人の不幸が面白いわけじゃなく、
飽き飽きしている秩序を壊して欲しいという期待感ではないか?
逆のケース、つまり、問題なくうまくやっている、という場合。
これはつまり、現行の秩序がつつがなく運行されている、ということ。
「それじゃあつまらん!」というわけです。
自由意志への指向?
秩序に問題がなく、つつがなく運行されているということは、
そこに自己の意志をさしはさむ余地がないということ。
私は神の一部。
そこからの逸脱を望む。
間違いを犯す自由を!
ただ、その第一歩を踏み出すのが自分自身ではない(他人の不幸)、というのはどういうことか?
他人の失敗を見て、自分の中で刺激される期待感。
自分自身は、第一歩となることができずにいる。
恐怖に支配されて?
秩序の中で自己自身を否定する。
間違いを犯すことを、秩序から逸脱することを恐れている。
つまり、人の不幸を見たがる心とは、
現行の秩序に倦んでいながらも、そこから逸脱することを恐れている心が、未だ見ぬ秩序を指向する動き、と見ることができるのではないか?
あれ? なんかこうして言葉にしてみると、当たり前っぽいですね。
いや、つまり、何が言いたいかと言うと、
別に、人が嫌な思いをしていることそれ自体が嬉しいということではないんじゃないか、ということです。
人が悲しんだり苦しんだりしている様子を見るのが楽しいというわけではない。
では誰もが何の問題もなく日々を過ごしていればそれでいいのか?
それは結局、現行の秩序が「問題ない」として、続いている、続いてしまう、ということ。
それは何か違う気がする。嘘っぽい。
そこからの突破口が欲しい。
人が失敗している姿に、何らかの突破口を求める。
もう一度敢えて繰り返します。
人が不幸になっている様子それ自体が自分のヨロコビというわけではない。そのはず。そういうのは悪魔に任せておく。人間がする必要はない。
モノを欲しいとは思っても、万引きしたいとは思わない。
自分の本心を勘違いしない。
できるだけルシファーとかアーリマンとか言わずに書いてみました。
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