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◆◆ 思ったこと: ◆◆

        私がいるのが悪い?!
        
        > 一切の関係を排したところには無条件の愛が静かに横たわっている。
        
        これね、うっかりするとね、
        「我を張ってるから悪い」みたいなお説教につながりかねない気がしてきました。
        
        > [B]:私の利害と衝突する場合に、見過ごすわけにいかなくなってくる。
        
        「嫌い」「憎らしい」などと思うのは自分との利害関係に "こだわって" いるからだ、
        というふうに解釈すると、そのようなお説教も出てきてしまうでしょう。
        
        何か不満を訴えている人に対して、
        「そんなふうに思うのは、キミが "我を張ってる" からイケないんだ」
        と、お説教でレスポンスを返す。
        
        これは、いかがなものでしょう?
        控えめに言って「手厳しい」。
        
        そもそも不満が訴えられている。心が傷ついている。
        そこへさらに、お説教攻撃です。
        「おまえが欲張りだからそうなるんだ!」
        「自分勝手な欲張りめ!」
        「自業自得だ!」
        
        袋叩きです。鬼です。人の心を持ち合わせた存在には到底なしえない非情な行いです。
        
        これはおかしい。
        パッと思いつくところでは3つぐらいの意味でおかしい
        
        ・傷口にハバネロペッパーを塗るなんて意味不明
        ・お説教をする筋合いじゃないはず
        ・私だって、いて、いい。
        
        
        > ・傷口にハバネロペッパーを塗るなんて意味不明
        
        痛いだけです。傷が治るわけでもなんでもない。
        そして痛いのはなぜかと言えば、傷があるから、に他なりません。
        ハバネロペッパーを塗る側の人間は、それをわかってて、やっている。
        不満を不満だと感じるのは "我を張っている" からなのだ、というご高説を理解せしめるための措置?
        いいえ。ただ痛いだけだと思います。
        おそらくこのご高説によると、傷を傷だと思うのは "我を張っている" がゆえの思い込み、であって、
        その思い込みが正されれば、今まで傷だと思っていたものが消滅して、アラ不思議、気分爽快! ということになる予定なのであって、
        そうならないのはまだ性根を叩きなおし足りんからなのだァー! ペッパー攻撃ィィィ!
        
        うん、だから、話がぐるっと一回転、ねじれてますよね。
        傷が確かにあるってことがわかっているから、この「攻撃」が効果を発揮するということもわかる。
        だから、そもそも、こんな攻撃を繰り出すということは、確かに傷ついているというをわかってるはずなんです。
        その上で「そんな傷は気のせいぃぃぃぃぃ!」というのだから、これはもう、kiが来るっていらっしゃる。
        
        そのご高説に「納得」したとしても、傷が「なかったこと」になるわけではない。ただちに治りもしない。消滅もしない。
        そして実際のところその「納得」の中身は「反論すると余計怒られそうだから黙って首を縦に振っておく」というものなのではないでしょうか。
        コミュニケーションが成立してない。
        
        
        > ・お説教をする筋合いじゃないはず
        
        何か、こう、「深淵なる真実に到達したZE!」
        ってな気分になる。なってしまう。
        一種の「転換」を軸とした認識だから、その「転換」の前後で、景色が 180度違って見えてくる。
        そういう種類の認識。手に入れることで調子に乗ってしまいやすい。そういう性質があるように思います。
        
        「この認識に到達した私に言わせれば、いまだに以前の私と同じような不満を口にしている連中は "わかってない"。
          ゆえに、この私が "わからせて" 差し上げよう! ぬははははは!」
        
        
        新たな認識に到達して舞い上がるのはいいとして、
        その酔っ払った状態で他人に絡んでしまうと、おかしなことになるのだと思います。
        
        この認識がそれなりに重大なものであることは認めるとしても、
        人に言われて受け入れるような性質のものではないような気がします。
        自分で気が付いて、選び取る性質のものではないか?
        
        よく知らない人から手編みの毛糸のパンツをプレゼントされてしまうようなもので、
        そんなものは履けない。
        「あったかいZE~!」って言われても。
        
        そして、この態度だと、不満を訴えている相手の気持ちを無視することになってしまっているのではないか?
        相手が不満を訴えていることに便乗して、つけこんで、スパラシイ認識を売り込んでいるのであって、
        立場を変えてみれば「私の話を聞いてくれない」という事実になる。
        
        それでいて、おそらく、そのような意義申し立ては受け入れられない。
        なぜなら、スバラシイ認識を売り込んでいる側は自分が正しいと思っているから。
        どんな理由であれ、意義を申し立ててくるなんて、「やっぱり、まだまだ、わかってないのね!」となる。
        挙句に「こうなったら、やっぱりハバネロでおしおきしなくちゃね! ドゥフフ……」となる。
        
