スピーカーの問題点は人間の意志の制御を離れてしまうこと
スピーカー騒音の話。
それは誰の声なのか?
確実に声あるいは音は出ている。
なのに、「それは私の声だ」という「私」がどこにも存在しない。
すなわち、誰も責任を引き受けない。
「うるさいから止めてくれ」と言ったときに、応答する人間がいない。
自分の意志で鳴らしている人間がいないからです。
「鳴らすことになっているから鳴らしている」という定形文の一点張りで、対話が成り立たない。
音そのものがうるさい、ということに加えて、そうした「人間の不在」が生じている。
「音をうるさい」と感じているのは人間です。そこには確実に「私」がある。
人間が、音を「うるさい」と感じている。
しかし、それに応答する人間がいない。
相手はスピーカー、あるいは、スピーカーを鳴らすことになっている、という鳴らしている側の規則です。
「私が自分の意志でその声(音)を出している」という「私」がどこにもいない。
だから、苦情を言っても定形文しか返ってこない。
対話が成立しない。
結局、人間が取り残される。「うるさい」と感じている人間が取り残される。
スピーカーは人間を否定する装置だ。
「スピーカー」ってものが、かなり特殊だと思う。
単に音の大小ということではなく、非常に神経に障る。
スピーカーにはそういう性質がある。
それはなぜか、というのが上記の話。
防災無線しかり、トラックのボイスアラームしかり。駅やデパートでの注意喚起放送しかり。選挙の名前連呼しかり。
選挙はさすがに録音したテープを回しているだけということはないのかもしれませんが、
同じフレーズをひたすら繰り返しているという点では文字通り「機械的」です。
しかも声を聞く限り、候補者が自分で読み上げていないケースが大半のようです。つまり「私自身の声」ではない。
しかし、最終的には人間の意志の問題であるはずです。
たとえスピーカーを使うにしても、一人一人の人間が自分自身の意志をなくさないならば、問題は深刻化しないはずです。
スピーカーを使う使わないではなく、人間が意志をなくすことが問題なのだと思います。
私はここにいる。
自分が存在している、という事実。
その事実を無視しない。
人間が自分自身であることを放棄したとき、
人間の世界は人間を幸せにする世界ではない何かになってしまう。
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