TOP > テキスト目次 > 図書館の館内放送を巡って:「そのぐらい別にいいじゃん」を乗り越える試み



◆◆ 思ったこと: ◆◆

        図書館の館内放送を巡って:「そのぐらい別にいいじゃん」を乗り越える試み
        
        一体何が問題なのか? うまく言葉にできません。
        しかしこれはそこそこ重大な問題です。それだけは間違いない。
        
        
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        ■ 事件
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        先日、図書館で本を読んでいたときのことです。
        館内放送が流れました。
        
        "ナンバー****のお車でお越しのお客様、ライトが点灯したままになっております。至急お戻りください"
        
        火事でも起きたのかと耳をすませて聞いていたのですが、ただのライトの消し忘れです。
        なぜこんなことのために館内放送をするのか?
        静かにしているべきであるはずの図書館で、個人的な不注意の尻拭いのために、
        館内にいる全員を巻き込んで館内放送をする。
        
        しかし私には思いもよらない公共的な理由があるのかもしれない。
        駐車場で車のライトがついたままだと、何か重大な公共的被害が生じる恐れがあるのかもしれない。
        
        そう思って、図書館のスタッフに質問しました。今の館内放送にはどんな意味があるのか?
        しかしその回答は私が想像していたような深淵な理由でもなんでもなく、
        単に「車のバッテリーが上がると車の持ち主が困るから」というだけの、本当に単にそれだけのことでした。
        要するに、車の持ち主の不注意の尻拭いです。お節介放送です。
        
        どうやら図書館の方針でこういう場合には館内放送をすることになっているらしい。
        しかし、こんな理由で館内全体を巻き込んで放送をする必要はないはず。
        
        とは言うものの、この場でそのスタッフと議論しても益するものはありません。
        館内放送の運用方針を検討しなおしてください、とだけ伝えました。
        
        
        
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        ■ これの何が間違っているのか? [正論編]
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        簡単に言えます。
        
        車のバッテリーが上がったとしても困るのは車の持ち主本人です。本人の不注意です。
        そんなことのために図書館が責任を負う必要はないはずです。
        
        そして、ここが重要なところなのですが、
        館内放送をすれば、館内にいる全員が、それを強制的に聞かされることになります。
        ライトを消し忘れた本人の耳だけに届くのであればいいですが、もちろんそんなわけはありません。
        無関係の全員を巻き込むことになる。つまり騒音です。
        
        静かにしているべきであるはずの図書館で、これはいただけない。
        自分の不注意でライトを消し忘れた一人の人間のために、その他の全員を犠牲にする。
        
        図書館の責任ということで言えば、
        ライトを消し忘れた人の尻拭いをする責任などはおそらくないはず。え? あるんですか? ないと言ってください。頼む。
        それよりも、館内で読書をしている人が快適に読書を続けられる環境を維持することにこそ責任があるはず。
        本来の責任を放棄して、いらぬお節介を焼いている。
        
        いや、ライトが消えてないことに気付いた特定のスタッフが個人的にお節介を焼くのは構いません。
        が、館内放送を使うということは、館内の全員を巻き込むということです。
        強制的に館内の全員をお節介に付き合わせるということです。館内放送を使うというのはそういうことです。
        こんな理由で放送を流すことが館内放送の適切な運用であるとは到底言えないはずです。
        
        もしも私が駐車場でそういった車を発見して、まだ近くに車の持ち主がいたならば、私は声をかけるかもしれません。
        しかし持ち主がわからない場合に「館内放送を流してくれ」などと図書館に要求できるか? 
        要求すれば受理されて放送が行われてしまいそうですが、とてもじゃありませんがそんな要求はできません。
        あるいは自分の声で「おーい! ライト消してない車があるぞ! 心当たりの人は早く戻れー!」などと館内で叫んだらどうなるか?
        ひんしゅくを買うであろうことは容易に想像できます。

        私が自分の声でやればひんしゅくを買うに決まっているようなことと同じことを、図書館側が館内放送を使っておこなっている。
        そういうことが「図書館としてのサービス」だと思い込んでいる。
        あ、もしかすると件の放送も誰かからのタレコミでおこなわれたのかもしれませんね。
        自分の手は汚したくない自称善人ですね。コノヤロ〜。
        
