言っているのでは断じてありません。
「じゃあ音が小さければいいのか?」と言えば、そういう問題ではない、と言っているのです。
また、上記リンクのようなケースであっても、やはり、当該の音を「強制的に」聴かされてしまう経験というものがあり、
それがまさに「被害」となっている。
音が大きいことが被害を被害として決定づける要因の一つであったことは否定できないにしても、
単なる物理的な音の大きさ以上の「暴力性」が問題を深刻にしている。そのように言って間違いないはずです。
(上記リンクのケースはこれだけでは言い尽くせない深刻さがありますが、今回の主題からは外れるのでここでは述べません)
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// 「みんなが聞いている音」というマジック
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ところで、書いていてふと思ったのですが、
大きい音で辺り一面に鳴り響かせるからこそ「公共の音」という装いをまとうことになり、
「一段高い」「権威のある音」というマジックが生じているのではないか?
特に拡声器騒音の場合はその傾向がありそうです。
たとえば「左へ曲がります」で言うと、
これがもし、トラックのすぐ横にいる人にだけ聴こえるような音量および指向性で鳴らす場合、
それは 「トラックの運転手 → 通行人」 という個人的な呼びかけになる。
そうなると、おそらく「注意するのは運転手の方だろうが!」といった典型的な批判がまっすぐに突き刺さる。
だから、だからだから、もしかすると、「"だから" そういうふうには鳴らせない」のではないか?
要は、今までは(今は)一段高い立場から偉そうに鳴らしていた(いる)わけです。
音を小さくして対象の相手にだけ聴こえるようにするというのは、
その偉そうな高い場所から降りてきて、個人対個人の目線になるということです。
個人対個人の対話。
それこそがまさに拡声器騒音の騒音主や擁護者が巧妙に避けていることでありましょう。
そして静穏を守ろうとする抗議者が「抗議」という場面で求めて、常に拒否されているものであるでしょう。
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// 騒音主は「エライ」が、抗議者は「一般人」
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拡声器音への抗議がいつもすれ違うのは、
拡声器音は「公(おおやけ)な立場」から「不特定多数」へという体裁で鳴らされており、
そこへ抗議者が「個人」として「不特定多数」の中から立ち現れる、という構造だから、ではないでしょうか。
そもそも「個人不在の論理」でコトが行われているところへ「個 対 個の論理」を持ち込む。すると「話が通じない」。
そのこと思い起こしてみると、ボリュームの大小ということもまた、
拡声器騒音を騒音たらしめている無視できない要因、ある種の本質的な要因、ということになりそうです。
ただしそれは「音が大きいから鼓膜が痛む」などといった次元の問題ではない。
「音が大きい → それは公の音なのだ → 一介の個人が文句を言う権利はない」
というマジックを物理的に支える手段としての「ボリュームが大きいこと」という意味です。
どうも、通常の日本語として「うるさい」と言った場合、
そうした「表面的に音そのものが大きいこと」への不快を表明する、という意味しか表せないような気がします。
あるいは、そういう意味として片付けられてしまう。
「うるさい → 音が大きい → 鼓膜が痛いの?」
だから「このぐらいの音のどこがうるさいの?」などというすれ違いが起きる。
このとき「このぐらい」と言っている「ぐらい」が指しているのはまさに物理的な音量の度合いのことです。
しかし抗議者が言わんとしているのはそこではない。
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// 抗議者が言おうとしている「はず」のこと
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抗議者は別に「耳が痛むぜコンチクショー」と言っているのではない。
「私はこの音を聞きたくない」と言っている。
そして、「聞かずにいる権利があるはずだ」と言っている。
抗議者自身、うまく言えているかどうかは別です。
が、少なくとも、それが "言いたいこと" であるはずであり、また、"言うべきこと" であるはずです。
この点は、他ならぬ抗議者自身が、見失ってはいけないことだと思います。
ここを見失ってしまうと、デシベルを計測する装置を持ち出したり、
「音が人体に与える影響」などに関連する学術論文を持ち出したりしてしまう。
それはそれで必ずしも無意味なことであるとは思いませんが、
問題の本質からはズレたことであるはずです。
なぜなら、何度でも言いますが、問題は音(の大きさ)そのものではないからです。
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// 拡声器騒音とは、つまり "何" なのか?