        周囲に助けを求めても「あなたのためを思って言ってくれてるのよ」「人の好意がわからないの? (=やっぱりダメな子ね)」
        しかも言っていることだけを見れば「正しいのはあの人(お説教er)の方」ということになる。四面楚歌。孤立無援。
        
        不満を訴えた側としては、
        うっかり弱みを見せてしまったがために、おかしな人に絡まれてしまった、というストーリーになるのではないでしょうか。
        そのおかしな人がいかにご立派かは知らないけれど、
        そのご立派さに私が巻き込まれるのは理不尽なことです。
        
        
        > ・私だって、いて、いい。
        
        やっと言説そのものの内容についてです。
        
        もともとはどんな話だったか?
        「地」として無限の愛が横たわっており、その上にさまざまなしがらみが「図」として乗っている。
        という話でした。
        
        私が彼に対して抱いている「嫌い」「許せん」「靴ヒモほどけろ」などといった恨みの感情は、
        利害関係の対立の上に生じてきた後天的なものであって、もともとあったものではない。
        もともと何があったのかと言えば、それは素朴にして無限な愛でありましたのでした。
        
        それ以上のことは言っていない。
        
        強いて言うならば、
        たまにはそのことを思い出してみると、恨みの感情でつかれた心にひとときの安らぎが訪れるかもしれないよ、
        ぐらいのことでしょうか。
        
        これは決して、問題解決の手法ではない。
        もちろん「私」がいなくなれば「関係」も消滅するから「関係」の上に構築されていた「恨みの感情」も消滅する(はず)。
        ただ、それは問題解決のために、この話にもとづいて提案され得る、対処案の1つ、に過ぎないのであって、
        この話から必然的に導き出される唯一の真実、というわけではない。断じてない。
        
        それどころか、問題解決の手法として用いよう、という発想は、すでに「図」の内部に軸足を置いた発想です。
        関係が絡み合う「図」の外側に「地」は あって、そこに目を向けてみようか、ということだったはずが、
        問題解決の手法として持ち出してしまっては、元の木阿弥です。
        
        仮に問題解決の手法として用いるにしても、やっぱり話はおかしい。
        地であるところの「無限の愛」の対象には「私が嫌っている彼」のみならず「私」も含まれているはず。そういう定義のはず。
        「私」だけがそこから除外される特別な存在、ということはあり得ない。
        
        もしかすると、この認識が引き寄せかねない「我を張るのがイカンのだ!」というお説教は、
        そもそも、出自が違うのかもしれません。
        あ、なんだか、そんな気がしてきました。すごく、そんな気がしてきました。
        全く出自の違うお説教が、この認識に便乗して、場を乗っ取りに出現した。
        むしろそう考える方が、事態をより正確に見ていると言えるような気がする。
        
        > 「我を張るのがイカンのだ!」というお説教
        
        大体これって、真に受けると、「私」が無限にガマンしなきゃいけないことになる。
        そんなのは絶対におかいい。
        「私」にガマンを強いているのは誰だ! だまされないぞ! うがー!
        
        
        > これは決して、問題解決の手法ではない。
        
        じゃあ問題はどうやって解決すればいいのかと言えば、
        それはまた別の話なのですね。どうやら。
        なんだよー、けちー。
        もったいつけたようなことをさんざん言っておいて、結局それかよー。大人ってズルい!
        
        ごめん。ごめんね。
        どうすればいいのかな?
        私も一緒に考えさせてくれるかな?
        
        
        
        > 私も一緒に考えさせてくれるかな?
        
        なるほど。これですね。
        究極の解決方法なんて誰も知らない。
        だからこそ、全員の問題なのだ。
        そこに自他の区別はない。
        
        
        何か、こう、説教じみたことを言って嫌な感じになるのって、
        何が嫌な感じなのかと言うと、たぶん、
        「それはアンタの問題さね! あたしゃ知らないよ!」
        という突っぱねた態度が嫌な感じなのだと思います。
        
        いや「アンタの問題」なのは確かにそうかもしれなくて、
        突っぱねるのは、別に、突っぱねてくれて全然構わないと思うんですけど、
        表面上「私はあなたのために言ってあげてるのよ?」という善意を装っているところがイヤラシイ。大人ってズルい。
        
        「正しいこと」を言って「いちぬーけた!」の宣言とする。
        自分だけは問題の外側にいるつもりで「モノをわかった大人の態度」で、苦しみの渦中にいる者を「わかっていない子供」と見下す。
        
        この宇宙に一人でも苦しんでいる人がいれば、
        それがどんな苦しみであれ、それは私の問題でもある。
        本当はそのはずなのです。
        
        「本当は」というフレーズが恣意的なものであることを承知の上で、敢えてもう一度言いましょう。
        本当はそのはずなのです。