人間を分類してああだこうだいう話
ある日、ふと「学問を文系と理系に分類しているそもそもの目的って何だろう?」と思いついて、
軽い気持ちで検索してみました。
すると私の求めていた答えは一応すぐに見つかったのですが(戦前の学校制度上の都合だったらしい)、
それよりも、人間を分類する線引きとして「文系人間・理系人間」という言葉が氾濫しているという現状に気付きました。
人間を分類してああだこうだいう話です。
こういうことって他にもよくありますよね。血液型とか。兄弟がいるかどうかとか。出身地とか。
最近では「草食・肉食」なんていう線引きも流行りましたね。
さらに言えば「男性・女性」なんてのも、やっていることは同じかもしれません。
こうした線引きは大抵、他人に対する批判のために使われるようです。
たとえば「あいつはいつもソモリンドだ。これだからマルチャレッロ型人間は……」などなど。
あるいはもっと、もっともらしい理屈で説明がなされる場合もあります。
「コモラリル型人間は日常的にソモラリル型人間との接点が多いため、
必然的にパマローギョ的な行動規範を身につけることになるのです」などなど。
ネットでは「診断テスト」も盛況ですよね。
「あなたは大丈夫? ミョロゾル系男子を見分ける5つの特徴」などなど。
これなどはこのタイトルの中にすでに「ミョロゾル系男子」なるものの存在を実体のあるものとして暗黙のうちに前提しつつ、
なおかつ、それを社会的に望ましくないこと、「大丈夫?」などと心配すべきこと、として読者に迫っています。
さらにこうした「診断テスト」は大抵の場合、自己診断という体裁を装いながらも、
実は他者診断としての使用をも、ときにあからさまに、前提しているように私には思えます。
つまり、そこに列挙されている「特徴」を自分の知人の誰かに当てはめて
「あるある〜。やっぱあいつってミョロゾル系男子だよな〜。ギャハハ!」と嘲笑のネタにする、という具合です。
あるいは自分から先回りして「俺ってザムジョッホ系だからさぁ」などという場合もあるでしょう。
そして、その次にどんな言葉が続くかと言えば「だからピョルジョルンチョって苦手なんだよね〜」という具合です。
つまり、自分が苦手とするもの(ピョルジョルンチョ)をあらかじめ回避するために、
身の証立てとして自分が属する系統(ザムジョッホ系)を宣言している。
それはもしかすると、自分がそれを苦手としていることが露呈した場合に「これだからザムジョッホって……」
との嘲笑が自分に向けられることを予測し、先回りして回避しているということかもしれません。
いずれにせよ、こうした会話を通して一層「ザムジョッホ系はピョルジョルンチョが苦手である」
とのストーリーが世間に流通しすることとなる。
「ザムジョッホ」や「ピョルジョルンチョ」なる概念があたかも自明のこととして、その存在に肉付けが与えられる。
そうして一層、「ピョルジョルンチョを苦手とするザムジョッホ系人間を笑いものにする」という演劇が
日常生活を舞台として上演される演目として定着していく。劇場が日常空間を覆い尽くし、出口がなくなる。
ていうかピョルジョルンチョって長すぎですね。
最初に入力したとき以外、コピペで書いてます。もっと短いのにすればよかった。
これもポムゾーマ系人間の悲しい性分ってやつです。
こうした「分類」は何のためにあるのか? どのように使われているのか?
そこには常に、人間に対する否定があります。
他人に対する批判や要求。
他人に対する日頃の不満を晴らす悪口。
または矛先を逆転させて、自己保身のための恐怖感の消費。
どこまで行っても、人間に対する否定です。
特に他人に対する否定です。
矛先が自分に向かうこともありますが、それも結局は他者にとっての他者としての自己です。
矛先が逆転しているだけなのであって、現象としては同じです。
人間を否定する発想が根底にある。
慈しみがない。
たとえば「ギョメレオ系人間はパモロンドが苦手」とのストーリーがあるとして、
もっぱらそのストーリーを「ギョメレオ系人間」を嘲笑するためにばかり使う。
「あいつこの程度のパモロンドもできないんだぜ。これだからギョメレオ系って」などなど。
ここで逆に「ギョメレオ系人間はパモロンドが苦手だから、見かけたら手伝ってあげましょう」
という話になってもよさそうなものですが、決してそういう話にはならない。
そもそもが人を否定するために持ち出された線引き、ということです。
だからこの演目をいくら繰り返しても、人に対する慈しみの心は出てこない。
出てくるのはただ、人に対する不信感、不満、恨み、妬み、恐怖、攻撃、といった否定的な想念ばかりです。
卵が先かニワトリが先か?
こうした「分類」があるから人に対する否定的な想念が醸造されるのか?
それとも、もともと人に対する否定的な想念があるから、こうした「分類」が行われるのか?
話を「文系・理系」に戻しますと、
学問をこの2つだけでバッサリと切り分けてしまうのはあまりに粗雑で現実に合っていない、との指摘は昔からあるようです。
実際、最近の傾向としてはこの分類にとらわれない大学も増えてきているようです。
学問の分類方法、という実利的な事柄に関しては、徐々に改善が試みられているということでしょう。
それはそれでいいのですが、
人間に対する否定的な想念の循環装置としての「分類」は、それとは別の問題として残り続けてしまうでしょう。
たとえば「文系」とされる学部出身の人物が「文系」という理由で嘲笑された際に、
「たしかに私は文系学部の出身ですが、在学中には理系の科目も多く履修しているんです!」などと反駁した、とする。
こうした反駁が実って「なるほど、学問を一概に文系と理系に分けることはできないのだな」との理解を得られた、とする。
その結果、学問の分類として「文・理」に代わって「自然・人文・社会」が用いられるようになった、とする。
すると、今までは「これだから文系は……」というフレーズだったものが「これだから人文系は……」などに置き換わる。
それだけのことでしかないような気がします。
もちろん、学問の分類についての議論は、学問の分類についての議論なのであって、
その分類を他人へのレッテル貼りに転用することの議論ではありません。
だから学問の分類についての議論の価値を否定するつもりで言っているのでは全くありません。
それとはまた別の問題として、人間に対する否定的な想念の循環装置としての「分類」という問題がある、という話です。
そしてそれは学問の分類ということだけではなく、日常生活のあらゆる面で起きていることです。
人間に対する慈しみの想念が足りない。
「分類」をいくらこねくり回しても人間が不幸になるばかりです。
そもそも人間を不幸にするためのものなのだから当然といえば当然です。
まずはそこに気付きたい。気付いたら、振り回されないようにしたい。
「あなたは大丈夫?」なんて言わせてる場合じゃない。
そんな診断チェックが存在していること自体が、人間を不幸につなぎとめようとする想念が世間に渦巻いていることの顕れです。
「分類」に警戒しよう。
今日もあなたが幸せでありますように。
今日も私の嫌いな人が幸せでありますように。
今日も私を嫌っている人が幸せでありますように。
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