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「うるさい」というだけでは、見失ってしまうものがある。
そもそも拡声器騒音とは何であるのか? という実体に則していない話に陥ってしまう。
そして、抗議としても成立しない(=話が噛み合わない)。
拡声器騒音による被害という出来事の実相を見定める必要がありそうです。
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// 権力構造としての拡声器騒音
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音の大きさは騒音の本質ではない……と言いたいところであり、やはりその通りだとも思うのですが、
とりわけ拡声器騒音の場合、「音が大きいこと」自体が「権力」の演出にもなっている。
このこと無視することはできません。
大きな音が出ていれば、そこには、なにがしかの「権力」がある、ということになり、逆らう者がいなくなる。
権力があるから音を出す、のではなく、音が出ているから権力がある、ということになる。
その場にいる大多数がそのように判断することで、音を出している者に実際に権力があると「認められた」ことになる。
これは「実際に権力を持っている組織」(自治体など)に限ったことではありません。
単なる民間の移動販売業者であっても同じです。
文句を言う者は常に少数派であり、世間から白い目で見られる。
さらに言えば、世間での判断基準は「実際に権力があるかどうか?」でさえありません。
だって、「ちり紙交換は風物詩」なのに「選挙カーうるさい」んでしょ?
政治家よりもちり紙交換の方に「権力がある」と認めている。
権力とは何か?
権力とは、それを認める者たちがいることで、初めて、権力として作用します。
単独の誰かが勝手に「権力者」であることはできない。
周囲の者たちがそれを認めるからこそ、権力者は権力者として権勢を振るうことができる。
騒音(とりわけ拡声器騒音)に関しても、構造がそっくり同じです。
文句を言う人がほとんどいない。
かと言って全員が必ずしも積極的に賛成しているわけではない、であろう、とは思いますが、
実際、文句を言う人がほとんど表に出てこないからこそ、結果的に、その音は「あって当然」ということになり、
文句を言わずに聞き流すことが「常識」で、文句を言う人が「異常」ということになってしまう。
そういう事実が出現してしまう。
権力があるから音を出すのか? 音を出すから権力があるのか?
両方が都合よく作用し合って、音を出すということの正当化が行われている。
音を出している者は、おそらく、音を出すほどの権力が自分にあると思うからこそ、音を出すのでしょう。
そうでなければ音を出せるはずがない。
そして、音を出すからこそ、権力があるということの誇示になる。
さらに、大多数の人が何も文句を言わずに黙って聞き流すことで、
その権力が権力として「認められた」ことになる。「合意が形成された」ことになってしまう。
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// 実体をとらえていない抗議
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騒音とは権力の暴力です。
「加害行為」として権力の暴力、であるのみならず、
「被害」としても同じです。権力構造の中で暴力的に抑圧を受ける。
そのことが、とどのつまり、「騒音被害」である、と言えます。
それを、単に物理的な「音の大きさ」の問題だとして扱ってしまうと、「話がズレ」てしまいます。
それは抗議者の抗議の仕方としてもそうであり、抗議を「あしらう」側も同じです。
騒音問題を取り巻く人物のパターンとして、大体次のようなものがあります。
・騒音主:音を出している張本人
・擁護者:別にいいじゃない、などと言う周囲の人々
・抗議者:苦痛を訴える人々
「擁護者」は最も分厚い層ですので、「積極的な擁護者」と「受動的な傍観者」などに分けて考えた方がより正確かもしれません。
が、それについてはまた別の機会に取り上げることとして、今回は大雑把に話を進めます。
上記を「権力構造」として捉え直すと、次のようになります。
・騒音主 → 権力者
・擁護者 → 権力に追従する者
・抗議者 → 権力に楯突く者
単に「権力者」と書いてしまいましたが、厳密に言えば「権力を主張する者」というべきかもしれません。
しかし権力とはそもそもそういうものです。
本人が最初っから権力を持っているのではなく、周囲にそれを認める追従者がいて、権勢を振るうことが可能になる。
さて、このように権力構造として考えてみると、
いわゆる「苦情」が常に拒絶されることの様相もまた権力構造内の出来事として捉えることができます。
すなわち、「苦情を言う」ということは「権力に反抗する」ということです。
関係は決して対等ではありえない。
周囲の第三者たち(擁護者たち)が苦情を言う者に冷たい態度を取ることも「権力への追従」として理解することができます。
BGMや時報を「うるさい」などというのは我らの上に君臨するお方に逆らうケシカランやつだ、というわけです。
もちろん直接そのような言い方はしませんが、構造的にそういうことになっている、という話です。
> だから「このぐらいの音のどこがうるさいの?」などというすれ違いが起きる。
