北朝鮮の選挙
本当かどうか知りませんが、北朝鮮の選挙では将軍様以外の人に投票すると投獄されるそうです。
投票用紙には最初から将軍様の名前が記入されており、
将軍様に投票するならば、それをそのまま投票箱に入れる。
もしも他の候補者に投票したいなら、票を書き直す必要がある。
かたわらに票を書き直すためのテーブルも用意されているのだけれど、
わざわざそこへ立ち寄るということは、イコール、将軍様以外の人に投票するということです。
すると投票を見張っている警官だか軍人だかが駆け寄ってきて、逮捕されるのだとか。
つまり彼の国での選挙というのは、将軍様に忠誠を誓うための儀式ということなのですね。
我が国の選挙はどうかと言えば、
投票率の低下ということが常々言われていますね。
つまり、選挙そのものに関心がない人が大勢いるということです。
メディアでは盛んに「選挙に行こう!」とのキャンペーンが流れています。
おそらく多くの家庭では親御さんは選挙権を持つ年齢のお子さんたちに同じようなことを言っているでしょうし、
学校等の教育の場でもそのようなメッセージが発せられていることでしょう。
私が選挙権を得たばかりの頃からそうでした。今でも状況は大体同じなのでしょう。
「選挙に行こう!」とは言うものの、具体的に誰に投票せよ、とまでは言われていません。
しかしながら実際のところはどうなのか? 「選挙に行こう!」とのメッセージを発している当の本人の本音はどこにあるのか?
そもそも投票は本人の意志にもとづいて行うものであり、他人が指図することではありません。
行くかどうかも含めて、本人が自分の考えにもとづいて行動すればいい。そのはずです。
しかしながら世間では盛んに「選挙に行こう!」とのメッセージが繰り返されている。
選挙権を得たばかりの頃、私は選挙なるものに全く興味が持てませんでした。
むしろ嫌悪感さえあった。
親や周囲から「選挙に行け!」と言われることが余計にその嫌悪感を煽っていた。
「選挙に行け!」と言われるたびに「絶対に行ってやるもんか!」と、口には出しませんでしたが、
それに近い反発心を感じていました。
私が育った家でも選挙が近くなると「選挙に行けよ!」というメッセージは発せられていました。
しかし具体的にどこへ投票せよ、とまでは言われない。
両親は一応、少なくとも表面上は、そうしたマナーというか、最低限の建前はわきまえていたようです。
しかしながら、両親自身がどこへ投票していたのかは、なんとなく察しがつきます。
おそらく昔ながらの与党およびその候補者です。
口には出しませんし推測の域を出ませんが、普段や投票前後の言動から察するに、おそらくそうであったろうと思う。
私が育った家は普段から政治談義が交わされるような家ではありませんでした。
つまり、政治に関して特段の信条があったというわけではない。
その両親が、選挙権を得たばかりの頃の私に向けて「選挙に行けよ!」とさかんに言う。
これはどういう意味であったのか?
2通り考えられます。
一つは、自分たち(両親)とは異なる考えで異なる政党に投票してもいいから政治への意思表示をせよ、という意味。
もう一つは、投票と言えば与党への投票以外に想像だにしておらず、私への「選挙行け」は即ち「与党に投票しろ」という意味。
建前としては前者です。
でも、案外、案外ですが、意外と、意外とですが、後者だったりしたんじゃないですか?
え? そんなことないですか? いやー、どうでしょう?
過去形で語ってますが、二人ともまだ存命なので今のうちに聞いておこうかな。
「実は後者だったのじゃよ。すまんのぅ。ケッケッケ。ところで晩ご飯はまだかの?」とか言うかな?
今の話は私の育った家の話でしかありませんが、世の中全般においてはどうなのでしょう?
メディアでも盛んに「選挙に行こう!」とのメッセージが発せられているようですが、
それはつまり、「選挙に行こう!(で、どこに投票するべきかは……言わなくてもわかってるよな?)」のカッコ内が本音だったりしませんか?
