苦情を申し立てることを抑圧する決まり文句が多すぎる。
いや、多くはない。数が多いのではない。頻度が多い。
数はどうかといえば、むしろ少ない。ワンパターン。
例えば「自分は迷惑をかけてないと言い切れるのか?」
根本的にピントがずれています。
苦情を言う、つまり被害を訴えているのであって、
「どっちの方がより迷惑をかけていないか」の比べっこゲームを挑んでいるわけではない。
「苦情を言う」ということ全般について、同じようなことがありますね。
とにかく、苦情がいいにくい。
「自分だって人に迷惑をかけているくせに」
そういう問題ではないのです。
欠点の指摘合戦を挑みにきたのではないのです。
「お互い様」と言う言葉がありますが、苦情を抑圧するためにこの言葉を持ち出すのはおかしい。
お互いに悪いなら、お互いに改善すればいい。
それがどういうわけか、お互いに悪いなら、両者とも改善しなくていい、ということになってしまう。
あなたがいくら悪くても、だからといって、私の悪さが減るわけではない。
私がいくら悪くても、だからといって、あなたの悪さが減るわけではない。
「自分だって人に迷惑をかけているくせに」
これを真に受けると、非の打ち所のない聖人君子じゃないと、人に苦情を言ってはいけないということになる。
そして、非の打ち所のない聖人君子は人に苦情なんか言わない、ということにもなっている。
どう転んでも、苦情を言ってはいけない、という完璧な理論武装が構築されている。一体誰が考えた?
どうしてこうなってしまうのでしょう?
自分の経験から言っても、ネットで体験談を見ていても、上記のような「決まり文句」で苦情を抑圧される事例が非常に多いようです。
実際に被害を受けて苦しんでいる、その人の内的な体験としての「苦しみ」そのもの、を認めようとする態度が欠落している。
その一方で、「全体的(表面的)な秩序」という体裁を維持すること(波風を立てないこと)の方が優先される。
個人よりも全体の方が優先される社会、ということでしょうか?
やはり、人間そのものをしっかりと見る、向き合う、そういう態度・視点が必要なように思います。
おそらく、それは、我々の社会に決定的かつ根本的に欠落しています。
とにかく「人間」が無視される。「心」が無視される。
この社会は、どうやら、そういう社会のようです。
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