> このとき「このぐらい」と言っている「ぐらい」が指しているのはまさに物理的な音量の度合いのことです。
> しかし抗議者が言わんとしているのはそこではない。
表面的には「音の大きさ」としてコトを扱おうとする言動であり、
言っている本人(擁護者)自身もそのように思い込んでいるであろうと思われる場面ですが、
この言動にしても「このぐらい」というのは「権力的に当然でしょう?」という意味です。構造的に。
ただし、この「構造的に」ということと、「文字通りに」ということが都合よく使い分けられている。
そして、話が永遠に噛み合わない。
「一介の民間のトラックが音を出す権利はあるのか?」→「そんなに大きい音じゃないんだからいいじゃない」
「防災無線塔の近くの音量は相当なものである」→「でも防災のためだからねぇ」
本来は「誰であろうが」「小さかろうが」騒音は騒音なのであり、ダメなものはダメ、なのですが、
「音の発信者によってはイイ」「音量によってはイイ」、という理屈が場当たり的に都合よく使い分けられて、
のらりくらりと「とにかく音を出してもいい・文句を言うおまえがおかしい」という結論に持ち込まれてしまう。
これは「擁護者」の場合ですが、騒音主自身の場合も似たようなものです。
> それを、単に物理的な「音の大きさ」の問題だとして扱ってしまうと、「話がズレ」てしまいます。
> それは抗議者の抗議の仕方としてもそうであり、抗議を「あしらう」側も同じです。
「あしらう」側が意図的にそのように論点をズラしている……とまでは言いませんが、
確信犯であるにせよ、無意識であるにせよ、実際、話が噛み合っていない。
噛み合わないことで、音を出す側にとって有利な状況が続いている。
その事実は重く受け止める必要がある。
抗議する側が、です。
誤解のないように言っておきますが、私は今、この文章で、騒音主を批判しているのではないのです。
擁護者を批判しているのでもない。
抗議者の、抗議の仕方が「下手」なんじゃないか? という話をしています。
騒音主にモラルを説いても聞く耳を持つわけがない。
擁護者たちも権力に追従することに忙しくて被害者の声なんかに構っている暇はないでしょうからアテにはできない。
抗議する側が、「上手」な抗議の仕方を考えていくしかない。
少なくとも、音を出す側があの手この手で抗議をあしらおうとするのは当然と言えば当然です。
それが意図的であるにせよ、ないにせよ、実際、論点がズレていて、それが騒音主に有利に作用している、という現状がある。
だから、抗議する側が、いつまでもその手に乗せられっぱなしではいけない。
騒音ということの実体を見定めた上で、適切な作戦を考えていこうではありませんか。
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// 話は意外と通じていなかった?
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単に「うるさい」あるいは「音が大きい」などと言っても、
それは実体を捉えた抗議にはならない、ということなのでした。
「大きな音」というのは権力という観点では手段の一つに過ぎない。
であればこそ、苦情というものを、「音量を下げてみせる」だけで「あしらう」ことができるなら、
そうすることもあったりもする、ということなのではないでしょうか?
対応をそのような範囲内に収めている限り、権力そのものは傷つかない。
権力そのものが傷つかない限りにおいては、「話が通じる」というわけです。
ちなみに以前、アンケートを設置しているスーパーマーケットにて、
「BGMを全廃してくれませんか?」と投書したところ「それはできません」との回答をもらったことがあります。
「音量が大きくなり過ぎないように気をつけますが、BGMをなくすことはできない」とのこと。
あくまでも「音量」という面での対応であり、音を出すこと自体を手放す気はない、ということです。
ちなみにその回答の中で述べられていた「理由」としては、
「BGMがないと活気がなくなり、接客が悪いと思われるから」とのことでしたが、
おそらく、これは嘘です。
なぜ嘘だと言えるかといえば、店が開業して以来、BGMなしで営業していた期間があったとは思えないからです。
実際にBGMなしで営業していた期間があって、実際に「接客が悪いと思われた」という事実があったのかと言えば、
おそらく、そういう事実があったというわけではない。
もちろん、これはあくまでも私の憶測であって、そこまで突っ込んだ話を質問して確認したわけではありません。
そしてもちろん、「音を出すのは我が店舗の権力なのであり、客である以上、逆らわずに従っていただく!」
などという回答が書かれていたわけではありません。
そうではありませんが、
音量という表面的な対応ならばしないこともないけれど根本的には変わらない、という話です。
ところで、
> 「音を出すのは我が店舗の権力なのであり、客である以上、逆らわずに従っていただく!」
仮に、このぐらい堂々と言うなら、それはそれで一理あることでもあり、むしろ清々しい気がしないでもありません。
それを何か「お客たまへのサービスなのれぇす!」のような空々しい態度でお節介なことを続けるから、気持ちが悪い。
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// では、実体を捉えた抗議の仕方は可能なのか?