        先述のスタッフとは実はかなり長く話し込んだのですが、(対応してくれてありがとうございます)
        その人の言うことは徹頭徹尾「バッテリーが上がると車の持ち主が困るから」ということでした。
        では、それを言うなら、静かに読書をしている無関係のその他全員のことはどうでもいいのか?
        この点がなかなか伝わらず、話が思いのほか長引いてしまった次第です。
        
        スタッフは一生懸命に私を「説得」しようとするのですが、
        その「説得」の内容というのが、徹頭徹尾「知らせてあげないと車の持ち主が困るから」ということでしかない。
        
        バッテリーが上がれば車の持ち主が困るであろうことは私にも容易に想像できます。気の毒だなと思う。
        しかし、それはあくまでも本人の不注意なのであり、そのために、
        
        ・館内のその他の全員を巻き込んで館内放送をするのはなぜなのか?
        
        が、私にはどうしても理解できませんでした。
        そのスタッフも、私の疑問が上記の点であるということ自体がなかなか理解できないようでした。
        
        もしかして過去に同じようなケースがあって、
        「なんで知らせてくれなかったんだ! おかげでバッテリーが上がって大変だったんだぞ!
          図書館たるものこういうときは館内放送をしてでも知らせるべきじゃないか!」
        などと要求してきた車の持ち主がいたということなのか?

        しかし、そのスタッフによるとそういう「クレーム」が過去にあったというわけでもないらしい。
        そういう要求をされたわけでもないのに、図書館が自発的に館内放送をしているらしい。
        図書館にそんな責任はないはずですが、なぜかこういう場合には館内放送でお知らせすることになっているらしい。
        となると、私は「その慣例を一度考え直してみてくれませんか?」と言うほかない。
        
        私が最初に思ったのは、もしかすると「駐車場で車が動かなくなると邪魔になるから、それを防ぐ」という目的なのかな、ということです。
        しかし、そういうわけでもないらしい。やはり徹頭徹尾「車の持ち主が困らないように」としか言わない。
        
        その「親切心」が、なぜ静かに本を読んでいるその他全員の静穏を守ることには向かわないのか?
        
        
        
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        ■ 予想できる情緒的な「反論」
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        上記は正論だと思いますが、正論の通りにならないことこそが問題の問題たる所以です。
        
        今回はそのスタッフ以外の人には直接話をしていませんが、
        この話をネットの掲示板にでも不用意に書き込めば、どんな反応が来るかは容易に想像できます。
        
        私を「説得」しようとしたスタッフの論調からも想像できるように、
        こういう場合、私は「困っている人を助けようとしない不親切で利己的な人間」ということになるのでしょう。
        
        また、館内放送を使えば無関係の人間を巻き込むことになるのであり、
        だからこそ使用は慎むべきであろう、というのが私の考えですが、
        
        まさにここが逆転の分岐点です。
        
        無関係の人間にも聞こえてしまうが、
        それは放送なんだから「あたりまえ」であり「仕方ない」ことなのであり「我慢すべき」こと、ということになる。
        ここに異を唱える私のような人間は
        「我慢のできないわがままな人間」であり、
        「困っている人を助けようとしない非協力的な人間」ということになるのでしょう。
        
        曰く「そんな放送ぐらい我慢してあげればいいじゃない」
        
        そこで私が「いや、そういう問題ではない」と食い下がれば、
        「そのぐらいの放送がそんなに気になるの? 神経質すぎるんじゃない? 精神病院に入院したら?」などと返されることでしょう。
        
        それもまた「いや、そういう問題ではなくてですね」なのですが、
        では「どういう問題」だというのか?
        私は一体どうすればこうした情緒的な「反論」と会話の歯車を合わせることができるのか?
        
        
        
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        ■ 正論の弱点
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        実際のところ、おそらく誰も放送のことを気にしていないでしょう。いかなる意味でも。
        
        だから「不注意な1人のために放送でみんなに迷惑をかけてる」と言っても、
        実際には迷惑なんてかかってないわけです。
        
        何より私自身、あの放送があったからと言って
        読書が続けられないほど心をかき乱されたぁ! うるせぇ図書館を訴えてやるぅぅぅぅ、というわけでは決してない。
        
        だから、「あんな放送に目くじら立てるなんて、あんた神経質すぎるんじゃないの?」
        と言われたとき、答えに窮してしまう。
        
        「いや、あの放送自体がどうしてもうるさいというわけじゃなくてですね」
        「だったら別にいいじゃん。黙ってろよ、このクレーマーめ!」
        
        ああ、そうか。うるさいのは私でしたか……。
        なーんてね。私は負けませんよ? 負けませんよー?
        
