「天皇陛下に申し訳ないでしょ!」と言われても困る。
困りますよね?
どう困るのか?
意味がわかるようでわからない。
それでいて、何か叱責されているらしいことだけは明確に伝わってくる。
何か私は悪いことをしたらしい。
そして、それが、何らかの理由で「天皇陛下に申し訳ない」ことであるらしい。
この「意味のわからなさ」の微妙な塩梅がポイントなのだと思います。
そのおかげで、このフレーズの汎用性が増しています。どんな場面でも大体使える。使えてしまう。
たとえば、あなたが給湯室を出るとき、うっかり照明の電気をつけっぱなしにしてしまった。
そこを先輩が見咎めて言う。「天皇陛下に申し訳ないでしょ!」
そしてあなたは「すみません」と言って給湯室に後戻りして、照明の電気を消してくるしかない。
一体何がどうして「天皇陛下に申し訳ない」のか? その脈絡は全く不明ながら、
文脈上、叱責を受けていることだけは明確にわかる。そして文脈上、反論の余地が無い。
あくまでも「文脈上」反論の余地がない、のであって、
交わされた言葉の上では、「どうして天皇陛下に申し訳ないのですか?」という議論の余地は充分すぎるほどある。
だけれども、やっぱり「文脈上は」反論の余地がない。
だから、もしそんなことを言おうものなら、先輩からさらなるお叱りが飛んでくるであろうことは火を見るより明らかです。
もちろん、どのように「天皇陛下に申し訳ないのか」について、一応の説明は可能なはずです。
たとえばエネルギーを無駄遣いすることは国益に反することであり、すなわち国家の象徴たるかのお方に申し訳ない、とか何とか。
もしあなたがその先輩に食い下がって質問すれば、そんなようなことを答えてくれるかもしれません。面倒くさそうな顔で。舌打ちなんかしながら。
そして、この時点であなたは完全に「非常識でうっとうしいやつ」です。
ここでの「天皇陛下に申し訳ないでしょ!」というのは人を叱責するときの決まり文句なのであって、
別にこの先輩がそっち方面の思想を信奉する活動家というわけではないのだと思います。
この先輩だけじゃなく、あなたの身の回りの人たちはほぼみんな口をそろえて、何かを叱責するときには「天皇陛下に申し訳ないでしょ!」と言うでしょうけれど、
彼ら彼女らの誰一人として、その言葉を言葉通りの意味で言っているのではない。
あくまでも文脈に即してそのように言っている(に過ぎない?)。
そして「文字通りの意味」に疑問を感じて「どうして天皇陛下に申し訳ないの?」などといった議論を彼ら彼女らは好まない。好まないどころか執拗に避ける。
そのような議論をしようとすると「反抗的」「理屈っぽい」「子供っぽい」などの拒絶反応が返ってくることが常です。
さて、以上は たとえ話のようなものだったのですが、
なんとなく、どういう種類の話か、わかりますよね?
たとえを使わずに具体的にいうと、アレです。例のアレです。
みんなの超大好きなあの言葉。あぁ、言いたくないなぁ。
でも言わないと話にならないので、小さな声でそっとささやきます。
いいですか? 一度しか言いませんよ? では言います。これです。amae
あー、やだ。やだやだ。やだったらやだ。
おいら、この言葉大っ嫌いです。全身に蕁麻疹が、いっそのこと本当に出てくれるとわかりやすいのにな、というぐらい嫌いです。
何かっていうと○○の一つ覚えみたいにこの言葉で話をぶった切って、それで何かモノがわかってる人、みたいな顔をして
周囲の人間と「ですよねー?」と互いに顔を見合わせて、へらへらと笑いながらいつの間にか全然違う話題に興じている。
そんな方々のお美しい顔が目に浮かぶようです。
この言葉からはそういう放射線が出ていて、直接取り扱うことはできないので、
以降「Aワード」と称することとします。
さて。Aワード。
要は前半の天皇編と同じで、意味がわかるようでわからない。
だからこそ異常に汎用性が高い。
言葉そのものの意味よりも文脈に依存した使い方をされる。
使い道は、何かを叱責するとき。
もしくは、あまり市民権を得ていない意見や行動を攻撃するとき。
あえて「攻撃」と言いました。「批判」という言葉にしようかと思ったのですが、
やっぱり「攻撃」と言い換えました。
うん。「攻撃」なんですよね。
あるいは「悪口」。それも、非情に効果的な。
効果的じゃない悪口は、むしろ、それを言った側にダメージが返ってしまいます。
