理性と感情と、そして "もののけ"
人間の精神を言い表す言葉として "理性" と "感情" という二元論がよく使われます。
が、これだけでは不充分だと私は思います。
私はここにもう一つ別方向の軸を加えて考えたい。それは何かというと、"もののけ" です。
■ 理性でも感情でもない "何か"
理性にしても感情にしても、どちらも結局は人間のものです。
しかし人間はときとして、人間の言葉では説明がどうしてもできないような言動をとることがある。
あれこれと理屈をつけてみたり、"人間てのはいい加減なもんだ" などと言ってみたりするわけですが、
やっぱり、どうしてもそれでは言い表し切れないものが残る。
"もののけ" としか言いようがない。
これは決して珍しいことではありません。むしろ日常的なことです。
私たちの日常はむしろこうした "もののけ" にこそ根深く影響されていると言っていいでしょう。
■ いくつかの例
たとえば防災無線の騒音。
本当の非常時以外の目的で、なぜあんなにも頻繁に、無意味な大音響をまき散らすのか?
点検のためだとか何だとか理屈をつけて行政は決してやめようとしませんが、これは全く "理性的" ではない。
"理性的に" 考えれば、無駄なことをしているということは簡単にわかるはずです。
かと言って "感情的" なのかと言えば、そういうわけでもない。
行政の担当者がヤケを起こしてわめき散らしている? そういうことではない。多分。
毎日大音響をまき散らすと、何かの利権で誰かが儲かるようになっている?
大掛かりな設備ですから何らかの利権はあってもおかしくありませんね。しかし、だからと言って毎日大音響で鳴らさなくてもいいはずです。
つまり、欲望、ということでもない。
では一体何なのか?
理性や感情あるいは欲望などといった "人間の言葉" では説明がつかない。
別の例。
何度注意を受けても、行動が元に戻ってしまう人がいる。
マンションの管理会社から "通路に私物を置かないように" と何度も通達が出ている。
通達が出ると、一時的には私物を置くのをやめる。
が、何日か経過すると、徐々に元通りの生活に戻ってしまう。
通達を受けて、しかも一時的には従ったのだから、"知らなかった" などということはない。
"通路に私物" に限らず、いわゆる迷惑行為全般において、同じようなことは普遍的に報告されているようです。
"元に戻る"。
一度は伝わったはずのことが、なぜ "元に戻って" しまうのか?
これを理性や感情といった "人間の言葉" で説明できるでしょうか?
難しいと思います。
理性のせいか? たとえば、何か、考え方が変化して、"やはり元通りの行動が正しいノダ!" との結論を得た、とか?
それだったら、注意を受けるたびにそのときだけ迷惑行為をやめる、という行動と矛盾します。
"考え方" として "元通りの行動が正しいノダ!" と思っているのであれば、人に言われたときだけ行動を変えるのではなく、
行動は一貫しているはずです。
だから理性の問題ではない。
では感情?
注意を受けたときだけ "ヤバイ!" などと思って言うことを聞くけれど、
時間が経つと "コンチクショー!" という怒りが沸いてきて "言うことなんて聞くモンカー! ぷんすかぷんすか!"
という感じでしょうか?
どうなんでしょう? まるでマンガですね。
うん。一種のマンガとして、そういうキャラを思い浮かべることは可能です。
しかし、そんなことで社会生活が営めるものでしょうか? 小さな子供ってわけじゃないんですよ?
普段何をしてる人なのかは知りませんが、それなりに大人の顔をして生活をしている人なんです。
だからおそらく、その迷惑行為以外の場面では、まともな社会人として振る舞っているはずです。
ここに矛盾がある。パズルのピースが合わない。
時間が経ったせいで忘れてしまった?
それはありえません。
これが、たとえば円周率を100桁暗記する、といったことであれば、
一度は頑張って覚えたけれど、時間が経つと忘れてしまう、ということはあるでしょう。
しかし、一度は覚えた、あるいは覚えようとした、という出来事そのものは忘れないはずです。脳に障害があるのでない限り。
だから注意を受けたことを、そういう意味で "忘れる" などということは、ありえない。
もしありえるんだとしたら、それこそ社会生活は営めない。
あるいは、営んでいるということの矛盾がより根深い。
■ とりあえず "もののけ" とでも言っておく
理性でもない。感情でもない。もちろん脳の障害でもない。
人間のことを言い表すための言葉では表現しきれない "何か" がある。
それを私はここで "もののけ" と表現しました。
オカルトのようでバカバカしいと思うかもしれません。
じゃあ、そうじゃない言葉で人間のことを言い表しきれるのか?
どうしても無理があるんです。
従来からある人間についての言葉では言い表せない "何か" がある。
そのような "何か" の存在を想定する方が、むしろ自然なような気がします。
いわば精神的ダークマターです。
見えないけど、ある。
それを言い表す言葉を誰も知らない。でも、確かに存在している。
無知を認める。
■ "もののけ" の存在を認めることの意義
振り回されないため、です。
私は人間です。あなたも人間です。
しかしそこに人間ではない何かが関わっている。
理性だけでは割り切れない。感情だけでも割り切れない。
第三の(あるいは第0の)何かがあって、
私やあなたの日常生活に深く関わっている。
こうした "もののけ" が私やあなたといった人間を幸せにしてくれるものであればいいのですが、
そうとは限らないようです。むしろ、人間にいたずらをすることの方が多いのではないか?
いずれにせよ、私もあなたも人間なわけでして、であるならば、人間として幸せでありたいものです。
人間以外の何かに弄ばれるのは避けたい。
言動に気をつけよう。
日常生活の中で些細な行動をする。
私がそれをするのはなぜか? あなたがそれをするのはなぜか?
したいから? 本当にそんなことをしたいと思っている?
しなきゃいけないから? 本当にそんなことをしなきゃいけない?
よーく考えて。心の声を聞いてみて。
それをするのはなぜ?
私の心は、あなたの心は、本当にそれを求めている?
"もののけ" に操られているのではなくて?
人間であるために。
世界を、人生を、人間の手に取り戻そう。
人間の人間による人間のための世界を。
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