        
        
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        ■ これは一体「どういう問題」なのか?
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        上記の「だったら別にいいじゃん」にどう答えればいいのか?
        その答えとして最初の正論を繰り返すようでは話は平行線です。
        
        私としては、これを「だったら別にいいじゃん」と言ってしまうこと自体が問題の根深さを物語っていると感じます。
        これは断じて「別にいいじゃん」では済まされない問題です。
        では何が問題なのか?
        
        
        まずは話を整理します。
        
        「正論」は次の2点に集約できます。
        ・1人の不注意のために放送で全員を巻き込む筋合いはない
        ・そもそも図書館にそんな責任はない
        
        情緒的な「反論」は次のように要約できるでしょう。
        ・困ってる人のためにやってることなのだから協力しろ
        ・このぐらいの音を気にするなんて神経質だ
        
        
        これって結局、防災無線や移動販売トラックの拡声器騒音と同じです。
        一部の人間への「親切」を装って、全員を強制的に巻き込む。
        逆らうと「おまえは親切心がない!」と叩かれる。音を出している本人からというより、周囲から叩かれる。
        
        そして、防災無線や移動販売トラックを問題だと思わない人に、
        その問題をわかってもらうのは不可能であることを思い出す。あの強固かつ不退転の不可能さを思い出す。
        
        > これは断じて「別にいいじゃん」では済まされない問題です。
        
        私にとってはそうですし、普段からスピーカー騒音に悩まされている人にとっても同じであろうと思います。
        が、そうでない人にとっては「別にいいじゃん」で済んでしまう問題なのでした。
        
        それでも私はやっぱりこれは「おかしい」と思う。
        これは単に「音が大きい小さい」という問題ではない。
        
        なにしろ、静かでいるべきである図書館で、その静寂を破ってでも放送することが優先されるわけですから、
        これはもう単に「音」が云々とは別次元のこと、ということです。
        
        ここで起きていることは一体何であるのか?
        正論の繰り返しになることを警戒しつつ、言葉を探っていきたい。
        
        
        
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        ■ 「善人ぶり」と「無関心」
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        私のようなことを言う人間に対して「困ってる人のためなんだからそれぐらい我慢しろ」
        という人は、では「人助けの精神に満ちた親切な人」なのか? それは違うはずです。
        単に、鳴っている放送に対して無関心なだけであるはずです。
        いかにも困っている人に親切な善人であるかのような物言いですが、単に無関心なだけではないでしょうか?
        
        もしも親切かどうかで言えば、むしろ私の方が親切ではないでしょうか?
        必要性の低い館内放送で利用者の読書が妨げられないように、
        わざわざ図書館のスタッフに申し入れに行ったんです。
        
        実際に行動を起こした分、私の方がエラくないですか?
        いや、でも「実際に行動を起こした分」私の方が「身勝手」ということになるのかな?
        困ったな。
        何もかもが逆転してますね。ここではきっとカラスも白いに違いありません。
        
        この国では何もせずに黙っていることこそが立派な大人であり、
        自分から行動を起こして声を上げることは「身勝手」で「わがまま」ということなのでした。
        
        「図書館では静かにする」というのは「何をされても黙って耐え抜く」という意味なのであり、
        私のように自分から「声を上げる」などというのは頭のおかしいキチガイが騒いでいるに等しいわけです。
        曰く「うるさいのはおまえだ」

        念のために言っておきますが、私はそのスタッフの人に大声で怒鳴ってたわけじゃないですよ?
        しかしそう思ってたのは私だけで、周囲の人は「うるせぇクレーマーが職員にからんでる……」と思ってたのかな?
        毎度お騒がせしてごめんね。
        
        「図書館では静かにする」というのが「静かに本を読む」ということであるならば、
        騒いでいる人に注意をするというのも「静かにする」うちに含まれるはずです。
        たとえ相手が図書館の館内放送であろうともそれは同じです。
        
        で、私のことを「うるせぇクレーマーが職員にからんでる」と思ったなら、仲裁に入るのか?
        そんな人は一人もいない。みんな無関心なんです。
        ほらね、親切だから我慢してあげてるなんて大嘘じゃないですか。
        そんなに親切ならクレーマーにからまれてる職員を助けてあげたらどうなの?
        
