言葉が出てこない。頭が悪くなった?
いや、言葉は出てくるのですけれども、
適切な表現だとは思えずに、引っ込めてしまう。
「これだ!」と思えるような言葉が出てこない。
頭が悪くなった?
それとも欲張りになった? 「もっとうまく言えるはずだ」
それとも臆病になった? 「これは違うはずだ」
思いつく理由。
まずは「頭が悪くなった」説から。
心当たりはあるのです。
人とあまり話さないこと。日本語の音声をほとんど耳に入れなくなったこと。
前者に関しては世間でも頭を悪くする要因としてよく言われていることですよね。
明確な因果関係は不明ながら「そうだよね」と思えるものがあります。
後者について。ここで「音声」と言っているのは、つまり、テレビということです。
日本語を聞くと心が傷つく確率が非常に高いので、避けてます。
その代わり、ネットで英語のニュースなどを視聴する。
理解度の低さというべきか、どうあがいても母語ではないから、ということなのか、
英語で心が傷つくことは今のところあんまりありません。
たまに神経が「ピリッ」と来ることがあるのですが、よくよく見ると、日本人が書いた英語だったりする。
文章の背後に「顔」を想像できてしまうせいでしょうか。
あれ? 音声の話だったのが、いつの間にか文章の話になってますね。頭が悪いので気付かなかったですよー。
どっちでも同じかな? いやいや。音声と文章は根源的に違うと思うですよ。どうだろう? そこまでは違わない? その話はまた今後。
何の話でしたっけ。
あとね、たまに、日本語を英語に変換する回路が脳内に立ち上がって、何にも考えられなくなってしまうときがあります。
思い浮かぶ雑念を、いちいち訳してしまう。
雑念が雑念以上に発展しなくなってしまう。
いっそ英語のままでぐいぐいと考えを進めることができればいいのになと思う。
それを目指したことも過去および現在においてしばしばあるのですが、そうは問屋が卸さない。品切れなんですね。
ああ、やっぱり日本語がおかしい。過去および現在においてしばしば、って何かな? 日本語が不自由な人の日本語じゃないですかこれは?
そういえば、マインドル本文の作業を開始したとき、つまり 2ndヒロ子氏の第一話の本文に取り掛かる前に、自分の日本語に心配があって、
頭を日本語モードに戻す試みとして、日本語の歌を声を出していくつかあるいはいくつも唄ってみたということがあったのでした。
あのエクササイズは功を奏したのかな? どうなのでしょう。
日本語と自分の感情が結びついていることを再確認することはできた、できていた、ような気がします。
ああいうことは、ときどき、しておくと、よいのかもしません。ね。
> それとも欲張りになった? 「もっとうまく言えるはずだ」
> それとも臆病になった? 「これは違うはずだ」
マインドルの本文の作業をするようになったことの影響を疑っています。
「うまく言おうとし続けている」わけですよ、本文では。
それでいて、「間違ってもいい」。なぜか? フィクションだから。
その時点で、その登場人物が、そのように思った、そのように言葉を発した、ということであって、
仮にそれが「間違って」いても、それも含めて「その子」なわけです。
あらゆる些細な言動が「その子」を形作っていく。人物とはそうしたプロセスを含んだ動的な全体なのです。
隠す必要も取り繕う必要もない。フィクションとは空事ではなく、ありのまま、なすがまま、ということなのであります。おお、なるほど。勉強になったぜ先生!
しかしながら、この態度をいわゆる普通の文章を書くときに持ち込むと、おかしなことになってしまう。
どんなふうに?
> 「うまく言おうとし続けている」わけですよ、本文では。
> それでいて、「間違ってもいい」。なぜか? フィクションだから。
「うまく言おうとする」からこそ「間違い」にも気付く。自己ツッコミが先鋭化する。
先鋭化した自己ツッコミにさらされて、その挙句「どうしたって、こうでしかありえない」ところに漂着する。
その漂着点は、それでもやっぱり果てしなく「間違い」なのだけど、そこにしか立てない。
認めるしかない。「間違い」を認めるといってもそれは「ごめんなさい」ということではなく、
間違うことが正しい、とでも言うような意味で、空間を歪めてまっすぐに進む。
それはどうしたって真っ直ぐではないのだけれども、空間を歪めたからにはもうどうしたって真っ直ぐ。困ったな。
ああ、なるほど。
> どんなふうに?
いわゆる普通の文章を書くときには、空間が歪まないからだ。なるほど!
だから、空間を歪めるメソッドで言葉を降ろそうとしても、
降ろしどころがない。
言葉が捕まらずに逃げてしまう。
> いや、言葉は出てくるのですけれども、
> 適切な表現だとは思えずに、引っ込めてしまう。
> 「これだ!」と思えるような言葉が出てこない。
そりゃそうですよね。
そんなこと気にしてたら、何にも書けませんて。
いやいや、気にしたいじゃないですか。気にしましょうよ。おおいに気にしましょうよ。
あるいは順番が逆なのではないか?
「これだ!」と思うような言葉を思いついて、それを書く、
のではなくて、
思いついた言葉を書く、書いてみると「なるほど、これだ!」と思わざるを得ない。
そうかも。そんな気がしてきました。
ただ、それって、危ないことだとも思うのです。
言葉が一人歩きしてしまう。
リアリティはどちら側にあったのか?
「思い」があって、それを「言葉」に表したのか?
「言葉」があって、そこに「思い」が見出されたのか?
前者は自己の発する言葉、後者は他者が発した言葉、と言えるでしょうか。
もう一度確認。
前者は自己の発する(現在形)言葉、後者は他者が発した(過去形)言葉。
「私(自己)」においては、その「思い→言葉」の変換プロセスは現在進行形。
それに対して他者が発した言葉は、一旦私(自己)に受け取られて、それから、その背後に他者(がその言葉にこめた思い)が見出される。時間軸の矢印が過去向き。
だから、思いつきに任せて言葉を書き散らしてしまうのは、
そこにあったはずの自己を見失ってしまうことになるようで、危ない気がします。
言葉には常に警戒していたい。
それは本当に私の思いを表現している言葉になっているか?
言い換えれば、それは、常に私に生じた思いを正確に見極めようとする態度を保つということです。
言葉はいつでも他人です。
「リンゴ」という言葉があるから、この世には「リンゴ」なるものが存在しているということになっている。
そんな言葉があるから、果樹園では「よりよいリンゴ」が栽培されねばならないし、
スーパーの果物売り場には「リンゴぐらいなきゃおかしい」ということになってしまう。
「赤くて丸い食べられる木の実」が存在しているだけでは、こうはならない。
「リンゴ」という言葉で、「私」と「あなた」の間に共通の認識が約束されて、「みんなが知ってるそれ」というフィクションが生じる。
それは「私」でもなく「あなた」でもない。「私」と「あなた」の「間」に生じる。
私にとってもあなたにとっても他人であるような、絶対的な他人。
「その言葉があること」をアテにしていては、いけない。
どういけないのか?
檻から出られない。
他人としての言葉が林立するこの世界の檻の中で、何かを知っているつもりになって、
宇宙の果てから反対側の宇宙の果てに挟まれた内側で、途中で記憶を失くしながら、いつまでも運動を繰り返す。
私は檻から出たい。
どうすればいいか? 空間を歪めるしかない。
なるほど。やはりそこに戻ってくるのですね。
|