意識は他人と関わるためにある?
もし今この場に私以外の誰かがいたら、私は居眠りするわけにはいかない。
ふと、そんなことを思いました。
なるほど。眠ってしまうと私は他人と関わることができない。
この場に人がいて、その人にとっての他人であり続けるためには、私は意識を明晰に保っていなければならない。
つまりこの場合の意識とは、他人からの呼びかけを受けて応答するためのもの、ということですか。
いや、それはおかしい。
だって、それだけなら、むしろ、私に意識がある必要がない。ロボットで充分だ。
私が他でもない "この私" という自己意識であること。
そのことの意味は他人と関わること、ですか? 本当に?
> なるほど。眠ってしまうと私は他人と関わることができない。
> この場に人がいて、その人にとっての他人であり続けるためには、私は意識を明晰に保っていなければならない。
それは、他人と共有しているこの世界に私がいる場合、ということですね。
ここでは、(単に)そういう状態を指して "意識がある" という言い方をしている。
夢の世界にいるのではなく、ということですね。
その意味では、目覚めている間は、夢の世界のお友達とはお話できないわけです。
他人と関わる、ということを自己意識の目的、というふうに考えてしまうのは、おかしいのかもしれません。
意識は道具なの? ということです。違いますよね。ええ、違います。
他人と関わる、ということを道具的な意味での目的、というふうに考えるのはおかしい。
だから、そうではないのですが、ですが、機能として、そういうものがある、とは言える気がする。
それは意識の機能、なの?
いや、まてよ。やっぱり目的のような気もしてきました。目的の一つ。
単に応答するだけならロボットでもいいのですが、
にもかかわらず、ロボットではなく "この私" がいる。"そこのあなた" がいる。
そのことに意味がある。
"この私" がいるから、"そこのあなた" と関わることができる。
なるほど。意識あってこそ、ですね。
今日もあなたが幸せでありますように。
私の意識があなたの幸せを祈るのです。
あなたの意識もきっと誰かの幸せを祈っていると思うのです。
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