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◆◆ 思ったこと: ◆◆

        我慢は美徳じゃないというのは、多分、みんなわかっている
        
        ためしにネットで「我慢 美徳」で検索してみる。
        すると出てくるページの多くが「我慢は美徳」という観念を批判する内容のものでした。
        
        というよりも、この「我慢は美徳」というフレーズ自体がすでに、蔑称ですよね。
        批判のためのレッテルとして使われている。そういう実態がある。

        逆に「我慢は美徳」という考えに賛成の立場で書かれているページはあまり見つかりませんでした。
        少なくとも、この「我慢は美徳」というフレーズを堂々と使って
        「"我慢は美徳" に決まっておろうが! 何を寝ぼけたことを言っておるのだ、この不届き者がぁぁ!!! がぁぁ!!! GAAA!!!」
        という「常識おじさん」は、少し検索した限りでは見当たりませんでした。
        
        では、我が国の多くの人は我慢しない精神文化で日常生活をしているのでしょうか?
        そんなことはないと思います。
        
        これは私の推測ですが、
        たとえば「あなたは我慢は美徳だと思いますか?」という質問をした場合には、
        かなり多くの人が「いいえ」と答えるんですよ。
        
        しかし、だからと言って、そのように答えた人の全員が、普段から「我慢しない生活」をしているわけではないはずです。
        むしろ、ほとんどの人は「我慢は美徳か?」との質問には「いいえ」と答えるにも関わらず、
        実際には我慢しがちな日常生活を送っている。
        それが実態ではないかと、根拠はありませんが、私はそんな気がしています。
        
        「我慢は美徳か?」には「いいえ」と答える人が、
        一方では例えば「クレームを言うのは悪いことか?」には「はい」と答える。
        いや、実際にそういうアンケートを私がしたわけではないのですが、
        多分、そういう現実があると思うのです。思いませんか? 思いますよね? 同意せよ。我慢して同意せよ。
        
        え? なんですって? 「程度問題」?
        そうですよねぇ。そりゃそうです。キミは正しい。
        しかし私が気にしているのはそういうことではない。
        そういうこと、って、どういうこと?
        「程度問題」と言うことで片付くのは何か?
        それは「どの程度我慢するべきか、しないべきか?」という「程度」の問題です。
        曰く「ケースバイケースで主張すべきとは主張して、我慢すべきときは我慢すべきですよね〜、ネ〜、NE〜」という結論が得られる。
        めでたしめでたし。とっぴんぱらりのぷぅ。
        
        しかし、私が気にしているのはそういうことではない。
        
        「我慢は美徳なんかじゃない!」と、実は多くの人が思っている、にも関わらず、
        実際には我慢を強いられるケースが多い。
        どうしてそうなってしまうのか? どうすればいいのか?
        私が問題にしたいのは、そこです。
        
        
        さて、話を進める前に、少し「我慢」の種類を整理します。
        ここで言う「我慢」というのは、人間vs人間における「我慢」です。
        たとえば騒音被害とか、受動喫煙とか、サービス残業とか、
        本当はイヤなのに、相手に気を遣って我慢してしまう、という種類の「我慢」です。
        
        そうじゃない我慢というのは、自分の中で完結している我慢のことです。
        たとえば腕立て伏せをしていて、腕が疲れて限界に達したけれど、苦しいのを我慢してもう一回腕立て伏せ、みたいな。
        これは別に「美徳」でも何でもない。
        よく頑張ったね、ということにはなるかもしれませんが、
        あえて「美徳」として語り草にするような種類のことではない。
        
        つまり、人間vs人間の場合には、
        我慢が「美徳」として語り草にされる必然性がある、ということです。
        そこに闇が潜んでいるような気がします。
        
        ではそれを「美徳」ということにしているのは誰なのか?
        第一次的には、我慢を "させる側" であろうかと思います。
        事実上の強者ですね。
        本人にそのつもりがあるかどうかは別として、事実上の社会的な強者として、権利が優先される。
        「仕方なく」我慢しなければならなくなる。
        
        二次的には周囲の人々でしょうか。
        その社会的な強者の権力を権力として成立させている人々、ということですね。
        「我慢しないなんて大人げない」などといった言説を「常識」として実際に運営する側ということです。
        
        最終的には我慢させられる側が自発的にそれを受け入れるようになる。
        曰く「仕方ない」。
        
        実際、我慢するたびに、挫折感を感じるんじゃないでしょうか?
        本当は、自己主張したいのに、できない。
        苦情の一つも言うべきなのに、言えない。
        
        強者に向かって異議を申し立てる勇気を発揮できない。
        それプラス、我慢して受け入れることこそが大人の振る舞いなのだ、というような道徳観が周囲にある(あるように見える)。
        両者のコラボレーションで、結果的に「黙って我慢する」という行動がアウトプットされる。
        すると、その状況で「黙って我慢する」人間が一人増えることになる。
        「こういうときは我慢するものだ」という「道徳観」を支える根拠がまた一つ増えた。
        あるいは、我慢しない人間が少数派=変な人、ということになる事実上の根拠がまた一人分強化された。
        こうして「みんな我慢している社会」が出来上がる。
        
        だから、我慢している本人の実感としては、
        挫折感なのであって、
        道徳的な喜び、などではない。
        
        そんなわけで、「我慢は美徳」というフレーズは、
        我慢ばかりして自己主張できないことへの批判の文言として使われることになるのでしょう。
        実のところ本気で「美徳」だなどとは思っている人はあんまりいないはず。
        
        
        > 「我慢は美徳なんかじゃない!」と、実は多くの人が思っている、にも関わらず、
        > 実際には我慢を強いられるケースが多い。
        > どうしてそうなってしまうのか? どうすればいいのか?
        
