卑屈という悪循環
卑屈になっている人の、その卑屈さを批判すると、本人はますます卑屈になってしまう。
「ですよね。やっぱりどうせ私なんて」の再帰的無限ループ。
出口はどこにあるのか?
だから、理論上、出口はどこにもない。再帰的無限ループだもの。
さて、こういうことを考えたとき、同時に必ず気にかかってしまうことがあります。
"出口" を見つける必要があるのか? "出る" 必要があるのか?
放っておけばいいんじゃないの?
卑屈節にハマりこんで中毒になってるやつのことなんて、勝手に卑屈ジャンキーになっててもらえば、それでいいんじゃないの?
いや、でも、なんか、イヤなんですよ。
たとえば誰かが卑屈節を口にしている場面に遭遇する。
そんなこと言わなくていいのに、って思う。思いますよね? 思え。思ってください。
だけど、実際にそれを言うと、それもまたその人の卑屈ループに取り込まれてしまう。
なんだかんだとロジックを展開して、
結局「だから私はダメな人間で、だから "こう" なのだ。わかってますわかってます。はいはい悪かったね」となる。
何を言っても無駄。むしろ言えば言うほど卑屈ループを加速させてしまう。
なるほど。放っておくしかない。
でも、なんか、イヤなんですよ。イヤったらイヤ。
なぜでしょう?
> だけど、実際にそれを言うと、それもまたその人の卑屈ループに取り込まれてしまう。
> 何を言っても無駄。むしろ言えば言うほど卑屈ループを加速させてしまう。
あらゆる言葉や観念が卑屈ロジックに吸収される。そういう空間がある。
あらゆる言葉や観念が卑屈ロジックに利用されてしまう。
言葉や観念が卑屈ロジックに汚染されてしまう。
巻き込まれる。
竜巻です。
あらゆる言葉や観念を汚染して拡大し続ける竜巻です。ダークトルネードです。
そしてまたこういう文章もおそらく、
"ですよね、私の存在なんて迷惑なんですよね" といったロジックに吸収されてしまう。
"前向きになれないダメ人間ですから" とかなんとか言うんでしょう? ダークトルネードおそるべし。
どうしよう?
かと言って誰もが "前向き" で "明るく" て "ハイテンション" な社会というもの気持ち悪いわけですけども。
ということは結局、"いろんな人がいる" → "そういう人もいる" で放っておくのが最善手、
ということになってしまうのでしょうか?
> かと言って誰もが "前向き" で "明るく" て "ハイテンション" な社会というもの気持ち悪いわけですけども。
やたらと卑屈なのも、むやみに前向きなのも、どっちもおかしいことですよね。
そりゃそうです。
ただ、"卑屈" の方は、冒頭で書いたような、無限ループにハマリやすい性質があるような気がするのです。
一方、"前向き" の方は、そういう歯止めの効かない無限ループには、ならない気がする。
そんなことはないですか? どうでしょう。必殺! ホーリィトルネードぉぉぉ!! やっぱトルネードかよ。
人間の精神状態は揺れ動いているわけで、
あるときは卑屈な気分になったり、あるときはハイテンションになったり、すればいいと思うのですが、
卑屈の側には、そういう、無限ループのブラックホールが潜んでいる。
そこが恐ろしいところだと思うのです。
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