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日本語として普通に思い浮かぶ言葉で普通に抗議をしても、ピントがズレてしまうのでした。
実体を捉えていないからです。
実体は何かと言えば、どうやら「権力」である、らしい。
ならばそれをダイレクトに指摘すれば、果たして話は噛み合うのか?
おそらく噛み合わない。
「何言ってんのコイツ?」ということになってしまう。
なぜかと言えば、「同じ土俵に立っていない」からです。
「実体は権力構造なのだ」ということをお互いに認識している必要がある。
ところが、そうした共通の認識が、ない、のでした。
たとえて言うなら、「宇宙人が攻めてくる!」と言っているようなものです。
実はこの世界は宇宙人に監視されていて、地球人が迂闊な言動をとると宇宙人が「隙あり!」と攻め込んでくる。
表面上はそんなことは誰も知らないし、そんなことが「事実」だとは誰も思っていない。
仮にそれが本当の本当に本当なのだとしても、誰もそうは思わない。それが現状です。
そういう状況の中で、「宇宙人が攻めてくるから、そんなことしちゃダメ!」と言っても、話が通じるはずがない。
まずはお互いに、「地球は宇宙人に監視されていて云々」という「事実」を認め合う必要がある。
そのような共通理解の土台の上に立つことで、初めて、共通の土台に基づいた話し合いが成立する。
もちろん「宇宙人云々」というのはたとえ話ですが、
「会話が成立するためには共通の土台が必要」という一般論の話です。
BGMや時報やボイスアラームを鳴らしている側も、それを擁護する人々も、
それを「権力云々」という視点では見ていない。少なくとも自覚はない。
仮にそのような視点を持っているのであれば、
「あなたは権力を濫用している!」といった「抗議」に対し、
「そうか。それはすまなかった」なり「そうとも、俺は権力者だからな。権力のないキサマは黙っていろ!」なり、
「権力」という観点で「話が噛み合う」でしょう。
しかし、そういう観点そのものがない。
だから、「安全のために必要なのに、それをうるさいだなんて!」とか「音がある方が活気があるでしょ?」だとか、
いちいち噛み合わない話にしかならない。
で、話を噛み合わせるために「権力云々」ということをダイレクトに抗議の言葉に取り入れれば理解してくれるかと言えば……
果たしてどうなんでしょうね?
実際に、「そのつもりで」実験をしたことはないのですが、
今までの経験上、おそらく、うまくはいかないと思います。
今までも、私なりに「騒音というのは世間一般で軽く思われているイメージと違って、これこれこういうものだ」のような、
私なりに考えたことを人に話してみたことは少なからずあるのですが、話が通じた試しがありません。
「被害妄想」「考えすぎ」「陰謀論」のような扱いを受けてしまう。
まさに上記のたとえ話の「宇宙人」みたいなものです。
結局のところ、「音の大小」「我慢するべきかどうかの程度問題の闘争」といった、
すでに行き詰まりが見えている枠組みでの(不毛な)話しかできない。
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// 「共通の土台」を醸造することは可能か?
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「可能か?」というより、その必要がある。
さもないと無人島に引っ越さないといけなくなる。
あ、もちろん、静音コミュニティの構築という可能性を忘れてるわけではありませんよ?
ただ、静音コミュニティを作るにしても、作って終わりではなく、周囲の社会と妥協点を模索していく取り組みは必要になるはずです。
では、どうすれば共通の理解という土台を獲得できるか?
