騒音問題は「常識」との戦い
騒音は2種類に分けることができます。
1つは「マナー違反の騒音」。
もう1つは、言わば「マナーを守った騒音」とでも言うべきものです。
「マナー違反の騒音」というのは、誰もがそれを「騒音」だと認めるであろう騒音です。
たとえばマンションなどで音楽を大音量で鳴らす、ドアを乱暴に開け閉めする(ドアバン)、
バイクのエンジン音、ペットの鳴き声、などのことです。
これらは「マナー違反だから」悪い、と言うことができるかと思います。
「言うことができる」といいますか、そういった主張で「騒音主」を叱責することが、世間的な同意を得られやすい、という意味です。
ではもう1つの「マナーを守った騒音」とは何のことか?
これは「世間に受け入れられている騒音」と言えばいいでしょうか。
たとえば学校から周辺に響くチャイム、ちり紙交換など比較的昔から存在する移動販売、子供が遊ぶ叫び声、などです。
これらを「マナー違反である!」という理由で叱責することはできない。
むしろ、こうした物音を「騒音だ」として苦情を言うと、逆に、怒られてしまう。
曰く「それぐらいで文句を言うなんて、あんたは自分勝手だ!」などなど。毎度お馴染みですよね?
さて、この2種類の「騒音」ですが、両者には共通点があります。
実は「音」は問題にされていない、という点です。
「騒音」と言えば「音」の問題であるはずです。しかし、実のところ「音」は問題にされていない。
どういうことか?
「マナー違反の騒音」がなぜ「悪い」のかと言えば、「マナー違反だから」です。
「音がうるさいから」ではない。
表面的には「音」と「マナー違反」が一致しているので「音」の問題のように見えるかもしれませんが、
世間においてそれらへの糾弾を可能とする根拠は、実のところ、
物理的に発生している「音」ではなく「マナー違反だから」という点にあるのではないでしょうか?
断言はできませんが、種々の騒音問題に関する議論を見る限り、事実上、そういうことになっているように私には思えます。
「マナー」と言うよりも「常識」や「みんなの道徳」などと言った方がいいかもしれません。
たとえば話は変わりますが、私は「人に迷惑さえかけなければ何をするのも個人の自由だ」と、わりと本気で思っていまして、
したがって(極端な例ですが)自殺も、人に迷惑さえかけないならば、個人の自由だと思っています。
しかし「常識」や「みんなの道徳」という観点では、そういうことにはならない。
「実際に人に迷惑をかけるかどうか」ということではなく、とにかく「自殺は悪いこと」ということになっている。
それが「マナー」「常識」「みんなの道徳」ということの意味です。
したがって、そうした判断基準の下では、逆に、
たとえ「実際に誰かに迷惑をかける」としても、「常識」に合致しているならば、決して「悪いこと」ということにはならない。
それが「マナーを守っている騒音」です。
学校のチャイムやちり紙交換や子供の遊ぶ声は「常識」なのであるからして、
たとえそのために不快感に苦しむ人がいたとしても、決して「悪いこと」ということにはならない。
むしろ苦情を言うことの方が「常識のないこと」ということになってしまう。
もしもどうしても苦情を言うのであれば、「常識」として「世間」に受け入れらそうな理由を言わねばならない。
たとえば「赤ん坊を寝かしつけたばかりなのに、音のせいで目を覚ましてしまう」、
「病気のお年寄りが寝ているので静かにして欲しい」
「受験勉強の邪魔になる」
などなど。
「常識」を相手取って、こちらも別の「常識」で対抗するわけです。「常識バトル」です。
なんだかポケモンバトルみたいですね。いっけぇー! 常識! 十万ボルトだぁ! じょーぅしっきぃーぃ!
あ、いえ、本当にそういう理由で騒音に困ってる人を茶化すつもりは決してないのです。
ただ、騒音に物申す権利が、そうした「世間における常識的な価値の序列」で計られるのは変だよな、という話です。
「常識的な理由」がある場合は、一応、話ぐらいは聞いてもらえるかもしれない。
しかし、そうじゃない理由しかない場合は、話さえ聞いてもらえない。
たとえば、
「家でゴロゴロしているのにチャイムなんか聴かされたくない!」
といった言い分は絶対に受け入れられない。こういうのは「常識パワー」が弱いわけです。
「あんた、昼間っから何してるんだよ?!」などと見当違いなお説教をされてしまうのが関の山です。
「余計なお世話」と言いたいところですが、
その「余計なお世話」がまかり通るのが「常識バトル」という魔空間の特殊効果なのでしょう。
これがたとえば会社の中、などであれば、
会社の業務に関係のないことをして遊んでいる者が「マンガ読んでるんだから静かにしてくれ!」
などと言っても通用しないかもしれない。それは道理のあることです。
(ただし、その会社がマンガの書評を掲載する雑誌を発行する出版社であれば、この言い分は通じるのかも)
家の中というのはプライベートな空間のはずですから、その中で何をしていようと個人の自由であり、
「世間的に」価値のある活動をしていなければならないという義務はないはずです。
聴かされたくない音を強制的に聴かされなければならない道理も存在しないはずです。
騒音に物申すために「常識的に価値のあることの邪魔になるから」などという「言い訳」は必要ない、はず、なのです。
はず、なのですが、その「プライベートな空間における個人の自由」というものが、
「常識」という文脈では顧みられることがない。
「音」は広範囲に無差別に広がり、プライベートな空間に侵入して個人の自由を踏みにじる暴力です。
しかし「音」以前に、いわゆる「世間の常識」が個人の自由を踏みにじっている。そういう現実がある。
繰り返しになりますが、騒音の何が問題なのかと言えば、個人の自由が侵害されるから問題なのです。
音の発生源が「子供」ならば騒いでもOK、などと、そういう問題ではない。
物理的に何デシベル以上はダメだけどそれ以下の数字なら騒いでもOK、などと、そういう問題ではない。
時間を決めて、特定の時間帯はダメだけど、それ以外の時間帯なら騒いでもOK、などと、そういう問題ではない。
個人の自由というものを尊重しない、ということが問題の根っこであろうかと思います。
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