        ああ、ダメだ。
        結局、何らかの「正論」の繰り返しになってしまう。あるいはただの愚痴か。
        「困ってる人のためなんだから放送ぐらい我慢しろ」派とは永遠に平行線だ。
        
        これじゃダメなんですよ、これじゃ。
        どうすればこの平行線を乗り越えられるのか?
        
        
        
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        ■ 模範解答をカンニングしている
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        あっ、ライトを消してない車がある!
        このままだとバッテリーが上がって、車の持ち主はきっと困っちゃう。
        なんとかしてあげたい!
        困ってる人を見たら助けてあげなさいって幼稚園の先生が言ってたもんね。がんばらなきゃ!
        
        だけど、車の持ち主は一体どこにいるのかな?
        図書館の中のどこかにいるはずだけど……。
        
        @選択肢:
            ・大声で知らせる
            ・スタッフに館内放送を依頼する
            ・自分で車の持ち主を探す
            ・あきらめる
        
        
        @分岐:大声で知らせる
        
	        よーし。こうなったら大きな声で知らせてあげるっきゃない!
	        「おーい! 車のライトを消してない人! 早く駐車場に戻ってぇ〜!!」
	        
	        "図書館では静かに"って館内のいたるところに張り紙があるけど、
	        困ってる人を助けるためだもん。きっとみんな許してくれるよね?
	        
	        だけど、あれあれ? みんな僕のことを白い目で見てるよ?
	        僕は困ってる人を助けてあげるためにがんばっただけなのに、どうして?
	        みんなは困ってる人を助けなくてもいいっていうの? ひどい! いじわる! げすやろう!
	        うわーん! 僕もうこんなイジワルな国イヤだよ! テロリストになってやる! 幼稚園の窓ガラスを割ってやる!
        
        
        @分岐:スタッフに館内放送を依頼する
            
            よーし、こういうときは図書館のお姉さんにお願いして館内放送をしてもらおう!
            僕が自分で大きな声を出すとみんなびっくりしちゃうからね。
            だけど館内放送なら大丈夫だよね。
            僕の声よりもずっと大きな声で館内のすみずみにまで響き渡るけど、
            館内放送なら誰も気にしないよね。だって館内放送なんだから! 誰一人として気にするわけがないよね!!!!!
            
            /* 放送流れる */
            
            えへへ。自分でお願いした放送を自分で聞くってちょっとテレちゃうね。
            それに今日は図書館のお姉さんとも上手にお話できたよ。
            いいことをすると気分がいいって本当なんだね!
            さーて、僕も本を読もうかな。もちろん静かに、ね?
            
            あっ、また別の放送が流れたぞ。あっ、まただ。次々に流れるぞ。
            やっぱりみんな人助けをしたいって気持ちは同じなんだね! 放送を聞くたびに心が温まるぅ!
            なかなか読書に集中できないけど、そんなことはどうだっていいよ。
            この放送をうるさいなんて言うやつは人としての温かみのない人間のクズだもんね! 
            僕そんなクズじゃないもん! いい子だもん! あー、温まる! 温まるよぉ! もっと放送してー!
            
            
            
        @分岐:自分で車の持ち主を探す
            
            あの車の持ち主は図書館の中のどこかにいるはずだよね。え〜っと、どの人だろう?
            あっ、もしかしてあの人かな?
            もしもし、あなたはライトを消してないあの車の持ち主ではありませんか?
            え? 違う? そうですか、読書のお邪魔してごめんなさい。
            じゃあ、あの人かな? もしもし……え? 違う? そうですか、お邪魔してごめんなさい。
            
            うーん、どうしよう? 人がたくさんいて誰があの車の持ち主なのかぜんぜんわかんないよ。
            それに、こうやって一人ずつ聞いてたら本を読んでる人の邪魔になっちゃう。困ったなぁ。
            
            ん? なんだか館内の様子が変だぞ? なんだかざわざわと騒がしくなってきたような……。
            あっ、僕が質問した人たちが、それぞれに、まわりの人に同じことを聞いてるんだ。
            そして聞かれた人も同じようにまわりの人に聞いてる。
            館内全体があの車の持ち主を探そう、っていうムードになってきてる。すごい!
            そしてついにあの車の持ち主が見つかったぞ! 問題解決! やった!
            