しかし、こういうのって社会全体のことですから、誰か一人が高邁な思想を語っても意味がないのですよね。
その思想がいかに「正しい」ものであろうとも、社会全体がそれを受け入れないことには意味がない。
すると、結局いつものパターンでしょうか?
「正論」ならいくらでも言えるけど、人には通じない……という、お馴染みの同じ道。
ちょっと、逆から考えてみたいと思います。
逆から。
つまり、「共通の土台」がすでにできている状態、を想像してみる。
それはどのような状態であろうか?
共通の土台があるということは、つまり、言葉がある、ということであろうかと思います。
それについて語る言葉がある。語り合う文法がある。
たとえば現状であれば、
「騒音」と言えば「うるさい」であり、「うるさい」と言えば「神経質」、
というふうに、「文法」が固まっているようなところがある。
そうではない別の文法ができている状態、を想像してみる、ということですね。
「音を強制的に聞かせてしまうような状態」を「悪いことなのだ」とするような単語があり、
その単語を口にすれば、「そうではない状態を目指すべきなのだ」との共通理解が得られる。
そのような「会話の体系」が出来上がっている社会。
なるほど。共通の土台ができている理想の状態、というのはそういう状態のことですか。
本当にそうなんですかね?
なんだか心配になってきました。
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// 魔法の言葉
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たとえば次のような言葉があります。
「セクハラ」「差別」「環境破壊(エコ)」「グローバル化」
「それはセクハラだ!」と言えば、「ひぇぇぇ!」と相手を恐れおののかせることができる。
「それは環境破壊だ!」と言えば、「どうかお慈悲を〜!」と相手が白旗をあげてすがりついてくる。
我々の社会にはそのような魔法の言葉がある。
私が上で言っているのは、「騒音」もこうした魔法の言葉に昇格させよう、ということなのでしょうか?
そういうつもりはない、と言いたいところですが、そういうことなのかもしれません。
なぜ「そういうつもりはない、と言いたい」のかと言えば、
これはあんまりいいことだとは思えないからです。
てっとりばやく「被害」を減らす実用的な役には立つかもしれません。
が、それが果たして「いい世の中」か? と言えば、胸を張って「イエス」とは言いにくい。
なぜなら、人々の心に不安と疑心暗鬼をまき散らすことになるからです。
そのような社会が住みやすい社会とは思えません。
ところで、今これを書いていて「ノイズ・ハラスメント」という言葉を思い出しました。
どういう意味の言葉だったか、よく覚えてはいませんが、字面から想像するに、騒音問題に関連する言葉でしょうか?
最近、「~~ハラスメント」という言い方が流行ってますよね。
その系列で、騒音主を糾弾しようという言葉でしょうか?
多分そうなんでしょう。
今、ネットにつながってる環境でこれを書いてますので、
検索すれば一発で出てくると思うのですが、話がややこしくなりそうですので、
今回は敢えて検索はせず、この文章を最後まで書ききってしまおうと思います。
どうなんでしょうね?
多分ですが、この単語って「セクハラ」や「モラハラ」などと同じ系譜の言葉ですよね。
で、同じような攻撃力を持っているのかどうか、は、わかりませんが、
仮に同じような攻撃力を持っているのだとして……、
「騒音被害に苦しんでいる我々としては、これを積極的に使っていくべき」なのでしょうか?
たとえば、アンケートを設置しているスーパーマーケットにて、
「BGMはノイズハラスメントです。
人の好みは千差万別。同じ曲を聴いても快適に感じる人もいれば不快に感じる人もいます。
あなた方は "よかれ" と思って流しているのでしょうけれど、
それは "押し付け" であり、まさに "ハラスメント" なのです。即刻停止してください」
などと投書するとどうなるか?
どうなるでしょうね?
一度実験してみたい気はします。
どういう回答が返ってくるのか、その反応を見てみたい。あくまでも実験として。
しかし仮に「大成功」したとしても、この黒魔術で世間を席巻したいとは思えません。
あ、でも結局、いつもと同じように「うんたらかんたらごにょごにょごにょなのでご理解ください」で終わりかな?
なるほど。こっちが「ハラスメント」という黒魔術を使うなら、向こうも「ご理解ください」という黒魔術を使ってきそうですね。
しかしながら一つ言わせてもらえば、
こっちが黒魔術を使わなくても、向こうはいつだって「ご理解ください」だとか「ご注意ください」だとか言いまくってるわけですよ。
邪悪な魔術師はどっちだ、このやろ〜。
とかなんとかね、
そもそも魔導大戦を挑むのが目的というわけではない。
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// そもそも私たちの目的は何であったか?
