自分勝手 / 他人勝手 / もののけ勝手
「自分勝手」の反対言葉は何か?
「他人勝手」でしょうか?
つまり、自分の欲求を取り下げて、他の人のために行動する、ということですね。
では一体、誰が幸せになっているか?
実は誰も幸せになってないかもしれない。
自分でもなく、他人でもなく、どこにも存在しない何か、のために行動してしまっているのではないか?
「どこにも存在しない何か」
たとえば、「もののけ」とでも言っておきましょう。
もののけ勝手。
■ 「自分勝手」はダメだけれど……
「自分勝手」なのは悪いことである、と、誰もが幼いときから教えられる。
では、自分勝手でさえなければ、それは他人勝手なのか?
自分以外の誰かを利することとなり、社会がうまく回り、結果的に自分にとっても快適な世界となる。
自分勝手でさえなければ、そのようにうまくいくのか?
残念ながら、おそらく、そう簡単にはいかない。
自分勝手でない場合、何勝手になるか? と言えば、2通りの可能性があるからです。
他人勝手 と もののけ勝手 です。
自分勝手はよくない。その通りですね。
では自分勝手をやめたとする。ではそれで何勝手になるか?
運良く他人勝手になってくれればいい。
しかし、残念ながら、もののけ勝手になってしまうかもしれない。
自分が放棄した "勝手" が、実在する誰にも届かず、"もののけ" に食われてしまうかもしれない。
そしてそういうケースは、思いのほか多いようです。
むしろ、よほど気をつけない限り、もののけ勝手になるのがデフォルトなのではないか?
■ 誰も得をしていない。"もののけ" だけが得をしている。
正しいことをしているつもり。
そのようにすべきである、から、そうしている。
社会的に要請された価値あることをしている、との認識。
ゆえに、そこへ文句を言ってくるやつは、社会の敵、ということになる。
決して「自分勝手」なのではない。
むしろ、教えられた価値観を懸命に体現している。
それは「俺だって苦労してるんだ」といったような「自己弁護」の言葉として表面化するかもしれない。
あるいは周囲の者が弁護して「あの人だって頑張ってるんだから(だから大目に見るべきである)」とった言葉となって表れてくるかもしれない。
それは決して「自分勝手」なのではない。むしろ正反対なんです。真逆です。
したがって、そこへ文句を言うことこそが「自分勝手」ということになってしまう。
誰も得をしていないのに。得をしているのは "もののけ" だけなのに。
> むしろ、教えられた価値観を懸命に体現している。
それはどのような「価値観」か?
いずれにせよ、自分から進んで実行したいと思えるような価値ではない。
もし、自分から進んでやりたいと思うようなものであるならば、少なくとも本人にとっては、それは快適な体験となる。
その場合、これは「自分勝手」なことです。
が、これはそうではないのでした。
自分自身は、実は、そんなこと望んでない。しかし、社会的な価値としてそういうものがあり、それを体現せねばならない。ゆえに(無理をして)する。
つまり、それは、人を不幸にする「価値」です。
人が、人を不幸にする「価値」のために行動する。そういう輪がここに生じる。
この輪を形成している誰一人として「自分勝手」などではない。
もし「自分勝手」であるならば、自分たちを不幸にするような「価値」のために行動するはずがありません。
これはそういう輪です。
したがって、こうした輪の中にあって、そこで信奉されている自分たちを不幸にする価値、に異を唱えることは、
まさに、「自分勝手」なこと、として攻撃の対象となってしまいます。
「こんなことはバカげている。やめよう」と言うことができない。
人間の人間による人間のための社会を作ることができない。
だが、それは、できなければおかしい。
なぜなら、ここは、人間の世界だからです。
人間の世界を人間の手に取り戻そう。
■ 今日もあなたが幸せでありますように
自分勝手はよくないことですね。
しかし、自分勝手をやめたとしても、それがもののけ勝手になってしまっては意味がない。
さらにそれを「いいことなのだ!」と主張して他人にも強要し始めると被害が拡大する。
誰も幸せになれない。
でも「自分勝手はダメなことだから……」誰も逆らえない。もののけ様の思うツボです。
人間の幸せがもっとも大事です。
今日もあなたが幸せでありますように。
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