騒音大好きっ子さんの心理を想像する。
騒音を擁護する人たちの発言を聞いていると、
どうも、「自分の意志とは関係なく身の回りで音が鳴らされている環境が好き」
ということだったりするような気がしてきました。
そういう心理の表れなのかどうなのか、
「人が生きてれば音が出るのは当然だ!」とか
「音があるってことは活気があるということだ!」とか、
「日本には昔から物売りの呼び込みの声が響いていたんだ!」とか、
その他いろいろ、お馴染みの文言を並べるわけです。
そうした文言を並べはするものの、
「俺は自分の意志とは関係なく身の回りで音が鳴らされている環境が好きなんだ!」
というふうに明示的に認めるということは絶対にない。
なぜ絶対にないかといえば、それを認めてしまうと、「自分の意志でそういう環境を選んでいる」ことになってしまうからです。
思考回路が破綻します。
だから、そのようには決して言わず、上記のようなお馴染みの「音はあって当然だ、文句言う方がおかしい」系の文言を並べる。
あくまでも「自分の意志とは無関係」という点を死守する。
私はてっきり、こういうふうに言う人自身も、内心では騒音に苦しんでいて、
我慢することを自分に言い聞かせるために言っているのだろうな、なんて思っていました。
しかし、どうも、それだけでは割り切れないものを感じるのです。
音を出している「騒音主」自身があれこれと言い逃れをするならば、その動機は一応わからなくもないのですが、
周りの人間がそれを言う。「音を出さないで欲しい」と訴える者をよってたかって執拗に叩き潰そうとする。
一体何のために?
そこで冒頭で書いたように、
「自分の意志とは無関係に身の回りで音が鳴っている環境が好き」
という心理の存在を仮定すると、つじつまが合ってくる、というわけです。
別にうれしくはないですけどね。大発見! キャッホイ! と言って喜ぶようなことではないですけどね。
ただ、なんというか、こう考えたらつじつまが合いそうだな〜、ということです。はい。
さて。
もちろん「我慢言い聞かせ」で言っている人もいるでしょうし、
「騒音大好き」な人との境界線は必ずしも明確とは限らないでしょう。
これは類型というよりも、一人の人間の中にその両方の要素が混ざり合ったスペクトラムとして理解した方が多分いい。
その両方の心理が混ざり合って、
「私が我慢してるんだからおまえも我慢しろ」プラス「そもそも騒音が鳴らされている状態も実はわりと好きなのよネ」
というわけで、音が鳴っている現状を「是」とする言動が出てくる、というのが大方の実態であろうかと思います。
その結果、「できれば騒音はない方がいいでしょ?」という(素朴な)提案は厳重に却下される。ええ、却下されちゃうんですよ。マジで。
あ、待てよ。「我慢が大好き(?)」というケースもあるのかな?
それも考慮に入れるとかなり複雑になりそうですね。困ったな。
いや、包括的な理論を作るのはまた別の機会にするとして、
今回ここで言いたいのは、一つです。
「自分の意志とは関係なく身の回りで音が鳴らされている環境が好き」という心理があり得るのではないか?