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静かに暮らしたい。
それだけのはずです。
他人が憎いわけではない。戦いたいわけではない。
いや、「私たちの」などと勝手に一括りにしてはいけませんね。
あくまでも私のことだけを語ることにします。
静かに暮らしたい。
人から邪魔をされたくない。
人の邪魔をしたくもない。
なぜなら人はそれぞれ異なるからです。
別に正義の味方でも何でもありませんが、異なる人のそれぞれをそれぞれに尊重したいし、尊重されるべき、とも思っています。
当然、その中の一人として「私」も尊重されたい。正義の味方じゃないので、自己犠牲の精神があるわけではない。
上の文の中で、敢えて「べき」と言いました。
なぜなら尊重しないのも自由だからです。
尊重することと尊重しないことを比較して、尊重することの方が「上等である」と結論づけることが
単なる私の個人的な恣意ではない、と言える理由を思いつかないので、
そうした偏りを意識的に選び取るという意味を込めて「べき」と言いました。
さて、人それぞれ異なっている。感じ方や考え方が異なっている。
どれが「上等」でどれが「下等」だ、とは言えないし、言いたくもないし、言う「べき」ではないと思う。
そうした態度の必然的な帰結として、「静けさ」を求めることになる。
「音」というのは、暴力的な性質を持っています。
その場にいる全員の耳に強制的に届いてしまう。人それぞれの違いを無視して。
だから「音」の扱いには慎重にならねばならない。(拡声器でワザとまき散らすなんて最悪です)
「正義の味方というというわけではない」と言いましたが、
「静かな社会」は「人がそれぞれに尊重される社会」でもあろう、とは思っています。
というより、そういう社会であることの結果の一つが「静かであること」であるはず、です。
だから上で書いたような「ハラスメント」などのような黒魔術ワードを使うことは気が進まないのです。
仮にそれで結果的には「静けさ」が確保できたとしても、
それで「人がそれぞれに尊重される社会」と言えるのか?
そこは「人が互いに疑心暗鬼になって監視し合う社会」であり、その結果、(たまたま)「静か」になっている。
この黒魔術で実現される「静けさ」とは、そういう種類の「静けさ」なのではないか?
人それぞれの違いを認めて尊重する。
そういう中で「私」も尊重されたい。「私」も「あなた」を尊重したい。
それが「静けさを求める」ということの根本精神であり、また、これを根本精神とする「べき」だと思います。
今後も拡声器騒音(または騒音全般)には私にできる範囲で異議を申し立てていくつもりですが、
あくまでも、この根本精神を忘れずに活動していくようにしたい。怒りの感情に流されてはいけない。
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// とは言うものの、実際、どうしたらいいんでしょうね?
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先日、隣町を歩いているとき、豆腐屋の移動販売トラックを見かけてしまいました。
「健康、新鮮、○○豆腐をお届けします!」などと廃品回収と同じような女性ボイスで喚きながら走っていました。
(ちなみに運転席でハンドルを握っていたのはオヤジ)
幸か不幸か「隣町」ですので、私が口を出す立場ではないかな、と思って何も言いませんでしたが……、
その地域に住んでる全員が何とも思ってないなら問題ないですが、確率的に言ってそんなことはありえない。
黙って耐え忍んでいる人(私の仲間)が少なからずいるに違いないんです。
やってる本人は「悪いことをしている」なんて1ミクロンも思ってないんだろうなぁ。
しかも、わざわざそんな音声データを用意してるぐらいだから、ただの思いつきでやってるわけではなくて、
それなりに気合を入れてやっているということです。今後も続ける意志があるということです。
ヤメろと言われてヤメるつもりなんてサラサラないでしょう。
仮にその豆腐屋が私の住んでいる地域にまで進出してきたら、どうするか?
どうしましょう?
何を言っても話が通じる気がまったくしない。
……と、いうようにですね、こうして、たまに普段行かない地域に行くと、
自分が住んでいる地域にはない拡声器騒音業者が世間にまだまだたくさんいることに気付かされます。
理念だけではどうにもならない。
しかし、理念を忘れては生きている意味がない。
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