TOP > テキスト目次 > スピーカーの問題点は人間の意志の制御を離れてしまうこと



◆◆ 思ったこと: ◆◆

        スピーカーの問題点は人間の意志の制御を離れてしまうこと
        
        スピーカー騒音の話。
        
        それは誰の声なのか?
        確実に声あるいは音は出ている。
        なのに、「それは私の声だ」という「私」がどこにも存在しない。
        すなわち、誰も責任を引き受けない。
        
        「うるさいから止めてくれ」と言ったときに、応答する人間がいない。
        自分の意志で鳴らしている人間がいないからです。
        「鳴らすことになっているから鳴らしている」という定形文の一点張りで、対話が成り立たない。
        
        音そのものがうるさい、ということに加えて、そうした「人間の不在」が生じている。
        「音をうるさい」と感じているのは人間です。そこには確実に「私」がある。
        人間が、音を「うるさい」と感じている。
        しかし、それに応答する人間がいない。
        
        相手はスピーカー、あるいは、スピーカーを鳴らすことになっている、という鳴らしている側の規則です。
        「私が自分の意志でその声(音)を出している」という「私」がどこにもいない。
        だから、苦情を言っても定形文しか返ってこない。
        対話が成立しない。
        結局、人間が取り残される。「うるさい」と感じている人間が取り残される。
        
        スピーカーは人間を否定する装置だ。
        
        
        「スピーカー」ってものが、かなり特殊だと思う。
        単に音の大小ということではなく、非常に神経に障る。
        スピーカーにはそういう性質がある。
        それはなぜか、というのが上記の話。
        
        防災無線しかり、トラックのボイスアラームしかり。駅やデパートでの注意喚起放送しかり。選挙の名前連呼しかり。
        選挙はさすがに録音したテープを回しているだけということはないのかもしれませんが、
        同じフレーズをひたすら繰り返しているという点では文字通り「機械的」です。
        しかも声を聞く限り、候補者が自分で読み上げていないケースが大半のようです。つまり「私自身の声」ではない。


        しかし、最終的には人間の意志の問題であるはずです。
        たとえスピーカーを使うにしても、一人一人の人間が自分自身の意志をなくさないならば、問題は深刻化しないはずです。
        スピーカーを使う使わないではなく、人間が意志をなくすことが問題なのだと思います。
        
        私はここにいる。
        自分が存在している、という事実。
        その事実を無視しない。
        
        人間が自分自身であることを放棄したとき、
        人間の世界は人間を幸せにする世界ではない何かになってしまう。