え? 私の妄想ですか? いやー、そうですか。それは気がつきませんでした。あっはっは。
選挙って、本当は、反社会的なものであるはずです。
歴史をひもとけば選挙権とは人々が長年にわたって血を流しながら勝ち取ってきたものであることがわかります。
世間にあふれる「選挙に行け!」というメッセージもそうした歴史話とセットで語られます。
「昔の人が頑張って勝ち取ってくれた権利なのよ! 無駄にせずに投票にいきなさい!」と。
しかしながら、そうであればなおのこと、選挙とは反社会的なものであるはずです。
人々がなにゆえそこまでして選挙権のために戦ったかと言えば、時の政権に対抗するためです。
そのようにして戦った人々が、勝ち取った選挙権でどこに投票したかと言えば、今で言うところの野党ではないのでしょうか?
そのはずです。そうじゃないと戦う意味がない。
一生懸命戦って、わざわざ、時の政権に忠誠を誓うための「権利」を勝ち取るだなんて、意味がわかりません。
仕組み自体が今とは違うでしょうから単純には比較できないにしても、
時の支配者が押し付けてくるのとは別の人物を政治の場に送ることが目的であったはずです。
だから現代の我が国のように、世間全体に「選挙に行こう!」というメッセージが流れるなんて、異常なことです。
選挙とは支配者にとって都合の悪いもの(であるはず)だからです。
選挙とは反社会的なことであり、親や世間から推奨されるようなものであるはずがない。
ましてや国家が自ら臣民へ推奨するなどありえない。
選挙権を得たばかりの頃の私は、選挙なんて興味ありませんでした。むしろ嫌悪感がありました。
周囲から「選挙に行きなさい」と言われるたびに「しゃらくせぇ! ンなもん行かねぇぜ!」とリーゼントをキメた前髪で風を切っていたものです。
つまり私のリーゼントは一種のテレパシー受信器官になっていて、
「選挙に行きなさい」という周囲の人々の本音を感じ取っていたのです。
私のリーゼントが感じ取っていた本音とは、すなわち「選挙に行け=与党に投票せよ」です。
そんなものでしかないような選挙など絶対に行きたくなかった。
かと言って他の政党や候補者に投票しても、自分の1票だけでは何の意味もない。
だったら行くだけムダだ。
結果、「選挙なんてしゃらくせぇ! 俺のリーゼントが行くなと言ってるZE☆」です。
行くだけムダというより、投票会場自体が世間への忠誠を誓うための儀式の会場に見えて気持ちが悪かった。
当時の私のリーゼントによると、
「選挙に行け=与党に投票しろ=世間への忠誠を誓え」であり、「選挙に行かない=世間に反抗する」です。
>「昔の人が頑張って勝ち取ってくれた権利なのよ! 無駄にせずに投票にいきなさい!」と。
この手の話を聞かされるたびに、背筋が寒くなった。
なぜなら、ここで語られているのは
「昔の人は頑張って支配者に忠誠を誓う権利を勝ち取ったのよ! あなたも支配者に忠誠を誓いなさい!」だからです。
もちろん歴史的な事実としては正反対であるはずですが、
若者を世間に順応させるためのお説教として、その正反対のメッセージが(さりげなく歪めて)語られる。
だって、さもなくば、「昔の人を見習って世間を転覆させる革命家になりなさい!」と言っているに等しいわけですよ。
そんなこと、親や教師が子供に向けて、ましてや国家が言うわけがない。
無意識的に、あるいは確信犯的に、反転したメッセージが発せられている。
さて、リーゼントをカチンコチンに固めていた頃の私にさかんに「選挙にいきなさいよ!」と言っていた私の親ですが、
今では私の顔を見るたびに「選挙っていつだっけ? 10日? ふーん。で、野党の統一候補って、この人?」と言って
幸福実現党の候補者を指差す体たらくです。ちなみに幸福の科学の信者ではありません。
毎日テレビばっかり見てるのに投票日も知らないって何なの。
> 一つは、自分たち(両親)とは異なる考えで異なる政党に投票してもいいから政治への意思表示をせよ、という意味。
> もう一つは、投票と言えば与党への投票以外に想像だにしておらず、私への「選挙行け」は即ち「与党に投票しろ」という意味。
私の親の話はさておき、実はわりと、後者な感覚の人って、多いんじゃないんでしょうか?