            やっぱりみんな人助けをしたいって気持ちは同じなんだね。
            今日はみんなの心が一つになる瞬間を目撃できたぞ。なんだかハッピーな気分だよ!
            
        
        @分岐:あきらめる
            
            バッテリーが上がるのは気の毒だけど、持ち主がどこにいるのかわからないし、仕方ないね。
            放っておくのは忍びないけど自業自得。
            持ち主は車に乗れるぐらいだからきっと大人だろうし、それぐらい僕に言われなくてもわかってるはずだよね。
            こういうのって「ジコセキニン」って言うんだよね? テレビでエライ人が言ってたよ。
            
            ……だけど僕って「不親切な冷たい子」なのかなぁ? 明日、幼稚園の先生に聞いてみようっと。
            
            
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        この場合、「自分で探す」の結末が一種の理想なのではないかと思います。
        現実がこのようにうまくいくかどうかは別ですが、
        つまり「困ってる人を助けたい」という気持ちそのものは、多くの人が持ち合わせているはずだということです。
        
        この「自分で探す」ルートの結末ならば、館内放送をしても同じことであるはずです。
        館内のほぼ全員が「車の持ち主を探そう!」ということで意志を統一しているわけですから。
        
        しかし、それでも私は、館内放送をしてしまうのは、よくないと思います。
        なぜなら、それは「カンニング」だからです。
        
        みんな実は人助けをしたいと思ってる。
        だから今回は館内の人たちが心を一つにして車の持ち主を探した。
        それはとても美しいことです。本当にこんなことがあったら
        「人間って捨てたもんじゃないなぁ」と温かい気持ちになることでしょう。心温まるエピソードってやつです。
        
        しかし、そうしたプロセスをすっとばして最初から館内放送を使ってしまっては、全然心温まりません。
        それはやはり「押し付け」なんです。
        模範解答をカンニングしてるんです。
        
        「こんな放送ぐらい我慢しろよ。神経質なやつだな!」と言う人は、
        果たして「人助けの精神に突き動かされて」そうした発言をしているのでしょうか?
        違うはずです。
        ただ単に、この手のことは「お上」に任せておけばいい。自分には関係ない。
        そう思ってるだけではないのでしょうか?
        
        困っている人のためなのだから読書を少し邪魔されるぐらいのことは我慢する。
        いいですね。模範回答ですね。花丸ですね。あんたはいつも100点だ。
        
        でも、それってカンニングなんじゃないですか?
        答えを書き写してるだけなんじゃないですか?
        
        親切心を「お上」なんかに管理させてしまっていいんですか?
        
        
        なるほど、このように考えると、あの手の放送を擁護する人々の心理が少しだけわかる気がしてきます。
        つまり、自分自身は本当は親切でもなんでもなく、他人には無関心であり、人のために行動する気なんてさらさらない。
        そうしたことはすべて「お上」に任せてある。
        「お上」がお節介を一手に引き受けている限り、自分は怠惰なままでいい。
        ああした放送を黙って聞き流すことこそが、自分が「善人」であることのお墨付きになる。便利なシステムです。
        
        だから、その「お上」に「うるさいからお節介な放送はやめろ」などと言うやつは
        自分がカウチポテトな「善人」でいる身分を危うくする可能性のある危険分子です。
        そんなやつは全力で排除しなければならない。
        徹底的に叩き潰して社会から追い出さねばならない。曰く「無人島にでも引っ越せ!」
        
        
        
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        ■ 暴力を独占する権限としての「マナー」
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        図書館のいたるところに、「静かにしなさい」という張り紙があります。
        「他の利用者の迷惑になりますからお静かに」
        「携帯電話の使用は他の利用者の迷惑になりますからご遠慮ください」
        
        もしも私が自分の声で「ライトを消してない車の持ち主はどなたですかー!」
        と叫んだら、ひんしゅくを買うであろうことは容易に推測できますが、
        その一方、館内放送であれば誰も疑問に思わない。
        このマジックはどのように成立しているのか?
        
