社会は大規模なコックリさんなのではないのか?
コックリさんやそれに類する行為は大体どれも、ある程度の多人数で行うことになってますよね?
多人数で行う、というところがミソなのでしょうね。
1人であるならば、コインを動かしているのは自分に決まっている、ということになってしまいます。
2人の場合も、私には動かす意志がないから相方の意志に決まっている、ということになってしまいます。
自分が自分の意志で動かしていないことは自分が一番よくわかっている(はず)ですから、
自分の意志じゃないなら相手の意志に決まっている。否定するならそれは嘘だろう、ということになります。
3人以上になって、ようやく責任の所在があやふやになってきます。
私、あなた、彼or彼女。
三人称の人格が登場することで、責任の所在を誰でもない誰かに押し付けることができるようになります。
多人数で行うことで責任の所在があやふやになる。
コインを動かしているのは自分の意志ではない。
では一体誰の意志なのか?
わからない。
でも現にコインは動いている。
そうした「個人としての意志の不在」が、
そこにいる誰でもない何らかの存在の意志が入り込む隙となる。
そこに参加している誰か1人でも「私が私の意志で動かしてます!」と自分の責任において宣言したならば、
もう、そこで行われていることは、コックリさんでもなんでもない。
しかし、誰も責任を引き受けない場合はどうなるか?
誰からも見捨てられて行き場を無くした責任はどこへ行くのか?
行き場がないのだから仕方がない。コックリさんに召し上げられてしまう。
もう一度言います。
誰か1人でも「私の意志だ!」と宣言して責任を引き受けるなら、
コックリさんが入り込む余地はなくなります。
私は私です。そして、あなたはあなたですよね。
コックリさんなんかに取り付かれてる暇はない。
この宇宙の何者も私の代わりに私として生きることはできない。あなたの代わりにあなたとして生きることはできない。
さて、コックリさんのような占いについては「危険だからやってはいけない」とよく言われています。
私もそう思います。いや、やるのは自由だと思いますが、危険だとは思います。
(「私は私の意志で動いている」という素朴な日常感覚に揺さぶりをかける儀式なのだと思います。そりゃあ危険だ!)
ここからが本題です。
「コックリさんなんてやらないよ」と言っているあなた。本当ですか?
実は、気付かないうちにやってしまっているかもしれません。
気付かないうちに。
この社会の一員として生活していること自体が
大規模なコックリさんに参加しているようなもの、と言えるかもしれません。
考えてもみてください。
私たちは会社や部活、家族あるいは国家といった大小様々な規模の組織を作って生活していますよね。
社会で生きるということは、そうした組織の一員として生きる、ということです。
好むと好まざるとに関わらず、社会に身を置いている限り、なんらかの組織の一員である、という事実から逃れることはほとんど不可能です。
この世に存在していること自体が、コインの上に指を置いているということに他なりません。
コイン=組織。
組織が、まるで独自の意志を持っているかのように、その中にいる1人1人の意志を無視して動く。
私がその一員であるはずの組織が、私の意志を超えて動いてしまう。
私の意志じゃないとしたら、隣にいるあなたの意志? あなたは首を横に振る。誰もが首を横に振る。
紙の上に文字や記号を書いて数人で行うコックリさんなんかとは比較にならないほど大規模なバージョン。
コックリさんでさえ悪くするとそれなりの騒動になるというのに、
この大規模なバージョンでは一体どんな恐ろしいことが起きるのでしょう?
コックリさんに対する典型的な疑いの声として「実は誰かが動かしてるんじゃないの?」というものがあります。
社会の不条理に対する典型的な不満の声として「きっと誰かが儲かるようになってるんだろうなぁ」というものがあります。
さんざん危険性が指摘されていながら、原発が廃止されないのはどうして?
誰も望んでいないはずなのに、戦争がなくならないのはどうして?
誰かが儲かるようになっているから?
陰謀を企てている組織がある?
そう言っておくと、わかりやすい。いかにももっともらしい。
そうかもしれません。そうじゃないかもしれません。
本当のところは確かめようがない。
儲かるようになっている誰かなんて、本当はいないのかもしれません。
誰もが組織の一員として動いた結果に過ぎないのかもしれません。
誰にも引き受けてもらえず行き場を失った責任はどこへ行くのか?
誰でもない何者かに没収される。
それは何者?
コックリさんよりも強力な大魔王でしょうか?
だけど、話はコックリさんのときと全く同じです。
誰かが「私の意志だ!」と言えば、コックリさんも大魔王もいなくなります。
人の意志があるところでは、彼らは存在することができません。
私たちにとって、もっとも恐ろしいのは個人としての意志の不在です。
そこが、私たちの誰でもない何者かの意志が入り込む隙になります。
私たちの誰でもない何者か、とはどういう存在でしょうか?
わかりません。
わかりません、が、それは、私たちの幸せを願ってくれる存在でしょうか?
そうであってくれればいいです。が、あまりアテにできるとは思えません。
1つ言えること。
私たちは、私たちの幸せを願っているはずです。それはアテにできる。なぜなら自分自身のことだから。
その私たちの、1人1人が、しっかりと、それぞれに意志を持つこと。
そうすれば「なんだかよくわからない存在」の意志が入り込んで、おかしなことにされてしまうことはないはずです。
常に目を開けていよう。
そして、できれば、
その「なんだかよくわからない存在」にも「なんだかよくわからない存在」なりに幸せであって欲しいですね。
今日もあなたが幸せでありますように。
今日もコックリさんが幸せでありますように。
今日も大魔王さんが幸せでありますように。
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