        どうしてそうなってしまうのか?
        
        第一次的には、我慢させる側が、自分勝手に振る舞って、
        そして文句を言ってくるやつを「道徳的に」批難することから始まるのでしょう。
        曰く「このぐらいで文句を言うなんて心の狭いやつだ!」云々。
        
        だから、こういう自分勝手な人間が、もっともらしく理屈を言って自己正当化をするのは、
        それはもう、なにしろ自分勝手な人ですから、なかなか手のつけようがない、のかな?
        
        残念なのは第二次的な要因ですね。つまり周囲の人々。
        「苦情を言うなんて大人げない!」などと、「我慢は美徳」という道徳を作り出してしまう。
        そんな第三者は罪深い。
        
        そうした中で、最終的に本人が我慢を選んでしまうのはどうしてかといえば、
        不満のある状況に対して、異議を申し立てること自体が「悪徳」と見なされてしまっているからでしょう。
        
        不公平な話ですね。
        異議を申し立てて、その内容如何で判断されるのではなく、
        意義を申し立てることそのものが悪徳、ということになっている。みんなの大好きな民主主義ではない。
        
        表面的には内容が顧みられることがあっても、
        結論が先に決まっていたりはしないでしょうか? だって異議を言うこと自体が悪だから。
        裁判官は権力の味方なのでした。
        
        
        どうすればいいのか?
        
        どうすればいいんでしょうね?
        わかりません。
        わかりません、が、よろしくない状況だとは思う。確実にそう思う。
        
        誰かが我慢を強いられている、という状況が、とにかく、よろしくない。いいはずがない。
        で、そこで「お互いさま」だとか何だとか、世間の常識おじさんたちは言うわけですが、
        どうでしょうね? 実際。
        多分ですけど、実際、不公平なんですよ。
        ケースバーケースと言えばそれまでですが、実際、どうです?
        「お互いさま」とか言って、本当に「お互い」ですか?
        実際、ほぼ一方的だったりしません?
        だって私、喫煙しないし。明らかに「お互いさま」じゃないです。
        しかし、それを、あれこれと屁理屈を並べて誤魔化すんですよね?
        「おまえだって気づかないところで人に迷惑かけてる」とかなんとか。
        こんなの屁理屈ですよ。人に我慢を強いるために言っている。
        しかしながら、ここで私のような根っからの善人は、こうも考えてしまう。
        「私はタバコの煙があると我慢しなきゃならないけれど、この人は喫煙せずにいる状態が "我慢" なのではないか?」
        ああ、こんなふうにまで考えてしまうなんて、私ってなんて心優しいのでしょう!
        「おまえだって人に迷惑かけてるくせに!」と煙を吐きながら怒鳴り散らす人は多分そこまでは考えてない。
        その場で私を煙に巻いてやり過ごせればそれでいいとしか考えてない。
        でも! 私のような根っからの善人は、自分から、そこまで考えてしまうのですよ。そして結果的に譲ってしまう。
        
        だけど、譲れば譲るほど、「我慢するべき!」という世間の常識に加担することになってしまう。
        私と同じように我慢を続けて苦しんでいる人にも、さらなる我慢を強いることになってしまう。
        間接的に、加害者の味方をすることになってしまう。
        だから「我慢は悪徳」なのです。

        だけど……。
        どうすればいいのかな? どうすればいいのかな?
        
        
        >「苦情を言うなんて大人げない!」などと、「我慢は美徳」という道徳を作り出してしまう。
        
        「我慢は美徳ですか?」に「いいえ」と答えるのであれば、
        それを実践していきたいところです。
        
        自分のためというよりも、世の中の雰囲気を変えるために。
        世の中の雰囲気というのは、つまり「なんだかみんな我慢強いみたいで、我慢するのが正しい大人ってことなのね???」
        っていう雰囲気。その雰囲気を、変えていきたい。
        
        しかしなぁ。
        こういうことを言うと、調子に乗るのは、むしろ、「迷惑野郎」の方なんじゃないのか?
        「"我慢は悪徳" だからな! ヒャッハー!」と、今まで以上に傍若無人になってしまうのではないか?
        
        いや、でも、それだったら、人に我慢を強いるための屁理屈は言えなくなるんじゃないでしょうか?
        「こっちだって我慢しませんよ?」と、対向する余地が生じるのではないか?
        どうでしょうね? 「迷惑野郎」の行動は予測不可能ですからね。
        やつら、信じられないようなミラクルブローをかましてきますからね。油断大敵です。
        
        
        何の話をしてたのでしたっけ?
        
        「我慢は美徳」じゃない、というのは、多分みんなわかってる。
        にも関わらず、我慢が常態化している。
        それはよくない。
        どうすればいいのか?
        
        という話でした。
        いや、という話というか、最後の「どうすればいいのか?」は宙吊りのままなのでした。
        
        どうすればいいんですか? 教えてください! もう我慢ならん!
        
        
        
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