「バカ」とか「クズ」とか「クソ」とか「賞味期限切れのマヨネーズ」とか、
そういう「汚い」言葉は、むしろ言った人間の品性を疑われてしまう。
その点、Aワードは非情に便利です。
「汚い」言葉ということにはなっていない。
むしろ、この言葉を口にすることで、何か世間の道理をよくわかっている大人、という演出になる。
そして相手をその逆に、モノをわかっていない「幼稚」で「未熟」な人間、ということにできる。
周囲の者をも巻き込んで同調させ、攻撃対象を孤立させることができる。
悪口としてこれほど効果的な言葉は、なかなか他にないのではないでしょうか。
ついつい乱用したくなってしまう気持ちもわからなくはありません。
だって簡単ですもんね。
気に入らないことがあれば単純に「それって [Aワード] だよ」で済む。
言われた側に効果的に精神的ダメージを与えることができる。
相手を「モノをわかっていない "幼稚な" 人間」の側に落とし込みつつ、
同時に自分は「モノをわかっている側」という安全地帯に逃げ込むことができる。
議論を吹っかけられても大丈夫。そもそも論点をずらしているので、相手の攻撃は空を切ります。ドラクエでいうマヌーサです。
たまに反撃を食らいそうになっても「やっぱりキミって [Aワード] てるところがあるよね」などと撹乱すればオッケーです。必勝コンボ。
> そもそも論点をずらしているので、相手の攻撃は空を切ります。
たとえば、次のようなケースを考えてみましょう。
あなたは今日、どうしても外出しなければならない用事がある。
でも今日は朝から雨が降っている。風も強くて寒い。
しかも昨日は別の用事があって疲れている。
そこであなたは思わずこぼしてしまった。
「あぁ~、出かけるのイヤだな~」
すると! それを耳ざとく聞きつけたあなたの同居人が、待ってましたとばかりに舌なめずりをして言うのです。
「それは [Aワード] ってもんだよ」
うがぁ! やられたぁ!
クリティカルヒット!
あなたは精神的ダメージを受けてのたうち回る。
HPは残り一桁だ。さぁ、どうする?!
それでも人生は続く。
おかしいんですよね、そもそも。
天気が悪くてしかも疲れてるときに出かけるのがイヤだな、と思うことが、どうして [Aワード] なのか?
あくまでも率直な感情の吐露であって、だからといって [Aワード] であることには、全然ならない。
これがもし「私の代わりにあなたが行ってくれて当然でしょ?」とか、
「天気が悪くて疲れてるんだから、出かける用事をサボってもオッケー」とか、
「そのせいで私が受ける不利益は、同居人のあなたが肩代わりしてくれて当然でしょ?」などと言い出せば、
そのときは [Aワード] を撃ち込まれても仕方がないかもしれない。
でも、別にそんなこと、一言も言ってない。
それとも率直な感情を吐露したこと自体が [Aワード] 攻撃の対象? いいや、それは嘘だね。反撃に対する反撃だね。あたしゃダマされませんよ?
> そのときは [Aワード] を撃ち込まれても仕方がないかもしれない。
> でも、別にそんなこと、一言も言ってない。
そういう「間に想定される脈絡」を全部すっとばしてしまっている。
ものすごく粗っぽくて大雑把な状況認識。
この粗っぽくて大雑把な攻撃に「反論」するのは大変です。
まずは、この「ずらされた論点」を修正しなければならない。
つまり、
> これがもし「私の代わりにあなたが行ってくれて当然でしょ?」とか、
> 「天気が悪くて疲れてるんだから、出かける用事をサボってもオッケー」とか、
> 「そのせいで私が受ける不利益は、同居人のあなたが肩代わりしてくれて当然でしょ?」などと言い出せば、
こうした [Aワード] の背景に想定されていると思われる脈絡を、まずは排した上で、
その上でようやく、
「今日みたいな日に出かけるのは嫌だという感覚を抱くこと自体が叱責の対象として不充分であること」
という申し立てにたどり着く。
というか多分、実際にはそこまでたどり着かない。無理ゲーすぎて。
> 背景に想定されていると思われる脈絡
これがね、曖昧なのがね、そもそもね、曲者。
[Aワード] を言ってる側の中で、そこが曖昧なままになっている。
だからこそ [Aワード] なんていう技を使えてしまうわけで、
曖昧だから、曖昧な部分を、恣意的に運用できる。まさか、そこまで計算して曖昧なまま残しておいた、だと?! さてはキサマ、ズルイ大人ですね?
