自分と全然関係ない人のことを「嫌い」とは思わないはず。
誰かに対して「憎い」とか「嫌い」などの感情が生じたとすると、
そこには背景として、自分とその人の間に、何らかの関係が見出されているはずです。
実質的には関係ない相手であっても、その人のことを敢えて「ああいう人って嫌い」などと言うからには、
たとえば以前に似たような人から嫌がらせを受けたとか、
その人の言動が現在の自分の信念や信条に反しているとか、
そういった何らかの形で、いわば「要注意人物のリスト」として自分の中にカウントされているはず。
自分との関係が純粋にゼロであるような人のことは「嫌い」とは思わない。
もちろん積極的に「好き」と思うわけでもなく、いわば「どうでもいい」わけですが、
この「どうでもいい」というのは、どちらかと言えば「好き」に近い気がします。ゼロじゃない。
だって「どうでも "いい"」んですよ?
その人が何を思って何をしようとも "いい" と思っている。反対する気はない。存在を許している。
これには単なる言葉遊び以上の意味があるように思います。
もちろん「この私と無関係である限り」という但し書きがつくわけですが、
関係がゼロである地点には、単なるゼロではなく、緩やかな愛がある。緩やかですが無条件。
一切の関係を排したところには無条件の愛が静かに横たわっている。
無限の空間に無条件の愛が静かに横たわっており、一切の関係は、その上に構築される。
繰り返しになりますが、大事なことなのでもう一度言い換えます。無条件の愛が、我々の足元を支えている。
> もちろん「この私と無関係である限り」という但し書きがつくわけですが、
たとえば、テレビの旅番組か何かでどこにあるのかも知らないような国の人が、
「お金を貯めて結婚して家庭を持つのが夢です」みたいなことを語ってるのを聞いたら、
へぇーそうなんだー。うまくいくといいねー、と、素朴に思ったりもする。
けれどもその人がお金をお金を貯めるためにしているビジネスが私の仕事を奪うような内容だったり、
あるいはその人が家庭を持とうと思って結婚相手として狙いをつけた人物が私の意中の人だったりすると、話は変わってくる。
つまり、こうです。
[A]:私とは無関係な段階では、素朴にその人の幸せを願っている。
[B]:私の利害と衝突する場合に、見過ごすわけにいかなくなってくる。
だから [A]の感覚がデフォルトなのであって、
[B]以降のことは利害の衝突の上に生じてくるテクニカルな問題に過ぎない。
もちろん、そのテクニカルな問題に我々はいつも忙殺されていて、
日常はそれらで埋め尽くされていて、まるでそれこそが宇宙の姿そのもののように思ってしまうこともあるかもしれないけれども、
それはあくまでも条件付で生じてくることであって、元々の有様ではない。
> それはあくまでも条件付で生じてくることであって、元々の有様ではない。
あれ? むしろ逆のようにも見えるかもしれない?
> 「この私と無関係である限り」という但し書きがつくわけですが、
うん、だから図と地が逆なわけですよ。
しがらみが、ぐちゃぐちゃと塗りたくられているキャンバスの中に、ほんの僅かだけ白く残された領域がある。
そこは特殊な例外的な場所のように見えるかもしれないし、事実上やっぱり特殊で例外なのかもしれないけれど、
「それが元々の状態」という事実は果てしなく大きい。その上に全てがある。
> しがらみが、ぐちゃぐちゃと塗りたくられているキャンバスの中に、ほんの僅かだけ白く残された領域がある。
手に負えないことがたくさんあって、
そういう中を生きるしかないとしても、
足元には無条件の愛が静かに横たわっている。
それは忘れなくていい。覚えておこう。
きっと大丈夫。
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