        ここで近代国家の仕組みについて思い出します。
        
        近代国家とは暴力を独占する統治システムなのでした。
        「国民」が暴力を使うことを「犯罪」として禁止すると同時に、
        警察や軍隊といった形で暴力を独占する。
        それが近代国家なのでした。
        
        さて、スピーカー放送というのも一種の暴力です。
        広範囲の人々に対して、それぞれの意志を無視して特定の音を強制的に聴かせる。
        スピーカー放送とはれっきとした暴力です。
        
        図書館の中で利用者には「静かにしろ」と命じる一方、
        図書館側は館内放送を流す権利を有している。
        なんだか近代国家の仕組みと同じですね。
        
        私たちはそういう仕組みに飼いならされてしまっているのかもしれません。
        
        
        しかしながら、
        「ふぅん、そうなんだ。で、それの何がいけないの?」
        と言われてしまうと、答えに窮するところです。
        
        ただ「私はそんなのはイヤだ」とは思います。
        かと言って犯罪がはびこるのもイヤですけれど、
        しかし犯罪がはびこるということは、裏を返せばその分「自由」ということです。
        
        「電車をお降りの際にはお忘れものにご注意ください」などと誰も教えてくれない。
        そんなことは自分で気をつける。
        私はそのぐらいの自由は欲しい。そんなことまで頭の上から指図されたくない。
        しかし今の日本にはそのぐらいの自由もない。
        
        日本は治安がいいともっぱらの評判ですが、裏を返せば自由がないということです。
        犯罪は少ないけれど、自殺率が高い。
        日常の些細なことまで「ご注意ください」と管理してくれる手厚い管理社会ですが、
        一度社会の秩序からこぼれ落ちたら自殺するか無人島に引っ越すしかない。
        
        人を管理しまくって「どうだ! 犯罪が少ないぞ! 治安がいいぞ!」と誇り、
        「お節介でうるさい」などと言えば「嫌なら死ね! 無人島に出ていけ!」と言う。
        
        だから私は「そんな社会はイヤだ」と言います。
        
        
        
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        ■ 言葉が欲しい
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        結局、私が何を言っても、
        「でも、そんな放送ぐらい別にいいじゃん」
        の一言で全否定されてしまいそうです。
        
        どこまで行っても私は「その程度の些細なことでガタガタ言ってるキチガイ」です。
        言葉を尽くそうとすればするほど距離が離れていく。
        
        そもそも、話をした程度のことで人の考えを変えさせることなんてできっこない。
        ましてやこの件で「それぐらい別にいいじゃん」と心の底から言う人であればなおさらです。
        私の言葉が届く気が全くしません。
        
        しかし、私は言葉が欲しい。
        何を言っても「でも、そのぐらいで文句言わなくていいでしょ?」で全否定になってしまう。
        「いや、そういうことじゃなくて……」の「……」を言い表す言葉が欲しい。
        
        私は私の感覚がそれほどおかしなものだとは思っていません。
        ただ、言葉がないだけなんです。
        この手のお節介放送を擁護する言葉なら世間にあふれている。
        擁護する彼ら彼女らはいつも自信たっぷりに私のような人間に説教をします。
        私が何を言っても迷わずに流暢に即座に「常識」を説いて聞かせてくれます。
        言葉が豊富なんです。
        
        その一方、「それって何か変だな……」と思っている私のような人が、
        その感覚を言い表す言葉は流通していない。
        わずかに流通しているのは「正論」や「愚痴」ばかりです。
        
        お節介放送を擁護する彼ら彼女らの前では、そうした「正論」も「愚痴」も無力です。
        言えば言うほど逆効果です。
        
        だから私は言葉が欲しい。
        この感覚とともに生きていくための言葉が欲しい。
        別に彼ら彼女らを説得しなくていい。戦わなくていい。
        卑屈にならず尊大にもならず、
        この感覚をこの感覚として語りつつ、生きていくための言葉が欲しい。
        
        今回、ここに書いたことはそうした言葉につながる何かになっているでしょうか?
        なっているといいなと思います。
        
        
        
        今日も私の好きな人が幸せでありますように。
        今日も私の嫌いな人が幸せでありますように。
        今日も私を嫌っている人が幸せでありますように。
        
        今日もあなたが幸せでありますように。
        
        
        
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        タグ:騒音問題