あるかもしれません。あるような気がします。
なんともハタ迷惑な好みですが、しかし、わからなくはありません。
それほど突飛な感覚ではない気がします。
私自身にも心当たりがないわけではない。ラジオをダラ〜っと聴き続ける、とかね。
しかし私などは、「自分の好きな音が他の人も好きとは限らない」と考えて、音を出すことを遠慮するわけです。
人によって好みは違うのだから、無差別に音をまき散らすような行為は可能な限り慎むべき、と、私は考えてしまう。
聴きたい人は聴きたい音をイヤホンなり指向性のスピーカーなりで、できるだけ他人を巻き込まずに聴けばいい、と、私は考えてしまう。
だからやっぱり、自分の意志で音をコントロールすることが必要だな、と、私は考えてしまう。
当たり前ですが、こうした私の主張は、「無音を強制」しているというわけではない。
聴きたい人は聴きたい音をイヤホンなり指向性のスピーカーなりで、できるだけ他人を巻き込まずに聴けばいい。
もちろんテクノロジーや状況の都合で難しい場合もあるだろうけれど、
できるだけそのような手段を模索するように努めるべきであろう、と、私は考えてしまう。
この考えに間違ったところがあるとは、私にはあまり思えない。
しかし、こうしたことを主張すると、少なからぬ頻度で抵抗にあうわけです。
曰く「まったく音を出すな、なんて横暴だ!」とか、
「人がいれば音が出るのは当然だろう!」とか、
「だったら山奥にでも引っ越せ!」とか、
何か、私がものすごく極端なことを強制しようとしている極論主義者であるかのような、強力な抵抗にあう。
聴きたい人だけが聴きたい音を聴けて、聴きたくない人は聴かずに済む。
それが理想であろう、と、私は素朴に思ってしまう。
技術的に難しいケースもあるだろうけれど、それが理想である以上、できるだけその方向で手段を模索するべきであろう、
と、私は素朴に思ってしまう。
しかし、それが通用しない人々が、少なからずいるわけです。
そこで、ふと、以前ネットで読んだ記事を思い出しました。
・選択的夫婦別姓に反対する人の気持ちを想像する
http://d.hatena.ne.jp/good2nd/20101223/1293068785
テーマは違いますが、要は「自由であることを望まない人もいる」という話です。
騒音の件に引き寄せて言うならば、
「自分の意志で聴きたい音を聴けて聴きたくない音は聴かずに済むという自由」よりも、
「自分の意志とは無関係に周囲で音が鳴らされている」方がいい、という心理です。
自由であることを拒絶する。
自分の意志で選択することを拒絶する。
「自由」や「選択」と言えば、誰もが望んでいるものだ、と素朴に思ってしまっていましたが、
そうではないのかもしれないということですね。
困ったな。
そういえば「自由からの逃走」という有名な本もあるのでしたね。
一度読んでみる必要がありそうです。
さしあたり、今回の話の意義としては、次のように言えるでしょうか。
「騒音はできる限りない方がよい」、という素朴な思い込み(?)を前提に話をしてしまうと
「騒音賛成派」との間に予期せぬ火花が散ってしまう。
だから、「そういうこともあるよ」、と予期しておくことは、それなりに役に立つことだと思うのですヨー。
とは言え、どうすりゃいいのはわからない。
私はもちろん「騒音反対派」であり、音をまき散らす行為は可能な限り少ない方がいい、と思っているのですが、
この世には「騒音賛成派」なる人々が、比喩でもなんでもなく、少なからずいらっしゃって、
音がまき散らされている方がいい、と思っているらしい。音を選べない環境の方がいい、と、どうやら本気で思っているらしい。
どうすればいいのでしょう? 落としどころがどこにもない。
共存が不可能です。音に限りませんが、好みの異なる者同士が共存するには(音を)自分で選べる環境が必要です。
しかし選べない方がいい、という。
困ったな。
こういう人が少数派であるならまだしも、どうやらそうでもなさそう、下手をすると多数派かもしれない気配すらある。
その結果、音に寛容な?鈍感な?現代の日本社会がある。音を減らして欲しいという要求は「道徳的に」否定される。
困ったな。
いや、自分の意志とは無関係に音を鳴らされているのがいいと言うなら、それならそれで全然構わなくて、
別に「自分の意志を持て!」などとお説教するつもりは微塵もないのですが、
ともかく私を巻き込まないで欲しい。それだけ。ほんっと、それだけ。
え? 何ですって? 「山奥に引っ越せ!」ですって?
ええ、可能ならそうしようかな、と、わりと本気で常々思ってます。
あ、それよりも、もう少し建設的な案があったのでした。
静穏コミュニティの構築です。
静穏? 静音? とりあえずどっちでもいいか。
静かに暮らしたい人同士でコミュニティを作って生活する。
騒音問題に悩んでいる人にとっては天国のような世界だと思いませんか?
「引っ越した先にも騒音主が……!」などという心配とも無縁。ここは静音パラダイス。
いずれは実現させよう、と、わりと本気で常々思っています。
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