曖昧な部分に突っ込まれても「そんなつもりじゃない」と逃げて、
「でも、あなたって、○○なんでしょ?」と、曖昧さの中から別の「言いがかりネタ」を取り出して
議論の主導権を維持できる。ああ、つくづくズルイ大人だ。修正してやりたいぜコンチキショー。
それでいて、そもそも、あなたの「外出しなきゃいけない用事」は変わりないわけだから、
最終的には、あなたに反論の余地がなくなる。
最初から勝てないようになってる。
というか、なんで「外出しなきゃいけない用事」に便乗して、
同居人があなたを攻撃してくるのか?
もともとの問題、いわばあなたにとっての「敵」は、この「外出しなきゃいけない、逆らえない事情」だったはずで、
そこへ、どういうわけか、同居人までもが加わって、あなたに敵対してくる。
「あなたのために言ってあげてるのよ」と、まるで味方であるような顔をして敵対してくる。
この「逆らえない事情」を解決してくれとは言わない。
だけど、敵に回らなくってもいいじゃないですか。それとも、もともと敵だったの?
ああそうか、もともと敵だったんだね。僕らはいずれこうなる運命だったんだ。
そんな。おかしいよ。何言ってるのさ、そんなのおかしいよ!
どうして僕らが戦わなきゃいけないのさ! 答えてよぉぉぉぉぉぉ!!
「論点がズレている」というのは、こういう意味でもあるのかもしれませんね。
敵対してたわけじゃないはずなのに、いつのまにか敵対関係になってしまっている。
> そのときは [Aワード] を撃ち込まれても仕方がないかもしれない。
> でも、別にそんなこと、一言も言ってない。
言ったつもりがないことを、言ったことにされてしまっている。
そこがツライ。二次被害です。
たとえとしてはさっきの天皇の方がわかりやすいのでそっちで言うと、
別に、天皇に敵対する意図なんか、まるっきりない。
そして叱責を受け入れて行動を改めるにしても、やっぱり、天皇とはまるっきり関係ない。
そのはずなのだけど、いつの間にか、天皇との絡みで話をまとめられてしまっている。
この気持ち悪さ。
反論するにしても、二重の意味で反論しなければならなくなる。
[1]:天皇とは無関係であること
[2]:出かけるのが嫌だと感じることの正当性
本題は [2] なのですが、
インターフェイスとして [1] をおっかぶせられてしまっていて、
その脈絡を通してしか話ができない。
このインターフェイスをかぶせられてしまっている限り、
何を言っても天皇絡みになってしまう。[Aワード]も然り。
結論が見えてきました。
こうした決まり文句を使うことの危険性。
不満や反対意見へのレスポンスとして、こうした決まり文句を使うことの危険性。
2つです。
・本題が何だったのかが見えなくなってしまうこと。
・不必要に敵対的になってしまうこと。
もちろんこの2つは絡み合っています。
本題が何だったのかを忘れなければ、敵対する必要もない。
敵対する必要がないということを思い出せば……あ、こっちの経路は難しいかも。
なんか「どっちが折れるか」という隘路にはまり込んで、結局また本題を見失うかも。
本題を見失ったままでの「和解」は、その「和解」の文脈が、そもそも本題から外れてしまっているのではないか?
だからやっぱり多分、本題を思い出すのが先です。
我々はみな解決が困難な問題を抱えていて、
それは根源的に自他の区別なく全員にとっての問題であるはず。
「自分だけは関係ない」という態度が敵対関係を生むのではないか?
その「関係なさ」を主張するための根拠として「正しさ」が捏造され、
捏造された「正しさ」に基づいて、問題の渦中にある者が「間違った者」として糾弾される。
[Aワード] を使うことは、我々に本題を見失わせてしまう。
もちろんその「本題」は、いつだって解決が困難な問題でしょう。
責任という名のボールを自分以外の誰かにパスして回すゲームが、我々の生きている社会なのか?
笛が鳴ったときにそのボールを持っている人が「負け」。
不幸のゲームだ。
もう、そんなゲームはやめましょう。
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