卑屈さが先手をとって開けてくる地平。
「卑屈さ」は、カウンターだと思います。
自分に対する否定的なメッセージを予測して、敷いておく防衛ライン。
「どうせ私は○○○です。わかってますわかってます」
もともとは後手であったはずの自己。後手として想定されていた自己。
自己への否定的なメッセージが先手として想定されている。
そのやり取りを先取りする。待ち構えて迎え撃つ。
先後を逆にする。
主導権を取り戻す試み、と言えるでしょうか。言えるでしょうか? (わかりません)
さて、
このように卑屈さが先手をとることで、どのような地平がひらけてくるか?
あるいはひらけてこないか?
もともとは、自己が否定される場、が想定されていた。
カウンターによっても、それ自体は解消されない。
それどころか、むしろ、強化されるような気がします。
「どうせ私なんて○○ですから」と言ってみせることで、
改めて「私=○○」という図式が肯定される。されてしまう。
この図式を転覆させる目論見 "ではない"。
卑屈さが発露する場において、その前提である「私が否定される場」は、すでに背景として、環境として、変えられないものとなっている。
そこを「変える気はない」。
むしろそれを変えようとすることは、私を否定してきている他者の「思う壺」として、忌避すらされているのではないか?
> このように卑屈さが先手をとることで、どのような地平がひらけてくるか?
> あるいはひらけてこないか?
やっぱり別に何もひらけてこないんじゃないんかなぁ?
少なくとも、主導権を取り戻そうとする試み、とは言えるような気がします。
試みというほど意識的なものではなく、心の叫びという方が表現としては近いかもしれません。
元来「後手」であった。
「否定のメッセージを受ける自己」としての後手。
そのメッセージの発信者ではない。
いつだって自分の望みとは無関係に、外側から飛んでくるメッセージ。
自己が一方的にその「対象」とされている。「対象」という地位に貶められてしまっている。
そうした中での「我(それでも)ここにあり!」という主体性の叫びなのではないか?
「そんなことはわかってるんだよ!」
というとき、
「わかっている」とは、何を「わかっている」と言っているのか?
2通り。
たとえば「バーカ」に対して「そんなことはわかってるんだよ!」という場合、
・私が「バカ」であることは、私にだってわかっている
・あなたがそのように言うであろうことは、お見通しでした。
前者の場合、「私をバカとする価値基準」を受け入れていることになります。
後者の場合は、そうした価値基準を受け入れていることにはならない。否定していることにはならないにしても。
問題は(問題だとすれば)、
実際の現場でなされる卑屈カウンターは、上記の前者と後者が意識化されずに、ないまぜになって行われることが常態であろう、ということ。
おそらく「私をバカとする価値基準」は、あながち無根拠ではなく、それどころか一般に膾炙した常識的なものであることが通常で、
そうした場合、正面からその価値基準を否定するのは難しい。あるいは危険をともなう。
そういう価値基準すら理解できないほどの愚か者、という二の矢を放つ隙を相手に見せてしまうことにもなりかねない。
従って、その隙を隠しつつ、主導権を「ある程度」取り戻す(保つ)、という態度が採用される、されざるを得ない。
> 「私をバカとする価値基準」は、あながち無根拠ではなく、それどころか一般に膾炙した常識的なものであることが通常で、
そして、この価値基準は、あなたの卑屈さによって、ますますお墨付き(前例)を得て、人々へのその支配力を伸ばしていく。
> 卑屈さが先手をとって開けてくる地平。
やっぱり、あんまりないんじゃないかなぁ。どうでしょう。
「我やっぱりここにあり」なのは、いいのですが、
その「我」が根を下ろす場所が、すでに限定されてしまっている。その苦しさ。いかんともしがたい懐事情。
突きつけられた価値基準を、いかに打破していくか。
課題を見出すとすれば、そこでしょうか。
課題? 何の課題?
あるいは、そもそも「否定」が先手として想定されている、その認識が不幸な空間なのではないのか?
一人になることで何が見えてくるか?
自己が「後手」であることが、そもそも間違い?
どうなのでしょう。
自己は本質的に後手であるような気も、一方では、しばしば、する。
卑屈さが生じるのも、そのテクニカルな帰結の一つ?
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