「業者」が嫌われるということ
たとえば廃棄物を垂れ流すとか、必要以上に資源を搾り取るとか、
「業者」というのは何かと問題の元になる存在です。
騒音問題など日常生活に直接影響のあるトラブルにしても、
相手が業者である場合は相手が個人である場合とはやや性質が異なります。
それは、苦情を申し入れたときの相手の反応に端的に表れます。
「こっちだって仕事なんだよ!」というやつです。
まったく理由として成立していないわけですが、つまり、
話が通じない
ということです。
なぜ話が通じないかと言えば、個人ではないからです。
話をしている当の本人は個人以外の何者でもないのですが、しかしその事実は無視されている。
そこにその人自身がいない。
たとえば上司の命令や顧客の注文(利益)で行動しているのであって、その人自身の意志で行動していない。
いや、厳密に言うならば、上司や顧客の命令に従うという決定をしているのは自分の意志、ということになるのですが、
それを本人は認めていない、ということです。自分の行動の理由が自分の意志であるとは認めていない、ということです。
自分の意志を放棄している。自分が自分であることを放棄している。
だから会話は不可能なんです。何を言われても根本的には「俺に言われても困る」ということになってしまう。
会話が成立しない。
会話とは人間と人間の間で交わされるものです。
それが成立しないということは、相手は人間ではないということです。
そこにいるのは人間であって人間ではない。
しかし人間です。
だから人間なのに人間ではないというのは嘘をついているということです。
嘘はいけません。
人間であることをやめてはいけない。
>「こっちだって仕事なんだよ!」というやつです。
恐るべきはそれを口にする本人ではなく、それを擁護する周囲の声です。
「あの人だって仕事なんだから仕方がない」というやつです。
挙句に「あの人だって仕事で頑張ってるのに、文句を言う方が不道徳だ」と矛先が逆転する。
善と悪が入れ替わる。こんなに恐ろしいことってありません。
悪がその力を発揮するのはそれが悪であることを誰も認めない場合です。
それが悪であることを誰もが認識している限り、その悪は悪としての真価を発揮することはできません。
誰もが悪だと思っているような悪は恐るるに足らない。
恐るべきは悪であることを人が認めない悪です。
そのとき悪は存分にその力を発揮してしまう。
だからこそ、こう言わねばならない。
「そんな仕事なら辞めてしまえ!」
重ねてこうも言わねばならない。
「そんな仕事するぐらいなら飢えて死ぬ方がマシだ!」
実際、これは本当のことです。
なぜなら、人間であることを放棄してしまっては生きている意味がないからです。
それは死ぬよりも悪いことです。
他人に迷惑をかけるというだけではない。それ以上に、自分がこの世に生まれてきたことに対する冒涜です。
>「そんな仕事なら辞めてしまえ!」
上司や顧客からの要望を無視してでも、今すぐにでも辞める方がいい。
その場で放り出して帰ってしまう方がいい。
このようなことを言うと、「それはワガママである」との批判を免れ得ないでしょう。
つまり、自分の意志を放棄して役割を果たすことこそが勤勉で正しい、との認識です。
しかし考えてみてください。
自分の意志を放棄することがどうして正しいことですか?
自分の行動はいつだって自分の意志が決めている。それを否認することがどうして正しいことですか?
あるいは人はこうも言うでしょう。
「仕事を途中で放り出すのは意志が弱いことである」
だから、常にこう問わねばならない。
「自分の本当の意志はどちらなのか?」
他人の声に惑わされずに、自分自身の意志に耳を傾けて確かめなければならない。
>「そんな仕事するぐらいなら飢えて死ぬ方がマシだ!」
より建設的に言うならばこうです。
そんな仕事を生業としなくても生きていけるような社会を目指したい。
人間が人間であることを放棄しなくても済む社会です。
一人一人の人間が幸せでありますように。
願いはいつだってそこなのであり、見失ってはならない。
たとえ具体策が思い浮かばなくても、自信を失くす必要は一つもない。
そんなことは根本の願いを否定する理由には決してならない。
根本の願いを否定してしまっては、その上に何を築き上げても生きている意味がない。
この世が「死んだ方がマシ」であるような世の中であることを私は望まない。決して望まない。
> たとえ具体策が思い浮かばなくても、自信を失くす必要は一つもない。
「だったらどうしろって言うんだよ!」
だとか、
「仕方ないじゃないか!」
だとか、
「対案を示せ!」
などと、誰かが必ず言うでしょう。
だからと言って心をねじ曲げる必要は全くない。
むしろそのように言ってくる者は、具体案を示したとしても実行しようとはしないでしょう。
そのように言う者が件の「業者」であればもちろんのこと、黙認しようとする第三者であっても、
あなたに具体案がないことを理由にあなたを否定する者は、あなたが具体案を示してもそれを拒否するでしょう。
具体案を拒否し、なんだかんだと理由をつけて、それまでと同じ行動を繰り返すでしょう。
なぜなら人間であることをすでに放棄してしまっているからです。
再び自分が人間であることを認めるのは必ずしも簡単なことではない。
人間を辞めている間に自分がしたことを、「実際に自分がしたことである」と認めなければならなくなるからです。
人間を辞めている時間が長ければ長いほど、人間に戻ることが難しくなってしまう。
だからと言って人間であることを諦める義務などどこにもないし、
そもそも人間であるという事実は変わることがない。
つまり、具体案があるとかないとかいうことは、単なる表面的なことに過ぎません。
具体案そのものは、性能のいいコンピューターがあれば計算して求めることができるかもしれません。
しかし、そもそもそれを望んでいるかどうか、実行しようとするかどうか、は、人間の側の問題です。
「本当のところ何を願っている人間であったのか?」
自分自身の側でそうした根本の願いが見失われているならば、いくらいい具体案があっても意味はありません。
自分自身の側でそうした根本の願いが見失われていないならば、人間であることを放棄するよりははるかにいい。
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