「音」というのは人を支配する道具なのかもしれない。
いつもながら騒音問題の話です。
騒音問題について人に相談しても、理解が得られないことが多いですよね。
曰く「我慢しろ、仕方ない、わがまま言うな」という例のあれです。
こういう反応を頻繁に経験していると、
日本人というのは「我慢が美徳」だと思ってる民族なんだなぁ、
と思うわけですが、
果たして、この見解は妥当なのかどうか?
たしかに、「日本人は不満を我慢しがち」とはよく言われることですので、
それなりの妥当性はあると思います。
が、それだけではないと思うのです。
「音」というものが、特に、
人をして「我慢しなきゃ・仕方ない・従わなきゃ」と思わしめる性質を持っているのではないか?
たとえば、私の知人の話です。
私は基本的に人に騒音のことで相談はしないことにしています。
理解されないことの方が多いので、無用な衝突を避けるためです。
が、先日ちょっと油断して、とある知人に、騒音のことについて口を滑らせてしまいました。
その人だったら、私の言い分を無下には否定しないだろう、と甘い期待をしていたわけですが、
やはりその期待は大甘で、知人からは「我慢しろ・仕方ない・わがまま言うな」のお説教をくらってしまいました。
しかしながら、その人が騒音問題以外の全てのことに関して普段から「我慢しろ云々」と言う人かと言えば、
そういうわけでもない。
たとえば、その人が頻繁に口にする不満が2つあります。
1つは「口内炎の特効薬が存在しないのはなぜだ!」です。
こんなにも医学が発達しているのに口内炎ぐらいすぐ治せないなんて! と。
確かにそうですよね。言われてみれば奇妙な話です。
私としては別に、この不満に反対する理由は何もないので、
「そうだねぇ、なんでだろうねぇ、特効薬あるといいのにねぇ」と返事をしています。
が、たとえば、ここで、
「世の中にはもっと重い病気で苦しんでる人もいるんだ! 口内炎ぐらい我慢しろ!」
「薬を開発する研究者や医者も忙しいんだ! 口内炎ぐらいでわがまま言っちゃいかん!」
などと言うお説教をすることも、話の流れとしては可能です。
もちろん私はそんなことは言いません。その人もそんなことは言いません。
もう1つは「傘の形が原始的すぎる!」という不満です。
21世紀にもなるのに、未だに雨の日に買い物にいくのは一苦労だ! と。
確かにそうですよね。科学技術を駆使してもっと機能的な雨具が作られてもよさそうです。
私としては別に、この不満に反対する理由は何もないので、
「そうだねぇ、なんでだろうねぇ。科学でなんとかならないのかねぇ」と返事をしています。
が、たとえば、ここで、
「雨を防ぐには物理法則から言ってあの形しかないんだ! 我慢しろ!」
「世の中には体が不自由で外にも出られない人がいるんだ! 雨ぐらいでわがまま言うな!」
などと言うお説教をすることも、話の流れとしては可能です。
もちろん私はそんなことは言いません。その人もそんなことは言いません。
ところが、この同じ人が、「音」ということになると、
「我慢しろ! 仕方ない! わがまま言うな!」と言い出す。
これは一体どうしたことか?
もちろん、サンプルがその人だけなので、これをもって「日本人とは……」といった一般的な結論を出すことはできませんが、
少なくともこの人の場合は、生来の性格や思想として「我慢が最優先!」と思っているというよりも、
「音」ということに対して、特別何か、「我慢しなければならないもの」という感覚を持っているように思えるのです。
もう一つ、私はこのとき、この人に、廃品回収車の拡声器騒音についても話をしました。
私が廃品回収車の騒音について「110番通報している人も多いんですよ」と言いました。
それに対して、その人は「得体の知れない業者が家の周りに来られたら気味が悪いからねぇ」と答えました。
警察に通報されるほど迷惑なものなのだ、という話が、その人にも伝わったかな?
と思ったのですが、よくよく考えてみると、そうではない。
その人は「得体の知れない業者が家の周りに来る」ことが問題だ、と言っている。
拡声器の騒音が問題だ、とは認めてないんです。
だからたとえば、知らない業者ではなく、よく知ってる業者(ちり紙交換など)ならば
何の問題もない、気にする方がおかしい、ということになる(実際、この人はそう言いました)。
あくまでもその人にとって「音」というものは「我慢する! 仕方ない! わがまま言わない!」として受け入れるべきもの、なんです。
なぜ「音」が、これほど特別扱いされてしまうのか?
繰り返しますが、サンプルがその人だけなので、一般的な結論は導き出せないことは承知の上です。
思うに、「音」というのは、複数の人々を一つの共同体につなぎ止めてまとめようとする性質があるのではないか?
「音」が出ていると、その「音」が届く範囲にいる人間全員が、同じ「音」を聴く(聴かされる)ことになる。
それこそが騒音の騒音たるゆえんなのですが、
一方で、同じ「音」を聴いている人間同士が共同体の仲間である、という感覚にもつながる。
私は行ったことないのですが、コンサートで観客が一体感を感じる、という話をよく聞きます。
それも「音」というものの持つ性質なのではないでしょうか。
コンサートの音楽と街の中の騒音を一緒にすると怒られそうですが、
街の中で垂れ流される拡声器の「音」も、これと同じような効果を持ってしまうのではないか?
同じ「音」を共有している人間同士が共同体の仲間というわけです。
だから、その「音」に対して不満を述べるということは、共同体に対して逆らっていることと同義です。
曰く「わがまま言うな!」ということになる。
馴染みのない業者は110番通報されるが、馴染みのある業者ならば「音」を出しても許される。
これも、「音」ということが、共同体のつながり、ということと関係していることの現れではないでしょうか。
逆に、私がこうした「音」を騒音だと感じるのも、
「音」が共同体内部のつながりを演出するツールであればこそ、かもしれません。
共同体への所属意識を強要されている感じがする。同調圧力というのでしょうか?
単に音が物理的に大きいかどうか、ということよりも、「押し付けがましさ」を感じて、それが不快なのです。
その意味でデシベルや時間帯を騒音規制の基準とするのは、ピントを外している気がします。
鳥や虫の鳴き声や、雨や風の音にはまったく苦痛を感じません。人間が出している音ではないから、だと思います。
人工的に作られた音に「押し付けがましさ」を感じます。
少々大げさに言えば「私が否定されている」と感じる。
そうですね。なにしろ「我慢しろ! 仕方ない! わがまま言うな!」ですからね。まさに「私」が否定されているのでした。
拡声器騒音の問題は、共同体の仕組みの問題なのかもしれません。
つまり個々人と共同体との関係にまつわる精神性にその本質があるのではないか?
ん? 精神性? つまりわたしがキチガイってことですか。キチガイだべー! うがー!
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