投票会場で軍人が見張ってるわけではありませんが、
え? 投票と言えば与党に投票するモンでしょ? あたりまえでしょ? と、無意識に思い込んでいる。
「社会人のギムぅ〜」とか脳内鼻歌を歌いながら、与党への忠誠の「意思表示」のために投票の儀式に参列する。
「選挙に行こう〜! 選挙に行こう〜! 投票率の低下? ケシカラン! 実にケシカラ〜ン!」というのは今や国歌であり、
時の政権に忠誠を誓うためのキャンペーンと化している。
「投票率が低下してケシカラン」というのは「与党の支配=世間の常識、への忠誠を誓う率が低下してケシカラン」
という意味なのではありませんか?
我が国ではもはや軍人が投票を見張る必要さえない。
人々は自発的に互いを見張っており、あるいは自ら喜んで政権への忠誠を誓う。
それほどまでに我が国の人心は病んでいるのです。え? 病んでいるのは私の方ですって? そうですか。
「選挙に行こう〜=社会人のギムぅ〜=政権への忠誠〜」とのキャンペーンがあり、
そうした事実上の国歌に喜んで「のる」ことができる人だけが投票会場へ足を運び、
そうではない人々は反抗心あるいは無関心により会場には背を向ける。
ごく一部の人たちだけは自分の意志で候補者を吟味して投票するが、
そうした票が多数派を形勢することはなく、政権の支配は揺るがない。
支配は完成している。
今や私の前髪はフニャフニャになっており、選挙のたびに投票会場へ足を運んでおりますが、
私にとっても投票とは一種の儀式です。死に票を投ずるための儀式です。
自発的に投票に行くようになってこの方、私が投票した候補者が当選したためしがありません。
彼の国と違って投獄こそされませんが、その必要さえないということでしょう。
私の存在は完全に無視されている。
それでも私は自分がしていることが無意味だとは思っていません。
たとえ多数派にはならなくても、各候補者の得票数は公表されます。
世の中にそれなりの数、その候補者に投票した人がいる。
その事実が知れ渡ることは、その候補者および政党を支持した人々への励ましになる。
その数字に貢献することは無駄ではない。
え? 公表されてる数字が改竄されてるって可能性もあるって? うひー。
それでも私は自分がしていることが無意味だとは思っていません。
私にとって意味がある。結果的にその候補者が当選するかどうかなんてどうでもいい。
私が自分なりに判断して投票するんです。結果とか知ったこっちゃない。てめぇら、すっこんでろ。
こうしたことはもちろん本気で思ってることでありまして、
「死に票」になってしまうことへの慰めというわけでも何でもありません。
本気でそう思っていますし、そもそも、思うかどうかに関わらず客観的な事実です。
結果がどうであれ「その候補者に投票した人が存在した」という事実が出現する。私の行動が「事実」になる。
これは私の妄想でもなんでもなく、客観的な事実です。どうだまいったか。ギャフン。
とは言うものの、自分の票が一票でしかないというのは物足りません。
私がどんなに一生懸命に投票先を吟味したとしても、しょせん一票でしかない。
私が私の一票をどこに投じようが投じまいが結果に変化はありません。
せめて最低でも、私の意志で十万票ぐらいは入れたい。一票しか入れさせてくれないなんて、この私をナメてるのか!
だから、投票を棄権する人に私は言いたい。
あなたの票を私に分けてください。
「投票を棄権することも意思表示の一種」という考え方があります。
たしかにその通りです。
理屈としては理解できます。
だから、本人が自分の信念でそのように考えているならば「そうですか」としか言いようがない。
だけど実際どうなのよ?
単に「めんどくさい」「選挙とかキモイ」「俺のリーゼントが行くなと言ってるZE☆」
ということの言い訳なんじゃないんですか?
だから、投票を棄権する人に私は言いたい。
地域のみなさん、オラに票を分けてくれ。
>「昔の人が頑張って勝ち取ってくれた権利なのよ! 無駄にせずに投票にいきなさい!」と。
昔そうであったのと同じように、
現代は現代で、何か別の仕組みを勝ち取る必要があるのかもしれません。
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